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戦争裁判はいつから?

shishishishiの回答

回答No.1

史上初の戦争裁判といえば「ニュルンベルグ裁判」です。 もちろん第二次大戦敗戦国のドイツを裁いたものです。 その前に負けたイタリアは?ムッソリーニを追放したバドリオが早く降伏して、連合国側につき、ドイツにも日本にも宣戦布告したので戦争裁判などを受けることはなかったのです。 ドイツに続き、日本も敗れ「極東軍事裁判(東京裁判)」となります。 昭和21年1月19日、マッカーサーは極東国際軍事裁判所の設置を宣言、その裁判に適用する「極東国際軍事裁判所条例」を制定、公布します。 この条例は「法」ではなく、占領軍の「行政命令」にすぎません。しかも当時の「国際法」とも全く関係のないものです。 裁判では「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」を問われました。 「通例の戦争犯罪」は国際戦争法規違反ですからもともと犯罪ですが、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」などとは、それまでは無かった罪です。 事後立法で勝者が敗者を裁く裁判に中立公正さなどあるはずもないです。 結果、東条英機(元首相・陸軍大将) ら7名が昭和23年12月23日、巣鴨で絞首刑を執行されます。 なお、蛇足ですが、この時の処刑係は米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、後の黒人運動家の牧師として有名になる人です。 一つ参考URLをご紹介します。↓

参考URL:
http://www.history.gr.jp/tokyo/
nihao
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 とても深淵なテーマですので、簡単に評価する事は慎まなければいけないと思うのですが、戦争処理を裁判という形で行なおうとすると、喧嘩両成敗というか、戦勝国も被告席に立つべきかな、と感じたりしています。 戦勝国も結局は敗戦国の無辜の国民を殺害しているのですから、平和に対する罪に問われて然るべきかな、とも感じております。 教えて頂いたHP、じっくり研究したいと思います。

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