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一両具足衆

長宗我部氏の家臣団だった一両具足衆は関ヶ原で長宗我部家が取り潰されたあとどうなったのでしょうか? 新領主の山内氏に従った? それとも浪人となった長宗我部盛親に付いて行き大阪の陣で本懐を遂げたのでしょうか?

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  • 1paku
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回答No.2

幕末の坂本龍馬を主人公にした物語などを読むと、判ります。 幕末になっても、山内家の家臣が上士、長宗我部家の元家臣が郷士と二つに分かれたままのようです。 百姓と武士の兼業に近い形でしたから、そのまま百姓になった人も多いのでは?。 山内一豊が主人公の功名が辻では、土佐の城主までしか描かれてないようですが、少し後に長宗我部侍の中の現状に不満があった人たち、反乱分子としてかなりの数が殺された事件もあったようです。 大阪の陣までの長宗我部盛親の行動、あまりはっきりとした記録が残ってないようですから、おそらくはほとんどの元家臣は、彼の大阪城入城はリアルタイムで知らなかったのではないかと。  後からでは、監視の目がありますから、土佐から合流するのは難しかったでしょう。  もし行動を共にした人がいたとしてもごく少数、無名の人たちだけのはず。

azuki-7
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  • oska
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回答No.3

>長宗我部氏の家臣団だった一両具足衆は関ヶ原で長宗我部家が取り潰されたあとどうなったのでしょうか? 元の、百姓・郷士に戻りました。 土佐では、地元豪族と看做した方が分かり易いかもね。 土佐を離れた一両具足衆は、大坂の陣で本懐を遂げます。 >新領主の山内氏に従った? 長宗我部家直参は、土佐を離れて流浪の旅に出ます。 土佐を離れなかった者(一両具足衆)は、山内氏入国に抵抗して乱を起こしています。 長宗我部盛親の居城・浦戸城に立て篭もり、浦戸一揆と呼ばれる大規模な抵抗を起こします。 山内家は、恭順の姿勢をみせた一両具足衆に対しては「百姓になり、地元へ戻る」事を薦め罪を免じました。 ※土佐の多くの庄屋は、この一両具足衆子孫です。^^; 逆に、徹底的に反抗する一両具足衆に対しては「極めて厳しい処分」を行います。 それでも、抵抗・反抗を続ける一両具足衆に手をやいた山内家は「懐柔策」を採用。 土佐藩正規軍(上士)とは別に、在地武士という職制を設けました。 在地武士、正規軍でないので庄屋の支配下となります。 在地武士の中で格式が上位である者は、郷士として土佐藩お抱え(下士)となります。 じゃ、百姓になっても郷士になりたい者は? 財政難に苦しんだ殿様。「そうだ。一両具足衆を、ただで働かそう!」 「新たに新田を開発した一両具足衆子孫は、新たに100名を郷士にしてやるべ!」 1644年。新田開発を行った100名が、新たに郷士になります。「百人郷士」「野中郷士」です。 土佐藩では、財政が苦しくなると「新田開発=郷士採用」で濡れ手で粟の政治を行います。 1783年には、誰でも身分を問わず新田開発に参加可能となります。 坂本竜馬の先祖も、この新田開発に参加。郷士となります。「幡多郷士」 ※実際には、下男を代わりに作業を行わせる事が多かった。^^; 結局、幕末には1000人を超える郷士が誕生していました。 酔っ払い殿様も、郷士の扱いに困ったでしようね。 この郷士を上手に利用したのが、武市半平太です。

azuki-7
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  • tanuki4u
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回答No.1
azuki-7
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