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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《〈自律〉教》に意味はあるか?)

《〈自律〉教》に意味はあるか?

このQ&Aのポイント
  • 資本主義社会に社会行為として自律的な行動はあるか?自律を説くことに意義はあるか?
  • 自律的な行動は可能なのか?資本主義社会においても自律を目指すことは可能か?
  • 資本主義社会において自律的な行動の意義とは何か?自律を説くことの意義を問いたい。

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  • hekiyu
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回答No.2

自律てのは、要するに自分の事は自分で 律する、てことでしょう。 しかし、自分で律しているつもりだが 本当にそうなのか。 自分で律しているつもりだが、本当は 社会が律している(フッサール) 人間関係で律している(フーコー) 神によって律されている(ヘーゲル) 無意識によって律している(フロイト) 構造で決まっているのだ(レヴィ=ストロース) 歴史の上でつくられた枠に律されている(ハイデッカー) とまあ、色々な立場がある訳です。 ”《自律》を説くことに 意義はあるか?”   ↑ と、いうことで意義があると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 へきゆさん こんばんは。ご回答をありがというございます。  そうですね。その《いろいろな立ち場》は ほとんどぜんぶ《自己以外によって律されている》という見方のようですよね。  すなわち 職業を自分でえらんであたらしく社会人になるといった晴れの出発があるわけですが そのときおのれの意志として行為しているにことに間違いはないのだけれど その自由な意志行為が 果たしてどの程度まで自己が律しているものであるか?   ★ ~~~~~~~~~~~  自分で律しているつもりだが、本当は  社会が律している(フッサール)  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった側面もあるのだし じつは そちらのほうが優勢である。といった見方になるのでしょうか。  少し細かく見てみますが:  ★ 社会が律している(フッサール)  ★ 人間関係で律している(フーコー)  ☆ これらは 《社会律的・相互他律的》などというへんな言葉で表わしましたが だいたいそういうことでしょうか?  これらは 生活が社会として共生ということが基礎になっているからには――また 子どもから大人へと成長して社会に出て行くからには―― 歴史や社会の総枠としての仕組みによって影響を受けるであろうし その枠組みを出ないとすれば(亡命したとしても 別の国も似たり寄ったりであるとすれば) 或る種の仕方で社会や人間関係によって――自己の自由意志によるとともに――律されている。かも知れないのでしょうね。  だとすれば  ★ 歴史の上でつくられた枠に律されている(ハイデッカー)  ☆ この見方も 同じたぐいに入れても さほどマチガイではないでしょうか。  わたしは次のふたつの見方に真っ向から反対しています。  ★ 無意識によって律している(フロイト)  ★ 構造で決まっているのだ(レヴィ=ストロース)  ☆ 《構造》というのは 早い話が《〔社会としての・また歴史としての〕無主体の過程》だというそれだと思います。いわゆる《関係の構造》ですよね。  つまりは この構造は さきほどの《人間関係や 歴史的に作られて来ている仕組みないし制度》のことではなく・必ずしもそうではなく むしろ《無意識》とあたかも同じように知らない何らかのチカラ(権力)が われわれ人間にはたらいて その社会装置の作りに応じて 行動せざるを得なくなっている。というような見方をしているのだと考えます。  言ってみれば ムイシキが主観内部において意識を超えてはたらくのと そしていまの関係構造のチカラがあたかも主観の外にあってはたらくのとは ほとんど同じような類型における見方であるかに思われます。  要するに 経験的にしてナゾのチカラが われわれにはたらく。これらは ハタラキとしては 経験事象として人間にも分かる。ということは ちなみに  ★ 神によって律されている(ヘーゲル)  ☆ は そのハタラキについてすら人間には分からない。歴史の狡知か何だか知りませんが かろうじて事後的にうっすらと分かる場合もあるのでしょうか。  つまり 《神》は ナゾであることにおいて 《ムイシキ》や《構造》と同じようであるが 神は あくまで非経験の場である。後者二者は 経験世界におけるチカラとして想定されている。  ということは 神は 信教・良心の自由において それは 一人ひとりそれぞれの判断にゆだねられている。だから そういうヘーゲルのような見解を出しても それだけのことである。  ところが 関係構造もムイシキも これは思想として 大いなるチョンボであると見られます。問題を起こすだけであって 有益なところはないと考えます。  経験事象であるのに ナゾだということは けっきょく何についてもどんなことについても その構造やムイシキの所為にして済ますことが出来るという代物です。唾棄します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~   ”《自律》を説くことに 意義はあるか?”   ↑  と、いうことで意義があると思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その理由は?   自己の意志行為として行動していても それ以外のチカラがはたらいていると見られることがある。つまり相互他律のような側面もあると考えられる。ゆえに そこにおいて――結果を考慮しないとしても 自由といった観点からは まづ――自律を説くことに意義はある。――こういった見方でしょうか?  ちなみにわたしは 自由意志というのは 社会におけるほとんど無効に近い力学がはたらいているその相互他律の場にあって その他律にあまんじて従うこと この行為にも〔自由意志は〕はたらいている。と見るものです。  つまりは 相手や社会にゆづるという行為も おのが自由意志のハタラキである。こう考えます。  その考えにおいては 社会が社会であるかぎりでは 自律をうんぬんすることは それほど重要であるとも思わない。こういう見方でいます。

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その他の回答 (11)

回答No.1

たとえば、法律を遵守する場合に、違犯する事が悪いから (先入的価値)か、犯した場合の損得を比較して社会性の 維持を選択する(自律)かの違い。 お金をもらうためにイヤイヤ働かされるか、社会生命として の自覚に基づいて助け合う喜びのために生きるかの違い。 お金に価値があると思う(拝金主義)か、その需給情報の 向こうで働いてくれている世界中の人々に価値があると 思うかの違い。 他律的なルールやモラルといった罰=マイナスから逃げる だけの±0の死人に近い生か、生命としての根源的意志の 発露として自律的に生きる=生きる事自体による最大の 充足感により、人生を通算した最大充足(深い認識×最大 の目的達成)を得るかの違い。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  自律とは たとえば次のような場合なのですか?  ★ 法律を遵守する場合に、・・・犯した場合の損得を比較して社会性の維持を選択する(自律)  ☆ つまり 《法律》をめぐってわが行為をどうするかは この質問趣旨で言う《社会律》に入りますが それだとすると けっきょくよく言って《相互他律》に成るのですが そうではないというご見解でしょうか?  《犯した場合の損得を比較して》損失を避け利得を多くするように行動するのは 果たして《社会生命》の観点から言って――つまりなぜなら その観点に立つことが《自律》だという想定上の定義だと思うからですが――― のぞましいとお考えでしょうか?    それによって 《社会性の維持を選択する》ことが出来たと見ることができましょうか。ふつうに言うおのれの打算という考え方ではないのですか?  そもそも法律などの社会的な取り決めは それに  ★ 違犯する事が悪いから  ☆ 守るのではなく そうではなく その取り決めにあたってもともと自分もおのれの意志行為として賛成したゆえなのではないか? 共同自治のために 互いの交通の決まりをさだめておくとよいというところから――つまりはそういう意味での《社会生命》の観点から―― 作り合ったのではないか。    ★ お金をもらうためにイヤイヤ働かされるか、社会生命としての自覚に基づいて助け合う喜びのために生きるかの違い。  ☆ は 基本的に言って ないでしょう。《違い》もないでしょうし 後者の言い分も ほとんどマボロシに終わるのではないだろうか。  なぜなら 満員のスタジアムで皆が出口にむかってすすむとき おそらくそのような人の流れにさからっての行動は 無理でしょう。あたかもそのように いくら自己の主観において《社会生命としての自覚に基づいて助け合う喜びのために生きる》のだと思っていても それが どれだけ・どこまで 社会共同の考え(認識および判断)として有効なのか?  その《助け合い》は すべて経済的には 社会全体の流れとしての資本という現実にもとづいておこなわれています。富める者もまづしい者も 同じです。同じなのです。(世襲の問題がありますが そのような世襲財産をつくった人間も 初めは無一文から始めたという場合があります)。  おれの資本は・資金は おれのものだと言っても それが どこから作り出されているのか。すべて社会全体の仕組みとしての流れの中においてではないだろうか。  ★ お金に価値があると思う(拝金主義)か、その需給情報の向こうで働いてくれている世界中の人々に価値があると思うかの違い。  ☆ そんなことを夢見たって 《拝金主義》の個人や企業が挙げた利益の中から供出された税金で 助け合いも成り立っている部分が大きい。  だとしたら ガリガリ亡者のハタラキに対しても 《その需給情報の向こうで働いてくれている世界中の人々に価値があると思う》ことも 大事だとなりますまいか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  他律的なルールやモラルといった罰=マイナスから逃げる  だけの±0の死人に近い生か、生命としての根源的意志の  発露として自律的に生きる=生きる事自体による最大の  充足感により、人生を通算した最大充足(深い認識×最大  の目的達成)を得るかの違い。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まづ 確認ですが  ★ 他律的なルールやモラル  ☆ というのは けっきょく《他律的にしか生きていない》人間が世界を見る見方です。  《ルールやモラル》は あくまで人びとがそれぞれ社会交通にあたっての共同自治のために考えあって取りきめたことがらです。ふるくなったら あたらしいものに取り替えればよい。ことほどかように それらは 自律共同のための装置です。  ★ 他律的なルールやモラルといった罰=マイナスから逃げるだけの±0の死人に近い生  ☆ というのは じっさいにそのように生きている(死んでいる?)人たちを見て じつはそこに おのれのすがたを垣間見たゆえに そのような見方を出して来るのではないか?  そういう場合には ひとこと われに還りなさいと言ってやればよいのです。還らないなら その人の自由意志と責任の問題に行き着きます。それ以上のことは われわれも出来ないでしょう。  ★ 生命としての根源的意志の発露  ☆ 定義無しの用法は こういう場合には 通用しません。  なぜなら 資本主義の権化という行為にしても それについて本人は 《生命としての根源的意志の発露》なのだと言ってはばからないでいることが出来ます。定義していないからです。  政治経済的に成功した人たちは こぞって   ★ 生きる事自体による最大の充足感により、人生を通算した最大充足(深い認識×最大の目的達成)を得る  ☆ ことが出来ていると 自分たちをそれぞれ誇っていることでしょう。

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