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幕末・維新に活躍した人の名前の変更

 幕末・維新に活躍した著名な人は、その時代の歴史書や小説を読むと名前を変更しています。例えば、  桂小五郎→木戸孝允  伊藤博文→幼名は利助、のち吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名した。  西郷隆盛→下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長男。名(諱)は元服時には隆永(たかなが)、のちに武雄、隆盛と改めた。幼名は小吉、通称は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変えた。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの変名も名乗った。 とあります。他にも、例はありますが、当時、名前を変えることについて、特別な理由があったのでしょうか?

noname#205122
noname#205122
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noname#224207
noname#224207
回答No.2

>当時、名前を変えることについて、特別な理由があったのでしょうか? 幕末に限りません。 さほど特別な理由はありません。 名は体を表すという考え方があります。 元服で名前を変える、すなわち幼名と成人名が異なるのはごく普通のことでした。 家康も竹千代→松平元信→徳川家康と変えています。 信長も吉法師→信長と変えています。 義経も牛若丸から九郎義経に変えています。 幼名と成人名を変えるのは、幼児死亡率が高かったこととも関係しています。 武家だけではなく、一般の農民や町民でも変える人は幾らでもいました。 男性であれ女性であれ、年齢や立場が変われば名前を変えるのはごく普通の習慣でした。 豊臣秀吉も何度も名前を変えています。 幕末の志士も、時代が刷新されるのだから、自分の名前も変える、と考えるのは極自然だったのでしょう。 有名な政治家だけではなく、一般の人達にも名前を変えた人は沢山いました。 ○衛門だの○兵衛だのは古臭いから時代に応じた洒落た名前にしようと考えたのでしょう。 現在のキラキラネームと発想はあまりかわりません。 >変名も名乗った。 変名と考えるのは現代の感覚です。通称と名乗りは別というのはごく普通でした。 通称はその場その場で決めることもありました。 家康も元信を名乗りとしていた頃には、通称として次郎三郎と呼ばれていました。 この通称も蔵人佐元康と変えています。 この他に、朝廷や主君などの権力者から功績に応じて新しい名前を貰うこともありました。 複数の名前を持つことになります。 生涯名前は一つだ、というのは現代人の感覚です。 但し、苗字だけは拘りました。苗字=家=氏族という考えが根底にあり、苗字だけは使わなくなっても温存され続けました。 江戸時代にも徳川家の子供が他家を継ぐ場合には、徳川の旧姓松平を名乗りました。 現代でも、老舗の商家などでは、稼業を継がれれば名前を代々の名前に変えられる方もおられます。 戸籍の管理上、戸籍名を変えるのに一定の手続きが必要なだけです。 戸籍に関わらず通称を使われておられる方は幾らでもおられます。

noname#205122
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。  よくわかりましたが、それにしても桂小五郎→木戸孝允というのは、理解できません。私の個人的な印象ですが、「桂小五郎」のほうが「良い名前」のような気がしますが、本人はどのような気持ちだったのか知りたいですね。

その他の回答 (1)

回答No.1

別に名前が1つで有る必要は有りませんから。 それに揚げられた人は当時の扱いで言えばテロリストですからね。

noname#205122
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございました。

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