• ベストアンサー

浅野家が改易されなかった理由は?

大阪冬の陣の直前 秀頼の要請を受けた真田幸村一行は蟄居先の紀州九度山を脱出して大阪城に馳せ参じました。 紀州は当時浅野左京太夫幸長が治めていた領地で 浅野家は九度山の幸村一行の監視も担っていました。 関ヶ原で敗れ蟄居中だった真田幸村は罪人です。 当然幸村に逃げられたとなれば浅野家は取り潰し物の大失態ですが 浅野家が処分される事はありませんでした(後年芸州広島・播州赤穂に国替えになりますがこの事とは無関係ですし) 何故お咎め無しだったのでしょうか?

  • 歴史
  • 回答数7
  • ありがとう数35

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • denbee
  • ベストアンサー率28% (192/671)
回答No.1

浅野長晟が大阪の陣で大きな武功を立てているので、それでチャラにしたのではないでしょうか?

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

その他の回答 (6)

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.7

わざわざ指摘してもらいましたが、長宗我部が大坂の陣の時に大名とはどこにも書いてないんですが・・・ 長宗我部が浪人だったから罪人じゃないという論理でしょうか? 改易された上に京都所司代の監視下にある以上、長宗我部も配流・蟄居させられた信繁と罪人という面で変わりありません。お礼では言及されていない毛利勝永も同様です。 板倉も山内もその逃亡を許しても特に処分を受けた様子はないので、信繁の逃亡もその程度ということです。

azuki-7
質問者

お礼

え? あなたの回答に書いてましたよ「土佐一国の大名だった長宗我部を逃した」って 真田は要するに脱獄と同じこと 毛利や長宗我部は板倉が撃ち逃したって事 ぜんぜん違うことです

azuki-7
質問者

補足

質問が大阪の陣のことなので 長宗我部が大名だった=大阪の陣の時 という意味で解釈したのですが?

  • izuhara
  • ベストアンサー率31% (97/310)
回答No.6

○取り潰すほどの失態ではなかった。 この程度で改易させていたら、毛利勝永を逃した山内家や長宗我部盛親を逃した板倉勝重も改易させなければならなくなります。小大名の真田の次男よりも土佐一国の大名だった長宗我部を逃がした方が大きな失態ですから。 ○大坂の陣では、それを補ってあまりある軍忠を尽くした。 この二つが理由でしょう。

azuki-7
質問者

お礼

幸村は当時罪人扱い それの逃亡を許したって事ですよ浅野は しかも大阪の陣のとき長宗我部は大名ではなく浪人です

回答No.5

当時家康が警戒していたのが父親の安房守昌幸でしたし、なにより関が原以後の取り潰された大名家の 家臣達(とりわけ反徳川)浪人衆の問題のありました。 それらをまとめて処分する口実もあったでしょうね。 ですから功までたてた浅野家を取り潰すには失態としては弱かったのかもしれません。 また大阪の陣でも家康は真田日本一の兵と評しましたが、それも実戦経験者の少なくなった旗本等の 失態を糊塗する狙いもあったでしょうから後年の講談程の評価はしていなかったかも。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • lv48
  • ベストアンサー率28% (153/535)
回答No.4

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic31.html 家康は大阪入りしたのは親か子かと聞き、子であって安心したとかしないとか。 親が死んでる事も知らない。忘れ去られていた現実。 家臣もろくにいない、どーでも良い浪人。 大坂城内からは、兄の真田信之が東軍なのだから、スパイと言われる始末。 http://sengoku.gflag.biz/?eid=1547270 歯の抜けた白髪ひげジジイが、まさかの予想外の活躍で、実際の戦場では浅野家は東軍で活躍していますから、責任問題にはならなかったのでしょう。 秀忠的には幸村の活躍は、関ヶ原遅参の恥をかき消す材料になって好都合だったり。

azuki-7
質問者

お礼

sありがとう

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>何故お咎め無しだったのでしょうか? 浅野と言えば、有名な豊臣恩顧の大大名ですよね。 真田幸村(本名:真田信繁)は、九度山でも比較的自由な生活を送っています。 直接監視していたのは、高野山傘下の九度山衆と対岸の橋本住民です。 九度山も橋本住民も、幸村に同情的だった様です。 幸村の子息である大助も、川で自由に泳いでいたとの逸話も残っていますしね。 で、脱出ですが・・・。 九度山も橋本住民も、見て見ぬ振りをしたようです。 結果、監視を命じた浅野としても強く叱責を行っていません。 徳川としても、浅野の勢力を恐れていました。 大阪の陣で、浅野が寝返れば豊臣恩顧の武将が一気に寝返る可能性があります。 下手に「幸村脱出の責任を問えば、やぶ蛇」になる可能性がありますよ。 ※古文書では、「浅野が裏切った!」というデマが戦場に流れています。 家康としては、「はらわたが煮えきる程の怒り」を覚えたでしようが(豊臣恩顧の勢力を考えると)軽い罰で終えるしかありません。 関が原で大勝しても、未だ豊臣恩顧の勢力は無視出来ません。 関が原でも大阪の陣でも、「豊臣の馬印が戦場に掲げられる事」を家康は恐れていましたからね。 鳥羽伏見の戦いでも、錦の御旗を掲げられると優勢だった徳川軍は戦力を喪失していますよね。 話が逸れましたが、こんな情勢で浅野の罪を問える訳はありません。 また、「裏切った!」という風説を無くす為にも浅野軍も奮闘しています。 結果、プラスマイナスゼロという事でしよう。 完全に豊臣が滅亡してからは、豊臣恩顧の大名を処分しています。 余談ですが・・・。 近所に、「真田幸村伝説」が残っています。 燃え盛る大坂城から脱出した幸村・大助親子及び秀頼一行は讃岐に逃れます。 ※当時の讃岐は、五大老と五奉行の仲裁役として豊臣政権下に置かれた3中老の一人である生駒家の領地。 軽症の大助と無傷の秀頼は、ここで休息後に薩摩に向かいます。 重症だった幸村は、ここで療養。同時に、世話をした地主の娘と一男をもうけます。 この子供に家紋と真田姓を与えて、傷が癒えた幸村は(大助・秀頼を追って)薩摩に向かいます。 この地の子孫は、未だ健在です。^^; 全国各地にある「判官贔屓伝説」の一種でした。

azuki-7
質問者

お礼

浅野寝返り の流言は後世の作り話ですね

  • onihei55
  • ベストアンサー率3% (18/482)
回答No.2

もう少し勉強した方が良いでしょう。 徳川家康は陰湿かつ最高権力者ではありますが浅野家は豊臣家に近いお家柄。 徳川は浅野を潰すよりは豊臣家を潰すのは元豊臣家旧臣と言う体にしたかったから浅野家を潰さなかった それは大戦後も同じです。

azuki-7
質問者

お礼

違うな

関連するQ&A

  • 九度山への秀頼からの依頼は…

    関ヶ原で負けて紀州・九度山に蟄居となった真田幸村の下へ、1614年風雲急を告げる大阪の秀頼から幸村勧誘の書状が届きます。 しかし 幸村はこのとき九度山で浅野家の監視下にありました。 書物などによると浅野家は幸村に同情し特別に監視を緩くしていたそうです。 ここで疑問なのですが 秀頼からの書状は何故幸村に届いたのでしょうか? 普通ならこういう状況下では幸村に直接書状を届けるのは無理と思います なので事前に浅野家が検閲をしているでしょう 内容は秀頼からの勧誘の書状です 手紙を見た時点で浅野は家康に通報するはずですが そういう事は無かった様です 何故 秀頼からの書状が無事に幸村に届いたのか? と言うことです

  • 真田父子の九度山蟄居について

    徳川家では真田昌幸の戦術能力をかなりやっかいなものと考えていた形跡がありますが、それならばなぜ大阪城に近い紀州九度山へ蟄居を命じたのでしょうか?将来的に火種を抱える大阪周辺より徳川家膝元の関東や、更にその奥の東北へ蟄居させた方がより良いように思えます。 また、幸村が浅野家の監視をくぐって入城しても、その後に浅野家や村人が厳しく罰せられたという話を聞いたことがありません。 長男信之の「必死の嘆願による助命」と言う背景のわりには一連の処置が緩やかなのには不審をおぼえます。 こういった点についてご意見や興味深い資料をご覧になった方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします

  • 大坂の陣 幸村が率いた兵が強かった理由は?

    真田幸村が音に聞こえた名将であったのは言うまでもありません しかし大坂の陣にはせ参じた時、幸村は蟄居先の九度山から脱出して駆けつけたわけで 手勢は供回りの数十人だけでした 大坂城で秀頼から軍勢を借り受けて戦ったわけですが 大坂の兵はいわば寄せ集めの雑兵、訓練もロクに受けていない兵なわけです しかも真田古来の家臣軍勢ではなく 秀頼から「君たちは真田君の下に入って命令に従う様に」的な軍勢だと思うのです(つまり完全に幸村の命令に従わない奴も居ただろうと思います) 幸村も真田丸に篭って戦っているし 配下の雑兵に十分な訓練を施せたとは思えません なのに夏の陣では一糸乱れず、伊達の三段構えを突き崩し家康の本陣まで突入しています。 寄せ集めの真田勢があれだけ強かった理由は何でしょうか? 単に幸村の采配の凄さだけでは無いと思うのですが

  • 真田信繁を大坂城に招いたのは誰か?

    史実では九度山に蟄居せしめる信繁は豊臣秀頼の出馬要請を受けて九度山を脱出 大坂城にはせ参じたわけですが そもそも秀頼は真田信繁を知らないですし(名前ぐらいは聞いたことあるけど面識は恐らく無い) 大坂の首脳部(大野兄弟や速水甲斐守など)は信繁が信幸の弟であり 徳川と通じてる恐れがあるとして信繁を大坂に呼ぶ事は反対でした。 長宗我部や後藤などの浪人は大坂からの「浪人募集」のお触れで駆けつけたわけですが 豊臣秀頼の名前を使って真田信繁を大坂に呼び寄せたのは誰なのでしょうか?

  • 真田昌幸の秘策?実行されていたら…

    紀州九度山で 昌幸が亡くなる直前 息子の信繁(幸村)に託した 豊臣勝利の秘策についてです 秀頼から兵を借り 青野ヶ原へ布陣 そこは何もないただの平原で何故真田はこんなとこに布陣したのか徳川は疑問に思い 物見などを出してこちらの様子を伺うはず(家康は過去に昌幸に散々に負けた経験があるので 真田が無策でこんなとこに布陣したとは考えないであろう) そうこうしているうちに一ヶ月は時間を稼げる 真田の小勢が徳川の大軍を一ヶ月も釘付けにしたとなれば 豊臣有利とみて寝返る武将も出てくる そうなると徳川方に猜疑心が生まれ 混乱が起きる そこを一気に攻め立てる という「青野ヶ原の策」です 歴史にもしもはありませんが仮にこの策が実行されていたら豊臣の勝利の可能性はあったでしょうか?

  • 真田父子はなぜ上田城にとどまったのか…

    関ヶ原の時真田昌幸と幸村親子が関ヶ原に布陣していれば情勢は変わっただろうし 小早川の裏切りも見抜けたと思います どうせ上田城は信之に任せるのだから明け渡して 関ヶ原に向かうべきだったと思うのです 秀忠軍3万8千を食い止めたのはすごいのですが それは大して戦局に影響はありませんでした… まぁだからこそ 15年後の九度山脱出~大阪夏の陣の家康殺害というかっこよすぎるストーリーが出来上がったと言われれば それまでなんですが…

  • あなたの九度山と真田丸

    真田丸、いよいよ佳境ですね。毎週楽しみにしています。 何週か前の話で、九度山に蟄居している信繁(幸村)が、豊臣方へ加勢してほしいと誘われ、「私は今の暮らしが幸せなのです」と一度は断ります。しかし長澤まさみさん演じる「きり」に心の内を見透かされ、『あんたの幸せなんてどうだっていいのよ、大事なのはあなたを必要としている人達がいる事』と言われます。 これ、当初は物語を展開させるための強引な台詞だなぁと思ったんですが、妙に心に残り、深い言葉だなぁと思ってきました。 家族と一緒の穏やかな暮らしの幸せ、それはもちろん大事だと思いますが、自分を求める人・場所を見つけ、是非はともかくそこで自分のポテンシャルを最大限に発揮する事が、人が生きる意味だとも思います。 自宅という九度山に引き籠もって内職のような仕事で生計を立てている私は、いつか自分にとっての真田丸をどこかに築けるのだろうかと考えちゃいました。 ・・という事で、「穏やかな幸せ」と「自分のポテンシャルを最大限に発揮する生き甲斐」に関して、皆さまから御意見を賜りたいと存じます。 (と、イソケンさん風に投げかけますが、私はイソケンさんのように気の利いたお礼コメントできませんのであしからずw)

  • 真田幸村の子孫

    本屋へ行ったら、「日本史有名人の子孫たち」(新人物文庫)という面白そうな本があったので購入しました。真田幸村のところを読んでみると、 真田幸村には男二人、女七人の子供がいたという。そのなかで、・・・石合十蔵道定の妻となったすへ以外は正妻の大谷吉継の娘が母親である。嫡男の大助は大坂城で豊臣秀頼に殉死したことで有名である。・・・次男の大八は幸村がまだ高野山麓の九度山にいたころ、京都で石合戦に参加して石に当たり、それがもとで死んでいる。 とあります。しかし、この内容は私が知っている事実とはあまりに異なるので驚いています。たとえば、真田幸村のウィキペディアには、次のように書いてあります。「次男の大八(真田守信)は伊達家重臣で後に三女・阿梅の夫となる片倉重長のもとで姉たちとともに保護され、後に元服し片倉守信となった。以降、公式に残る信繁(幸村)唯一の家系・仙台真田家として現在へも続くことになる。なお、片倉姓から真田姓に復したのは守信の子・辰信の時である。」 さらに、ウィキペディアでは、幸村の妻子は、正室(大谷吉継娘)のほか、側室が4人いたことになっており、子供の数も、男二人、女七人ではなく、男4人、女7人の計11人で、しかも、正室の子供は5人、残りの6人は側室の子供です。たしかに大八は正室の子供ですが、片倉重長の妻(後室)となる阿梅は側室の娘となっています。 新人物文庫の筆者(蒲生眞紗雄)はこれらの事実を知らないで書いているのでしょうか、それともウィキペディアの方に間違いがあるのでしょうか?すくなくとも、大八=守信が仙台真田家の初代となったことは厳然たる事実のように思えるのですが。。。

  • 真田一族はそんなにすごいのか

    上田市出身なんで真田一族の評価が高く、ゲームで高い能力を持っていることは悪いきしません。でも冷静に考えるとそんなにすごいのか疑問に思います。 真田昌幸は武田家再考を目指していたが実現的なかった。また、領土はそれほど広げていない。秀忠の軍勢を引きとどめ関が原に影響を与えたが、秀忠に勝ったわけでも家康に勝ったわけでもない。関が原後は隠居し紐を作る程度の功績しか残していない。一言で言うと大きな功績を残していない。 幸村は関が原の戦いではそれほど目立った功績を挙げていない。大阪の陣で大活躍したことが知られているが、所詮二度の戦いであり戦をたくさん経験したわけではないから戦上手と評価するのは尚早、まぐれで家康に突っ込んだ可能性もある。元もと真田家の武将であり秀頼に大恩があるとは考えにくく、趨勢は完全に徳川に傾いている時期に秀頼のために命を懸けたのは無駄死に近い。 どう思いますか。よろしくお願いします。

  • 豊臣秀頼公の生存説及び島原の乱について

      大坂夏の陣において、名城大阪城とともに運命を共にされたと言われている豊臣秀頼公ですが、 次のような伝説・伝承があります。  ※秀頼公は、密かに大阪城を脱出し、   (1) 真田幸村公達とともに薩摩へ逃れ、子供も授かり、島津氏の庇護のもと天寿を全うした。   (2) 備中足守(?)へ逃れ、木下家の庇護のもと密かに天寿を全うした。(幕府も黙認)   というものです。私は、当時は写真やビデオなど映像が皆無の時代であり、城からの脱出さえ上手くいけば…ありえないことではないと思うのですが、皆様のお考えやそのような説を唱える学者の方がいらっしゃるのかご教示頂きたくお願いします。   また、島原の乱について「天草四郎は、秀頼公の子供か孫であり、真相は豊臣家の残党が彼を旗印にして、幕府に一矢報いたものであり、いくつかの外様大名が支持すれば幕府の存立にかかわる大事件(単なる一揆ではない)であったという話を聞いたことがあるのですが、真相はどうだったのでしょうか…   併せて、お考え等をご教示くださればありがたく存じます。   どうか、宜しくお願い申し上げます。