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中世欧州から見た古代

タイトルのとおりなんですが古代ローマやギリシャは中世の欧州の人々にはどのように見えていたのでしょうか。やはり宗教上の理由であまり良く思われてなかったのでしょうか。

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回答No.1

よく思われていなかった、ということはありません。 むしろ中世ヨーロッパの人々はローマやギリシャを崇敬していました。 西ローマ帝国は5世紀にゲルマン人の流入や権力闘争で弱体化し、最終的には中央政府のクーデターによって滅亡します。 そこから始まる中世の時代というのは、端的に言えば「ローマ時代からの衰退」にほかなりません。経済の停滞や略奪によってローマ帝国が築いた数々の都市はかつての繁栄を失い、それまで培われた技術や学問、文化が破壊され、西ヨーロッパの文明は大きく退化してしまいました。詳しい記録さえ残っていないこの時代は「暗黒時代」とも称されます。 そのため、中世の人々は、ラテン人もゲルマン人も地中海で隆盛を極めたローマ帝国に憧憬を抱いていました。 ヨーロッパの王族や貴族の中には鷲の紋章を掲げる人々がいました。西ヨーロッパで有名なのはハプスブルク家ですね。 そもそも鷲というのはローマ帝国の象徴であり、彼らの中には「ローマ帝国の後継者」を自負する者たちもいました。 神聖ローマ帝国なる国がドイツやオーストリアを中心とした地域に勃興するのですが、彼らも西ローマ帝国の後継であることを謳い、鷲の紋章を掲げました。 神聖ローマ帝国の皇帝たちも、シャルルマーニュもナポレオンも、皆、西ヨーロッパで皇帝になった者は「西ローマ帝国の皇帝」を十数世紀にわたって名乗ったわけです。 また、「ルネサンス」という言葉は「文芸復興」と訳されますが、やはりローマ帝国の文化を復興させようという運動だったのです。 政治のみならず文化面でも大きな影響力を持っていました。 ギリシャに関しては、ローマ帝国が手本にしていた地域です。そもそも「ローマ」という都市は、イタリアにやってきたギリシャ人が造った都市を模倣して形成されたものです。 都市も文化も統治体制も、果ては人の名前までギリシャっぽくしました。ラテン人はギリシャ人の先進的なヘレニズム文化をどんどん取り入れ、帝政期に入ってなおヘレニズム文化は手本であり続けました。 ギリシャなくしてローマはなく、中世においてもその思想や学術は少なからず尊重されていました。 ヨーロッパの歴史を語る上でローマとギリシャは欠かすことのできない存在です。今日のヨーロッパを形作ったと言っても過言ではありません。 帝政期にはたびたびキリスト教徒の迫害もありましたが、キリスト教を国教に定めて、地中海全ての人々をキリスト教徒にしたのもローマです。 ローマ時代=キリスト教徒が最も繁栄した時代 と、本を読む限りでは中世の、それも最初期の人々はそう思っていたように思われます。 蛇足・・・ではありますが、現代のアメリカ合衆国も「ローマ帝国の後継」を自負しています。 西ローマ帝国の滅亡から1500年、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の滅亡から500年。いまだに世界に大きな影響を与え続けているのがローマ帝国であり、その種を蒔いたのがギリシャのヘレニズム文化だったのです。

tunamana
質問者

お礼

ありがとうございます!

tunamana
質問者

補足

ローマ、ギリシャは当時の欧州の人々に尊重されていることがわかりました。ですが尊重されていたにも関わらずなぜルネサンスがあそこまで遅れてしまったのでしょうか?

その他の回答 (3)

  • afv2021
  • ベストアンサー率52% (195/369)
回答No.4

ローマ帝国は、帝国と呼ばれているわけですが、当初は共和制国家でした。 共和制国家では、皇帝や王は存在しませんし、完全民主主義ではなく、一部の特権階級であったとしても国家運営は元老院と呼ばれる機関による合議に基いて運営されていました。 しかし、ローマは周辺のほかの国家との拡張戦争で勝ち続け、広大な領土を持つようになると、合議制が国家の意思決定手段としてはスピーディさに欠け、国境での有事に対応することに問題が発生しつつありました。 そのため、国家のあり方が帝政へと移行されたときに、最初の皇帝(アウグストゥス)は統治者としての権威に、血縁という正当性を打ち出し、帝政移行の祖であるユリウス・カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)の血を引く一族で統治するという事にしたのですが、うまく行かず、皇帝ネロを最後にユリウス家の皇位は失われました。 その後、血縁に関係なく様々な皇帝が立ち、ローマ帝国は繁栄するのですが、栄枯盛衰は世の理なので、衰退期になると、内乱や皇帝乱立などが起き、東西に分裂するわけですが、この後東ローマ帝国の皇帝(コンスタンティヌス1世)が皇帝の権威を宗教に求め、キリスト教を国教として、皇帝は神から権威を授けられ、国を治める許可をもらうという形式により、強権を得て統治を行なうスタイルを確立したのです。 それまでは弱小の1宗教に過ぎなかったキリスト教が世界的大宗教になる遠因がココにあったわけです。まあ、当初は多神教のローマ帝国であったわけですから、一神教とはだいぶ様式が異なっていたのですが、最初はローマ人の柔軟さでキリスト教でもローマ的多神教でもあまり意識されない混合状態でした。 ところが、西ローマ帝国の滅亡後、新たな征服者であり、統治者となったゲルマン人も、キリスト教が浸透している地域では、キリスト教の信者たちを治める為には、キリスト教徒にならねばならず、また統治者の権威としてキリスト教の公認(教皇から戴冠して貰う)が必要になったのです。 そして、本来のキリスト教は質素堅実が旨なので、過去のローマ帝国時代の繁栄に対しては享楽的で退廃的なものと位置付け、ローマやギリシャの芸術品は特に男女を問わず裸体像なのが多かったものですから、それらは遺棄すべき物として市井の人々からは遠ざけたのです。一神教はその性質上、他の神を認めるわけにはいきませんので、過去のローマの神々はみな信仰を禁止されたり、神殿なども破壊され、放置されたのです。 そうした状態なので、過去の開放的で、(悪く言えば)享楽的な古代ローマと比較して、中世は暗黒時代などと呼ばれるわけです。 それでも、ローマ時代の技術や法律、科学などは中世でも有用ですから、一部の特権階級の人々(主には貴族と僧職者)には、そうした古代の芸術作品や文献などは秘蔵され続けたものと思われます。 しかしながら、教会の権威は高く、王侯貴族も“破門”という切り札があるため教会には逆らえず(有名なのはカノッサの屈辱ですね)、表向きは質素堅実な生活を送る事を余儀なくされました。 そのため、市井の人々は、キリスト教に対して敬虔であれば、過去のローマ帝国時代などは聖書の中で語られている退廃した堕落の街ソドムとゴモラと同じような感覚であった可能性も高いと思われます。 また、教会が教育を担っていたので、敬虔なキリスト教の伝道師である僧職者なら、古代ローマのことなどを市井の人々に教育したりはしないでしょうから、ほとんどの人は過去の歴史などは知らないまま育ったと考えられると思われます。 そうした質素で素朴な生活を心情としたキリスト教が強い影響力を持った時代が続いた結果、反動でルネッサンスが花開く事になったわけです。 ルネッサンスも当初は宗教的な芸術活動が主流で、キリスト教や聖書にある出来事の視覚化などだけでした(ダビデ像なども聖書の登場人物です)。もちろん過去にも文盲率の高い時代でしたので、キリスト教を分かりやすく伝える為に宗教画はあったわけですが、ルネッサンス以降の宗教画と比較しても、かなり素朴で質素な絵画が主でした。 それをかなり華美に(言いかえれば派手な)絵画を描いても、教会からお叱りを受けなかったので、徐々に範囲を拡大して過去の文学作品やローマ神話などに基く絵画なども描かれるようになったのです(ヴィーナスの誕生などはギリシャやローマ神話の女神ですからね)。 特に特筆するのは、裸体や裸像が敬虔なキリスト教にとっては大罪とされたわけですから、それらも描けるようになったのは革新的な出来事だったといえるでしょう。 そうしてできた華美で壮麗(派手)な宗教画や彫像については、教会の所蔵が主ですので、主要都市の大寺院に行けば、市井の人でも眼にする機会があったと思われますが、裸体が描かれるようなものは個人所蔵(王侯貴族)でしょうから市井の人々は眼にする機会はまずなかっただろうと思われます。 結論として、博識のある権威や権力、財力のある一部の人々しか、古代ローマやギリシャ神話などを知ることはなく、ほとんどの市井の人々は、教会の)教え(ミサなどで神父さまが語るのを聞く)程度で、古代ローマ帝国がどこなのか何をしたのかも知らないままだったと思われます。 また、中世後期には、都市部では教育機関や中産階級も増大したので、それなりに歴史を勉強した人も多かったかもしれませんが、それでも大多数の敬虔な信者からは良くは思われなかった可能性は高いでしょうし、農村部では変わらずローマもギリシャも知らない人が大多数だったでしょう。

tunamana
質問者

お礼

ローマの成立とその滅亡やキリスト教のことについてまで詳しく教えてくださりありがとうございます。

  • alphaXXX
  • ベストアンサー率40% (108/264)
回答No.3

>ですが尊重されていたにも関わらずなぜルネサンスがあそこまで遅れてしまったのでしょうか? 明確にルネサンスという言葉が使われていなかっただけで古代ローマやギリシャ文化の模倣や書物の翻訳、知識の再編などは10世紀以前から各地で行われていましたよ。

tunamana
質問者

お礼

そうなんですか 細かい疑問に付き合っていただきありがとうございます

  • oignies
  • ベストアンサー率20% (673/3354)
回答No.2

ヨーロッパで中世に書かれた書物をみると、アダムとイブの話にはじまって、そのあとが、古典古代につづいて、その続きが中世となっています。 なので、自分たちの直接の祖先、文明の基礎とかんがえていたはず。 ちなみに中世の書き言葉は原則ラテン語です。ラテン語というのは、ローマ帝国の公用語。なのでローマに対して異文化という意識がうすかったのではないかと推察されます。

tunamana
質問者

お礼

回答ありがとうございます 中世の原則がラテン語だとは知りませんでした

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