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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《まじわり》をめぐる或る対話)

まじわりをめぐる対話とは?

このQ&Aのポイント
  • 人間のコミュニケーションの本質を問う対話について考える。
  • 過去の思い出や記憶について、自分自身の存在や他者との関係を探る。
  • 言葉が届かない疎外感や孤独について考え、他者への語りかけの重要性を強調する。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.12

こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。 昔,来日し、テレビ番組に出演したマザーテレサの意外な言葉が印象に残っています。彼女は、活動の意図を問われ「私は社会を変えようとは思っていない」と淡々と答えました。 彼女の話はだいたいこんな感じでした。 マザーテレサは、路上に餓死者があふれているインドに行ってその人たちを収容し看病する施設をつくりました。インドにいったとき彼女はポケットに小銭があるくらいで寄付によって運営される施設ですから、十分な食料も与えることもかなわず、看病の甲斐なくほとんどの人が亡くなります。無力を感じているとき、今まさに息を引き取ろうとしている人が「ありがとう」という言葉を残し、幸福な表情で亡くなりました。この社会から見放され、孤独を感じ、社会を恨んで路上で死んでいくはずだった人が、死に臨んでこのような言葉を残すことが信じられませんでした。彼女は逆にそれで自分が救われたことを感じたんです。 社会関係を切り結んでいて、孤独を実感していないはずの、マザーテレサのような人でも、人との交わりで、自分の心のうつろな部分を満たされることがある。この瀕死の路上生活者と交わろうとして、その空虚を心身ともに満たしてあげたいという思いがからまわりしているその状況から、助けたのは路上生活者、助けられたのはマザーテレサという話です。 この路上生活者は孤独だったのか。もちろんそうだけど。孤独を知り尽くした強い人だという感じがします。社会関係を切り結ぶことのできない人ではない。むしろ見事に結んだ人である。「ありがとう」と言う言葉。無力ではない。そんなふうに思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご文章をいじってコメントを書き込むという作業は行ない得ません。  なんだか出しゃばり過ぎるとは思うのですが いちおうすでに書いた文章ですので それを使うかたちを取ります。  ☆☆ (趣旨説明欄)~~~~~~~~~~~~~~~~  (1)  ・・・   むしろ言葉が届かない何かがそこにあって  この何かを わたしが 飲み込むなら   それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。  その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ  自己表出へと促し 自己を表現せしむる。  かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。  あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか   それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   文体相互の交響曲がひびく。  鳴り響くように持って行きましょう。  あともあなどすさん ありがとう。  こんにちはでした。ご回答をありがとうございます。  ときどきお会いしましょう。

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その他の回答 (11)

回答No.1

こんにちは。 ☆ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。  そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。 ◇過去の記憶をもとに、推測、計算された私の姿。 鏡などで自分の顔を見たことがあれば、それを想起すればいい。 自身の背中を見たことがなくても、他者の背中の姿を見たことはあるので、それをもとに推測、計算すればいい。 脳は、これくらいのことは、簡単にできちゃいます。朝飯前です。 ☆ 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。 ◇情報の欠落は、他の情報で補えばいいだけなので、これは、直接、孤独感や疎外感に結びつかないのでは。 疎外感や孤独感は、他者とのコミュニケーションや意思疎通がうまくいかないときや、「自分が考えるほどに、自分の存在が他者において重要でないのでは?」という疑念などが生じたときに生じるのだと思います。 もっとも、 「なんで、オレは、こんな下らないヤツラと一緒にいるんだ」 というときにも、 ヒトは孤独感や孤立感に襲われたりしますけれど。 ☆ (1) 【き】 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。 ◇「他者への語りこそが」→「自分自身への語りこそが」 ではないですかね。 そして、 すべてを受け入れ、全部ひっくるめて愛す。 これが大切なのでは。 全部ですよ、全部。 私だけでなく、世界全部を愛さないと・・・。 聖人君子でもないわたしには、とてもできない真似ですが。 ではでは。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  過去の記憶をもとに、推測、計算された私の姿。  ・・・   脳は、これくらいのことは、簡単にできちゃいます。朝飯前です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶんそうだと思うのですが わたしの対話の相手が言っていることは 自分がその像をつくろうとしたのではなく いきなり誰かの後ろ姿が見えて よく見るとそれは自分のであった。というような場合を言っているのではないか。  ただし けっきょく同じような事態ですかね。そういう経験の積み重ねにおいて いきなり知らない姿が映っても 同じようなことですかね。  ◇ 情報の欠落は、他の情報で補えばいいだけなので、これは、直接、孤独感や疎外感に結びつかないのでは。  ☆ これはですね。その欠けている情報というのは よそから得られるものではなく そうではなくたとえば 自分の出生の秘密にかかわることであったりするのではないかと思われます。  親に尋ねるという意味では ほかの人からの情報に俟つ状態ではありますが   ◆ 【き】 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感  ☆ という場合に その欠落を埋めた情報が つまりその言葉が 欠落感――疎外感(孤独感)――じたいにとどいたか? と問うているとは思います。  ましてや 親はすでにこの世にいないという場合も考えられます。  情報がもたらした・それまで知らなかった事実をあらたに胸にいだいて 孤独なる事情がどう変わったか? といったことではないかと見られます。  ☆ (1) 【き】 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。  ◇ 「他者への語りこそが」→「自分自身への語りこそが」 / ではないですかね。  ☆ いえ。これは 《われ( A )の心の中の孤独感というのは 言葉は届かない何かをそこに住ませてしまっているのだが 他者( B )がその何かを認めてくれたとき初めて その他者なる相手( B )に対してわれ( A )は語りかけることが出来た》と言っていると捉えます。  すなわち 《われ( A )が 他者( B )に向けて初めていわば人間としての――孤独感を打ち破るほどの――語りかけという行為が われみづからの疎外感を埋め合わせてくれるのだ》と言おうとしているようです。  すなわち:  a. 他者が声をかけてくれただけでは疎外感にとどかない。  b. 疎外感には《言葉の届かない何かがある》というその何かを 声をかけてくれた他者がみとめてくれたとしても それだけでは 疎外感は埋め合わされない。  c.  みとめてくれたことを受け留めて その相手にこちらから声を返して語りかけた。そうしてやっと――自分の発話行為をつうじてやっと―― 疎外感に住む何かが要請していたものを得ることが出来た。埋め合わせるものを。  ☆ もしそうだとすれば ほとんど自己の内における自己と自己との対話のようである。ゆえにそれは  ◇ 「他者への語りこそが」→「自分自身への語りこそが」 / ではないですかね。  ☆ と推測されうるとは思います。たぶん それでも 実在の他者は はっきりと声をかけてくれる存在として 必要なのだと言っていると思います。  だから どうなのか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  そして、  すべてを受け入れ、全部ひっくるめて愛す。  これが大切なのでは。  全部ですよ、全部。  私だけでなく、世界全部を愛さないと・・・。  聖人君子でもないわたしには、とてもできない真似ですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん その《他者》がいて はっきりと接触をもった。これが あたかも心の窓を開けたかのように   ◇ すべてを受け入れ、全部ひっくるめて愛す。  ☆ ということの出来る光の筋道を指し示した。のかも知れないと考えます。  いえ。まだ いくつかの解釈があるのかも知れません。  【あ】から【き】までの自己表現に対して みなさんもご自分の言葉でこたえてやってください。

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