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出世の基準

yama891の回答

  • yama891
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回答No.8

やはり・識見・良識・品性・社会常識弁えた方しか、お逢いした事がないので。 時には、逸脱_発言・非常識な場合も、あるでしょう。 人間社会の魑魅魍魎(ちみもうりょう)ですか。

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     《自然に帰れ》!?  とルウソは言ったとか言わなかったとか。自然に帰るあるいは人間的自然を取り戻す これは 必要で大事なことでしょうか?  《人間》の社会におけるすがたを次のように捉えて その《自然》の問題を考えます。  1. われわれ人間は 社会を成して共生するらしいが そもそもどういう存在であって どういう存在の関係をむすび かつその関係の錯綜して過程する総合としてどのようなあり方になっているのか?   2. 社会人を スサノヲ市民およびアマテラス公民に分けます。しかも この市民( S )と公民( A )のそれぞれ要素は ひとりの人間に――当然でしょう―― そなわると捉えます。  3. このような概念装置を持って マルクスを読みます。  ▲ ( K.マルクス:ユダヤ人問題によせて) ~~~~~~~~~~   結局のところ   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* つまり生活者市民スサノヲ)が 本来の人間とみなされ   ( A ) 公民 citoyen (* 人格の全体でもっぱら公共の仕事に就くアマテラス公民)    とは区別された  ( S ) 人間 homme とみなされる。  なぜなら   ( A ) 政治的人間(* アマテラスのそういう側面)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し   ( S ) 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。  【 S‐A 連関】 《現実の人間》は  ( S )  利己的な個人の姿(* もしくは 感性を自由気ままに発揮しあやまちうるスサノヲ人間語)においてはじめて認められ   【 A‐S 連関】 《真の人間》は  ( A )  抽象的な公民の姿(* もしくは アマテラス人格語ないし学術概念語)においてはじめて認められるのである。                   (城塚登訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで S:スサノヲと A:アマテラスとの連関のあり方は 次のふたつの形態があり得ます。   《 S‐A 》連関のかたち=《現実の人間》:      あやまちうるスサノヲ人間語を基礎としてその土壌の中から――     あたかもその泥の中から―― アマテラス規範語を磨き上げ そこ     に花咲かせる人間のすがた。   《 A‐S 》連関のかたち=《真の人間》:      簡単に言えば 理性ないしコギトがすべての意志行為を引っ張る     かたちのアマテラス人格語かつアマテラス学問語にもとづく人間の     すがた。この人間は 《あやまたない》と言われるようになる。      つまり無謬性・不可侵の神話を帯びる。  ☆ たぶん《 〈 S‐A 〉連関のかたち》=《現実の人間》の描像のほうが のぞましいと思うのですが それには 《スサノヲ的自然》を取り戻す必要があると考えられます。どうすればよいでしょう? あるいはすでに回復していましょうか?

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    社会で生きていくには適応するって大切ですよね。今更ながら「適応」っていうことの意味を思い知らされました。自分の感覚が他人とズレてることを自覚することのようです。これって、自覚できたらタイシタものだと、最近ようやく悟ったわけで、そのおかげで「もう死んでもいい」とさえ思えるのでした。残念ながら、死ぬことを怖がるっていうとこだけは、感覚っていうより本能というものに支配されちゃうらしくて「それではサヨーナラ」と簡単には死ねないものらしくて、こんな文章書いてます。と、前置きが長くなりました。例えて言えば人が見ている色がみんな同じだとは限らないようなささいなことなんかに気付くことです。十分に重大な事実のようだと思われるかもしれませんが、至ってお気楽なんですよ、実は。一人の人間、生まれてからずっと、自分の目に見える色が正しいと思って疑わない。「色の区別がつかない」んなら障害として認識できるんですが、単純に感じるものの違いなんか、脳を入れ替えて見ないと比べられないって、ちょっとしたパラドックスなんですが、わかりますか? このことをぶんしょうでどう記述したら万人に「何となく解る気がする」と感じてもらえるのかな? っと、これも「感じる」ものなわけだから、人間って結局、共通認識なんてありえいのですね。少なくとも近似値はあるから社会が成り立つわけなんでしょうけど…。ひょっとしたら、金運とか出世運なんか、以外とこんな「ささいな」感覚のギャップが作用して存在してるんじゃないの?なんて思います。哲学専攻か精神医学専攻で、この事に関係した内容をご存知の方、どうか教えてください。