- ベストアンサー
まじわりをめぐる対話とは?
atomonadosの回答
こんにちは、ぶらじゅろんぬさん。 昔,来日し、テレビ番組に出演したマザーテレサの意外な言葉が印象に残っています。彼女は、活動の意図を問われ「私は社会を変えようとは思っていない」と淡々と答えました。 彼女の話はだいたいこんな感じでした。 マザーテレサは、路上に餓死者があふれているインドに行ってその人たちを収容し看病する施設をつくりました。インドにいったとき彼女はポケットに小銭があるくらいで寄付によって運営される施設ですから、十分な食料も与えることもかなわず、看病の甲斐なくほとんどの人が亡くなります。無力を感じているとき、今まさに息を引き取ろうとしている人が「ありがとう」という言葉を残し、幸福な表情で亡くなりました。この社会から見放され、孤独を感じ、社会を恨んで路上で死んでいくはずだった人が、死に臨んでこのような言葉を残すことが信じられませんでした。彼女は逆にそれで自分が救われたことを感じたんです。 社会関係を切り結んでいて、孤独を実感していないはずの、マザーテレサのような人でも、人との交わりで、自分の心のうつろな部分を満たされることがある。この瀕死の路上生活者と交わろうとして、その空虚を心身ともに満たしてあげたいという思いがからまわりしているその状況から、助けたのは路上生活者、助けられたのはマザーテレサという話です。 この路上生活者は孤独だったのか。もちろんそうだけど。孤独を知り尽くした強い人だという感じがします。社会関係を切り結ぶことのできない人ではない。むしろ見事に結んだ人である。「ありがとう」と言う言葉。無力ではない。そんなふうに思います。
関連するQ&A
- 孤独
“孤独に耐えることができなければ、自己を持して生きることはできない。” というようなことばに接した記憶があります。 質問: 1. 人は孤独でいられるでしょうか? 孤独に耐えることはできるでしょうか。 2. 本当なる孤独ってどんなものなのでしょう? 3. 孤独に耐えられないと,人は自己を持することはできないでしょうか? (人は弱いものです。なるが故に自己を持せない,私はそれも是認しますが。) *ちょいと敷衍(1);確かに繁華街等での孤独(The Lonely Crowd)ってある意味で、他者の無視ですよね。 *ちょいと敷衍(2);独身で独り住まいの人も多いし、いわゆる孤立した孤老という人も多い。 たいへん寂しいでしょう。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- ●対話ができません●
●対話ができません● 2歳1ヶ月の子がいます。言葉は大変遅く、現在 単語は100くらい、ママ、パパ、お茶なども知っています。 が。肝心な時に使わないのです。 私が服を着替えてクローゼットルームからでてきた瞬間や エレベーターに遅れて入ってきた私を見て、 ママ~と笑って言ったりはしますが、困った時や、 何か伝えたい時などには全く。。 (ママという単語が皆無の日も沢山あります。 普通、考えられませんよね?!) 喉が渇いても、不機嫌そうな顔で私にまとわりつくか 転がっていた水筒を私に握らせるとか 自分で台所に行き、冷蔵庫前をフラフラしているかで 決して「お茶」や「ママ」とは言わないのです。 結局、私が「お茶飲む?」ときくと、にっこり笑い 「お茶!」と言い、あげる・・という感じです。 (先回りして、何でもやってしまう事はないです) 上の子も言葉は遅かったですが、何か要求がある時は 「ママ」を普通に使い、なんとか伝えようとしていたと 記憶しています。 また「嫌」も言えるけれど使えません。 例えば食べ物など嫌なものを差しだされた時は、 首をそむけるか、人の手を押し返すかなどしかしないのです。 この、、押し返すという場面も大変多く、また 「どうぞ」も言わず、人の手に握らせたりするので 我が子ながら、凄く違和感を感じずにはいられません。 単語が言えても、使えない、、。 やはり何かの、、障がいが疑われるのでしょうか?
- ベストアンサー
- 育児
- 自分が受け入れられない
大学生の女です。よろしくお願いします。 最近気になっている事があり相談させて頂きます。 ここ最近、寒いせいかどういうわけか、ひとりになるのがこわくて疲れていても無理矢理人を誘って一緒に居るようにしていました。以前はどちらかといえば一人で趣味にあけくれる方が好きなタイプだったのですが、ここ数ヶ月気付いたらひとりで時間を過ごすのが怖くなってしまいました。 怖いから誰かといたいという自己中心的な理由で人と会っているので勿論あまり楽しめない事が多かったです。 この孤独感がどこから来ているのかよくわからないのですが、同時に、最近自分の事が嫌いで仕方ないのです。昔からそんなに自分の事が好きではありませんでしたが、特に最近は消えてしまいたいと思うくらい自分が嫌いです。自分には価値がないと思ってしまいます。 自分でもこれ以上自分を受け入れられなくなったらちょっとヤバいかなと最近思うようになって、どうしてこんなに憂鬱な気分なのかを考えていたら、幼少期に父から「お前は生まれてこない方が良かった」と言われた記憶がふとよみがえってきました。 以前からこの記憶はたびたび不意に思い出してしまう記憶だったのですが、最近の憂鬱な気分の事もあり、ここ数日はずっとこの「産まれてこない方がよかった」という言葉が頭の中をぐるぐるとしてなかなか離れてくれません。だんだん自分でも「本当に産まれてこない方が良かったのかもしれない」と思ってしまいます。 言われた当時は何も感じなかったのですが、今になって考えると私を創った親から自分の生を否定されたわけですから、なんだか、どうしていいかわかりません。 私が自分を受け入れられないのは父のこの言葉の影響があるのでしょうか? 親の言葉が自分の心の傷になっているのか、自立できない自分が自立できない事を親の言葉のせいにしているのか、よくわかりません… 孤独感、自己嫌悪、劣等感、完全に消えてくれる日は人間である以上来ないとは思いますが、どうすれば憂鬱な気持ちをはらす事ができるのでしょうか? 自分を受け入れるにはどうすればいいのか、よければアドバイスください。
- ベストアンサー
- 心の病気・メンタルヘルス
- 孤独感と疎外感の原因がわかりません……
孤独感と疎外感の原因がわかりません…… 10年ほど鬱を患っており、心療内科への通院もしています。 慢性的に孤独感・疎外感に襲われ、どうしようもなく不安定な気持ちになってしますが、その理由がわからないのです。 多くはないですが付き合いの長い友達もいるし、片親ですが母は自分を愛してくれていると思います。 友人の一人とは数年一緒に暮らしてもいます。 幼少の頃にイジメなどに遭った事も他人へのイジメに加担した事もありません。 なのに、とても自分は独りだと感じており、なんだか世の中に馴染めないのです。 mixiやTwitterなどもやっていましたが、他の人達はとても楽しそうに見えて、自分は世界の外にいるような疎外感すら感じます。 みんな誰とでも楽しいコミュニケーションをできているように見えて、劣等感にまみれてしまう…。 だから、誰とでも自然にコミュニケート出来て、広い交友が出来る人に対してとてもコンプレックスがあります。 自分は思った事を言おうとするとなんだかカドが立ってしまうので…。 これは、学生時代にも感じていました。 ただ、話しかけられれば人とも話すし、自分に優しくしてくれる人も居るのです。 ただ自分が我が儘なだけなのでしょうか…。
- ベストアンサー
- 心の病気・メンタルヘルス
- アドラーの共同体感覚と孤独や人は皆一人だという考え
アドラーの共同体感覚。 人間は皆、一人だ、孤独であるという考え方。 この二つは相反する気がするのですが、皆さんはどう思いますか。 自分は常に、孤独感や集団にいても疎外感を感じます。 そして常に不安感、左半身の痛みや痺れがあります。 おそらく、無意識に母性のような優しさを求めていて、 当たり前ですが、他人や世の中からは得られません。 また、親しい人がしてくれた行為や優しさが、その基準に満たないと感情で感謝しようと思っても、無意識にうまく受け取れない 、余韻が長く残らないようです。 そして家族も皆死んでいるのでパートナーを見つけ家族を作るとかでないと埋まりません。 しかしならがら、必要な優しさや人が無いなら無いで、一人でやるしかないのですが、 何故こんなに自分は孤独が強いのか手放せないかと悩んでいます。 他の人は常に無意識に共同体を感じて、その中に入っているのか? 自分は人間は一人だといっている人達は、みな家族やパートナーがいるので、得ている人達が本当の孤独を知らないだけだと思っていますが、これは違うのでしょうか。 長くなりましたが、共同体と孤独感についてあなたの考えを教えてください。
- 締切済み
- アンケート
- 自己愛が強い人は、淋しくないのでしょうか。
自己愛の強い人、つまり性格的なものから、病的なほどの自己中心的な人やナルシシストですが、彼らは自分のその性格のために、周囲から他者が離れていったところで、結局は自分の中のもう一人の自分(これも他者と呼ぶことにします)を愛し、愛されているのですから、淋しくないのかなあと、たまに考えます。 健全な考え、また人に対してのマナーや謙虚さがある人はうっかりはともかく、継続して同じジコチューな自分をだしっぱなしにすると、結果的には人間関係が悪化するということを分かってもいますので、たとえ親密な関係でも、自分を抑えることもできます。もちろん、その人にある真の優しさや穏やかさの他に、孤独になる危機回避という打算も含まれているかもしれません。 しかしある種の方々は、そういうリスクを分かって自己中をやっているようです。(例えば、恋人が離れていくたびに限りなく落ち込む知り合いなどいますが)しかし、それでも懲りずに同じことを繰り返すのです。 ヒトも孤独に対する恐怖の本能がありますが、理性があるのですからリスク回避も考えられます。(それが処世術というのかもしれませんが) しかしどうしても孤独に陥る人はその結果を(何度も)経験済みなのに、なぜ自分の中の自己中心的な考え(自己愛、甘え)を棄てられないのでしょう? 学習能力がないというのとは、ちょっと違うという場合で。本人はひどく反省しているのに、です。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 私は悪魔を愛する。それが生きることだ。
君には自分の望みがあるはずだ。 でも君も人から多くを学んだ。 その中で、あれがいいとかこれがいいとか言われ、その他者のことがば租借しきれないで、他者の望んでいることを飲み込み自分の望みだと錯誤したりもあるだろう。 こうして与えられたままの望みが欲望だ。 古くは煩悩といい、一言で言って迷いだ。 人が人を理解しようとする限りはついて回る。 理解しきるとブッダだ。 自らを自覚し、迷わなくなる。 与えられた言葉に押しつぶされると、自分がわからなくなり、自分の望みも欲望に忠実になる。 そうなると、欲望が善で、自己の本心が悪だ。 こうして聖霊は悪魔と人から罵声を浴びるんだ。 その生きようとする自らとの対話は悪魔と面会することだ。 悪魔を愛することが自らの実現だ。 世の中に規範があり、それを守ることは問題ない。 深刻なのは自己の自覚が不在になることだ。 その奴隷の忠誠が、自らの仏性(実在する妖精)を悪魔に転落させる。 さて、欲望を理解する困難に挑み敗れた方を多く見かけます。 そこで哲学の命題としてこの論説を提示します。 研究の進展になる読書感想文をお願いします。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 反論と他者否定
反論と他者否定というのは、疎外感や劣等感を感じる人の支えになり、また活力にもなる。 弱者や無垢な者を見守る立場となることも同じ効果がある。 何かご意見おねがいします。
- ベストアンサー
- その他(生活・暮らし)
- 自分の存在価値について考えてしまいます
最近また劣等感を抱くようになりました。 他者と比較しても意味が無いのに周りが羨ましくなって、自分の存在価値とはなんだろうとつくづく思います。 過去のことを思ってはいけないのは分かっているのに、二歳差の妹を見ていると過去を悔いて自己嫌悪に陥ります。 それと同時に酷く孤独感を感じ、将来が不安で溜まらなくなります。 自分はパニック障害を患っています。 不意にこのような状態に陥ってしまいます。 こんな時はどうしたらいいのでしょうか。
- ベストアンサー
- その他(恋愛・人生相談)
お礼
ご文章をいじってコメントを書き込むという作業は行ない得ません。 なんだか出しゃばり過ぎるとは思うのですが いちおうすでに書いた文章ですので それを使うかたちを取ります。 ☆☆ (趣旨説明欄)~~~~~~~~~~~~~~~~ (1) ・・・ むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。 その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。 かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。 あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 文体相互の交響曲がひびく。 鳴り響くように持って行きましょう。 あともあなどすさん ありがとう。 こんにちはでした。ご回答をありがとうございます。 ときどきお会いしましょう。