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ソクラテスとソフィストの対話?について
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『メノン』なら岩波文庫にもなっているし、一番アクセスしやすいのではないでしょうか。 ここではメノンというソフィストが「徳なんてものが、ほんとに教えられるものなのだろうか」と問いかけてくるんです。 そこでソクラテスが「教えられるかどうかより先に、まず確かめておくことがある」といって、「そもそも君は徳とは何だと思うのだ」と聞き返します。 そこでメノンは「そんなことは簡単だ、男の徳というのは、国家の仕事をなすこと、女の徳というのは、家のことを切り盛りすること」と答えるんですね。つまりそういうのがソフィストの弁論術で、本質概念を問われているのに、自分の知っている「徳」の実例をあげていく、というやり方にすりかえるのです。 それをソクラテスはミツバチの例をあげて指摘します。わたしはミツバチの本質を聞いているのに、、君はあれもミツバチ、これもミツバチ、と知っているかぎりを列挙しているにすぎないではないか。ミツバチとは何かと問われたら、蜜を集めるハチのことである、と答えるのが本当ではないか。徳とは何か、と問われたら、そのように挙げられた種類のものすべてを通して、一貫して変わらない徳の本質を知りたいのだ。だからわたしは徳とは何であるかを探求するのだ、というのです。 すると、こんどはメノンがこう聞き返します。 「あなたは徳がわかっていないのなら、まだわかってもいないようなものをどうやって探求するというのか。たとえ答えが出たとしても、その答えが正しいとどうやってわかるというのか」と追求するのです。 すると、おもしろいことにソクラテスはこの問いに、まったくちがった話を始めるんです。 (ソクラテスの問答は、いつもこんなふうに、途中で神話だとか、ある巫女さんから聞いたんだが、とかという話が入ってきます) ソクラテスはかつて、ある神官から「魂は神の下にあって、不死である」という話を聞いた、と言い出す。不死の魂は、ときに人の体に入って生命をもたらすけれど、その人が死ぬとまた神の下に帰って行って、今度はまた別の肉体に入るのだ、と。 だとすれば、魂は、ありとあらゆるいっさいのものを魂は見てきている、ということになる。だから徳についても、わたしたちの魂は神々の国にあったときに知っているのだ。いまわたしたちが新しいことを知って、わかったと納得できるのは、昔知ったことを思い出すからなのだ、と言う。 メノンは、それがほんとうかどうか証明してみてくれ、とソクラテスに言います。 そこでソクラテスはまだ数学も幾何学も知らない子供に、対話を通して幾何学を教えてゆくのです。子供は教わりながら、いろいろな定理を理解しはじめ、納得していく。そうしてソクラテスは、この子がいま知ったことは、この子の魂が昔覚えていたことを想い起こすのだ、というふうに説明していくのです。 ソクラテスがどんなふうに問答をしていったか、雰囲気だけでも伝わったら、と思います。実際に読んで、自分の目で納得してみてください。
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