• 締切済み

必要悪とともに生きる

必要悪とよばれるものがあります。たとえば,歴史的な文脈においては,国家神道がよく挙げられる例になると思います。そして,犯罪抑止という文脈においては,死刑や公娼制度,反社会的組織などが,必要悪の例として挙げられます。これらの要素は良くも悪くも,人々の生の営みのレベルから,日本社会の発展というレベルにおいて,さまざまな功と罪を残しました。 日々の生の営みにおいて,多くの人々は必要悪とよばれるものと隣り合わせになっていると思いますが,これらとどのように向きあうべきなのでしょうか?

noname#189115
noname#189115

みんなの回答

  • topy7014
  • ベストアンサー率14% (211/1499)
回答No.6

原発でしょうね。実は安部総理もそれは認識しています。在野のときに「原発は近未来と遠未来に分けて考えるべきだ。近未来は必要であるが遠未来は必要ではない。プルトニウム処分場が決まらない限りは」 という発言をしています。今は必要のほうが勝っているとお考えのようですね

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

noname#192754
noname#192754
回答No.5

現実ですが、 神道:宗教で必要悪ではありません。 死刑:必要悪ではありません。 公娼制度はありません。私娼は利用するからある。 パチンコ産業などはやらなければ自然淘汰されます。 必要悪には国民には向き合わないという選択肢があります。 向き合うべきはまずは立法機関でしょう。

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • lions-123
  • ベストアンサー率41% (4360/10497)
回答No.4

>必要悪とともに生きる 日々の生の営みにおいて,多くの人々は必要悪とよばれるものと隣り合わせになっていると思いますが,これらとどのように向きあうべきなのでしょうか?     ↓ 迷信と言い伝え、自然の保存と開発の様に、色んな意見や評価、必要も、必要悪も時代・環境・公私・利害&立場・倫理道徳観・価値観・個性感性・好悪・体験やトラウマ・バイオリズム・優先順位・費用対効果etcのスタンス・シチュエーションや前提条件で変化すると思います。 また、それは多面性が有り、時系列(過去~現在~将来)でも可変化性があると思いますので、一概に必要・不要・必要悪と評価&仕分けできないケースも多いと思います。 したがって、事象やテーマや問いに対し、その時その立場その根拠等のセグメントで未知領域やアソビ&曖昧の部分を最小化する中で、意向・意見・見解のジャッジメントを人は下すのかもしれません。 日々の生の営みにおいて⇒ズバリ一言で、率直に、ブレナイのも信念や筋を通すとか決断力と見れば美徳であるとともに、他方で頑迷・不遜・独善にも繋がる可能性が有り、現実には臨機応変に物事を分析組立、チェックと検索調査して、根拠や理由を反映明示しての率直な評価ジャッジを表現、述べるようにしたいと思います。 宗教や法律や歴史や伝統文化etcの比較的、価値観や評価の定まった領域では個人差や見解の相違が少ないのでしょうが、他の日々刻々と変貌発生する事象に於いては、利害や功罪や嗜好性の様に立場と感性と思想信条でウイングの広い、考え方の裾野の広大なテーマ・問題は必要・必要悪・不要の重なる領域や曖昧模糊の部分、触媒的な要素や条件とか係数や優先順位の設定次第で必要度の属性が著しく変化したり、評価や賛否が移動逆転もあると思います。 良くも悪くも、その捉え方と都度都度のジャッジメントがケースバイケースで如何に対応するかが感性・価値観というパーソナリティだと思います。 その上で、的確に評価判断、対処を行いプレゼンし得るかどうかが、センス・見識・人格人徳・暮らしの知恵・絶対評価と相対評価の一致等なのではないでしょうか・・・ 良くも悪くも、その選択や判断評価の傾向や誠意と信頼が絶対評価としての信念や常識の場合が多く、その使い分けや結論として説明説得力でマジョリティ・合意形成を得るのが権威・見識を形成する求心力・解と成るのでは・・・ そして、多くの引き出し・経験・見識で事象の本質や肝を見切り、筋の通った、解釈・見解を表現行動実現する生き様が誠実な信頼を呼ぶ、器&度量の大きさ深さに繋がり、リーダーシップの与件として信頼賛同を集める雰囲気を醸成するのではと思います。

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • love_pet2
  • ベストアンサー率21% (176/826)
回答No.3

完璧な社会制度などありえません。 外国の制度をサルマネするのではなく、我が国の永い歴史のなかで育んできた風土・風俗をもっと大切にした方が世の中良くなると思います!

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

noname#194660
noname#194660
回答No.2

人間の遺伝の法則が必ずしも長所が優性遺伝でない限り、地道に考えていくしかない問題のような気がします。社会悪の遺伝子が遺伝して生まれてきてしまったとしたならば、必ずしも本人を責められないからです。

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.1

向き合うとは、正面きって対峙するってことですので、どうやっても、向き合う限りは受け入れられません。 功罪があるなら、目線を合わせて、必要悪側に立って、真実に向き合うこと。綺麗事じゃ解決しないから必要悪がある。 審判を自分で下すような神ごとき人には、絶対に向き合うことができない。 自分の手を汚さず、善悪を判断して、野生動物の観察のような事はできません。

noname#189115
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

関連するQ&A

  • 死刑が必要というなら

    死刑が必要というなら、経済犯罪や知能犯にも死刑を適応すべきではないだろうか? 現在の日本の死刑制度に対し疑問があります。私自身が死刑に賛成だ反対だとか言いたいのでなく、死刑の運用が誤っていると感じます。 もし死刑が必要と言うなら殺人だけでなく汚職や詐欺、窃盗などにも死刑を適応すべきでないか? 高額な詐欺事件は多くの人々の生活を破壊するし、賄賂は政治の信用を損ねる重大な犯罪。 人命を奪う殺人罪は当然重罪でありますが、経済犯罪や汚職などが殺人に比べ軽いとは言えないし不公平である。 歴史的にみても江戸時代なら窃盗でも高額であったり、窃盗をした場所によっては死刑になったし、現在でも中国やベトナムでは殺人だけでなく経済犯罪や麻薬密輸などでも死刑を適応している。 刑罰の威嚇力という側面から考えても強盗殺人のような暴力犯罪よりも詐欺のような知能犯罪のほうが死刑などの厳罰の効果が高いと思われる。 余談ですが現住建造物放火罪は法定刑には死刑が含まれているが現在では象徴的なものに過ぎず、死刑にはならない。 刑罰の特別予防、一般予防の見地から、死刑が必要だ、犯罪の抑止力になると言うなら知能犯や経済犯罪にも死刑を適応すべきである。 知能犯や経済犯罪は普通、頭が良い奴や企業の幹部や政治家などといった社会的地位が高い者によって行われることが多い。 後先考えない暴力犯よりも死刑などの厳罰が有用であると感じる。 特に死刑存置論者に対して質問しますが、死刑が必要だと言うならば知能犯や経済犯罪にも最高刑は死刑をもって臨むほうが公平だと考えていますが、このような考えはどう思いますか?

  • 核廃絶運動ばかり宣伝する

    どうも、メディアマスコミだけでなく、社会の隅々まで 「核廃絶だ、核のない社会だ」 という理想論ばかりがもてはやされて、 「核抑止力だ、必要悪だ」 という現実論がなおざりにされている感があります。 どうしてなんでしょうか?

  • 死刑は必要か不要か

    最近、死刑制度についていろいろと考えを巡らせています。 この制度があった方がいいのか、ない方がいいのかということです。 自分の最愛の人が殺された場合、遺族の立場としては、被疑者が生きていることや、同じ空気を吸っていることすら許されないと思うでしょうし、そう考えると死刑は必要と思えます。 死刑廃止論者の方もたくさんいますが、そういう人は、自分の最愛の人が殺されても死刑の廃止を訴えられるかどうか知りたいです。・・・残念ながらそういうのを聞く機会はないですが。 死刑廃止を訴える人の気持ちも理解はできます。被害者や遺族の感情ではなく、客観的に、悪人であれ人の命を奪う行為がいいことなのか、もしえん罪だった場合に取り返しがつかなくなるとか、秋葉原殺傷事件のように、自分を死刑にしてほしいがために殺人を犯すとか、いろいろな理由があるでしょう。 秋葉原の事件の例があると、死刑の存在もどうなのかと思ってしまいますが、自分を殺してほしいがために殺人をするような人には死刑を執行せず、終身刑で仮出所もなく、一生苦しみながら過ごす刑のようなものを作ってほしいです。 そして、やはり死刑は無くさない方がいいと思います。 さらに、殺人だけではなく、幼児誘拐や幼児への暴行、女性への暴行は、たとえ被害者が殺されていなくても死刑を求刑できる制度にすれば、性犯罪や弱い人への犯罪抑止効果になるのではないでしょうか。 どうしても死刑を反対する人の気持ちが分からないのですが、悪人であれ罪人の命を奪うこと、冤罪リスクを避けること、これら以外に何か死刑を廃止すべき強い主張をお持ちの方いたら教えてください。 (もちろん、自分の最愛の人が殺されても、それでも廃止すべきという考えを持っている人に限ります)

  • あなたが決める「この犯罪にはこのくらいの刑罰が必要だ!」とは??

    数年後裁判員制度が始まります。私は民意レベルで刑罰を決めることができるという点では大賛成です。 ある時ニュースで、「たくさんの女性を強姦したスーフリの主犯格が懲役14年」を見た時、「なんて刑が軽いんだ!」と思いました。 いつも思うのですが、女性を長い間監禁した犯人が懲役4年とか、 子供を虐待して殺した人が懲役6年とか、強盗犯が執行猶予付きとか。。。。 刑が軽すぎるような気がして腹が立ってきます。 そんな前科者が沢山いる中で生活してるんだと思うと、ぞっとします。 そこで、皆さんが思う「この犯罪にはこのくらいの刑罰が必要だ!」というのを教えてください。 実際起こった事件に関しても可とします。刑罰に関しても自由で、百叩きとか丸坊主とか社会奉仕とかでもOKです。 できれば理由付きでお願いします。 私の意見としては。。。 強盗:百叩き(被害者が叩く)、悪質で被害者複数なら百叩きと死刑。未成年も同じ扱い。    (死刑を適用すれば抑止力になって、強盗がいなくなり、みんな住みやすくなるから) 強姦:原則死刑、被害者一人で初犯なら10年    (複数って事は確信犯で悪いやつなので。初犯で一人なら、酔った勢いとか何かの過ちを考慮して。    それに10年くらいなら精力も落ちてるだろうから) 痴漢:原則ホモに襲われる&百叩き(被害者が叩く)    (痴漢された人の気持ちを味わせるため) 死刑が多い理由は、無期懲役だとその人の衣食住のために長年税金が使われる事が腹立つため。 「私はこう思う!」という事が聞きたいので、人の意見の批判・中傷は止めてくださいね(^^;)

  • デフレなのに下がらない風俗料金

    風俗、とくに性風俗店は、性欲のはけ口として機能しており、性犯罪を抑止するという意味で、必要悪というか、むしろ、公共的な側面もあると思います。 たとえば、店の中では、おさわりとかが可能ですが、公道や鉄道内などで他人に行うと犯罪になります。もし、法的な規制とかがなければ、ムラムラしているときなど、触ってみたくなるひともいると思います。そういうひとが、お金を払って、風俗へ行くことで、そのような犯罪に至らないように欲求を満たしているわけで、なるべく安価な方がいいと思います。 しかし、バブル期のサービス料金が、そのまま、引き継がれているように思います。もう少し、値段を下げれば、多くのひとが、利用するので、店の売上もそんなに下がらないと思うのですが、どうでしょう。もうひとつは、公安委員会による店そのものの規制が影響していると思います。 ヨーロッパでは、公娼制度のところもありますし、売春婦も職業として認められているところもあります。子どもが来ないところを特定地域として、規制を自由にするだけでも、店ごとに差別化がはかられ、料金も安くなると思います。どうでしょう。

  • 死刑廃止をどのように訴えればいいのか

    微力ながら死刑廃止を訴えてます。一日でも早く死刑を廃止したいですが、現状では廃止できる見込みは立ってません。 死刑廃止の訴えが、国民の半数以上の死刑支持派や中間派の人たちから支持されないのか、運動や訴え方のどこに問題があったのか、考えてもよくわかりません。今まで廃止運動に取り組んでこられたみなさまは、どこに問題があったと考えてますすか。 死刑廃止の訴えが国民の半数以上に支持されるには、運動の方法、訴え方をどのようにすればいいのか、今までの運動方法や訴え方に改めるところがあるなら、どこをどのように改めたら、廃止の実現に役に立つと考えてますか。 私の個人的体験ですがが、私が死刑を廃止すべきと理由を主張したのに対して、死刑支持派に反論されて、それに再反論できずに、議論に負けてくやしい思いをしたことがあります。皆様は下記のような死刑支持派の主張にどのように反論してますか、それとも、死刑支持派が主張するように、死刑支持派や中間派に納得されない理由なのかわかりません。 例.冤罪だったら取り返しがつかない 現実的には、再審で無罪になった4事件、執行されずに天寿を全うした3事件とそうなりかけている2事件がある。死刑囚が無実を訴えて再審を請求し、法務省もその死刑囚は冤罪と判断している場合はその死刑囚を執行せず、再審を待つと表明しているが、再審の受理はめったに無いので、結果として仮釈放されない終身刑と同じ処遇になっている。法務省がそういう運用方針でなので戦後の日本で無実で執行された事例は無く、今の日本では説得力がある理由にはならない。無実で執行された事例があるなら、その事例と根拠を示せ。 論理的には、冤罪は死刑に所属する問題ではない。刑事訴訟法上の被疑者被告人の権利保護に不備が多々あり、警察検察裁判所が誤認するか冤罪を作ろうと思えば、法の不備を利用されて無実の人が有罪にされるので、冤罪と死刑は根本的には関係ない。冤罪で刑を執行されたら取り返しがつかないことは、死刑も懲役も原状回復が不可能という意味で差は無く、執行後に再審で無罪になった場合は政府が金銭で賠償している。再審の困難さも死刑と懲役の差は無い、狭山事件を見よ。 例.死刑は殺人の抑止力にならない 感情的な死刑支持者は、死刑に犯罪抑止力があると思っている人が多いが、冷静沈着な死刑支持者は、各国の統計で犯罪の一般抑止に刑罰の効果があるとは確認されていないことを知っている。刑罰に犯罪の一般抑止力が無いから廃止しろという理由だと、死刑と殺人だけでなく、他の罰と罪にも当てはまる論理なので、全ての罰を廃止して、他の方法で犯罪を処遇しろという主張になり、死刑を廃止する理由にならない。 抑止力が無いからという理由は、一般予防と再犯予防を故意に混同し、死刑や他の刑罰に、社会からの隔離や教育による再犯予防効果や予防可能性があることを故意に無視している。刑罰が重いほど、社会から隔離される時間が長く、隔離中は再犯が予防される。例えば、殺人、誘拐、強姦、強制わいせつ、強盗、傷害、放火、テロ、銃や麻薬の密造密売をした犯罪者が、反省の感情や意思が無いか乏しく、再犯の可能性が高いと予想される場合、懲役10年<20年<30年<無期と刑罰が重くなるほど、社会からの隔離による再犯予防効果が高まる。死刑の場合はそれが100%確実であるにすぎない。実際、殺人の再犯も殺人以外の重罪の再犯も、社会全体の殺人や各種重罪の発生率よりも桁違いに高い。国家が死刑も懲役も、冤罪で執行することは絶対に許されないと主張しながら、刑罰の緩和や再犯可能性を誤判断して仮釈放した結果、私人が殺人や他の重罪の再犯をしている現実も、再犯をする可能性が高いことも無視しろと主張することは、殺人や他の重罪に対して国家と私人に対するダブルスタンダードの使いわけであり、そんな理由に説得力は無い。 例.修復的司法 修復的司法に一定の効果があることは認めるが、殺人や植物状態や痴呆のように被害回復が不可能な事件に対して「修復的」と称し、被害者と加害者が対話し和解し関係を修復できるかのように主張することは詭弁でしかない。私人が人を殺しても植物状態や痴呆にしても被害の修復と加害者との関係を修復できるなら、国家が死刑を執行しても死刑囚の被害や国家との関係を修復できるだろ。和解を望まない被害者遺族や家族が無い被害者もいるので、修復的司法に普遍性は無い。死刑廃止と修復的司法を組み合わせて訴える必然性も、それによる社会的利益もない。 字数制限のため上記しか書けませんが、上記だけでなく、国民多数派から死刑廃止を支持されるためには、どのような理由で訴えるのが有効か、皆様の考えや、経験や議論の方法を聞かせてください。

  • 悪が許せない!! 何が向いているのか(長文)

    現在大学4年生の者です。 就職活動を1年間やってきましたが、何がしたいのか分からぬまま時間だけが経過し、いまだ内定はありません。 来年にもう一度挑戦しようと考えています。(民間・公務員含めて) 改めて時間の性格を考えてみると、悪といいますか、不条理が許せないのだなと思いまし た。 以下にいくつか例を挙げます。 ・就職活動中の経験で申し上げますと、学生を見下したような企業側の横柄な態度に怒りを覚えました(もちろん、そのような会社ばかりではありませんでしたが) また、選考を受けたわけではありませんが、ブラック企業と呼ばれる会社の労働者への仕打ちは許しがたいものがあります。 ・電車で体の不自由な人に気付いているにも関わらず席を譲らない人、スペースを大きく取って(足を広げて)陣取る人など他者のことを思いやる気持ちがないのだろうかと思います。 ・「ありがとう」を言わない人。自分から頼んで何かをしてもらった時にそれが当然だといわんばかりの態度を取る人がいます(私の周りでも多くいます)。 「感謝してほしい」などという気持ちはありませんが、人としてお礼を言うのは当たり前だと思います。 これから書く部分は特に許しがたいところです。 ・性犯罪者・凶悪殺人犯です。とくに未成年による犯罪が行われた時に被害者は泣き寝入り、加害者はすぐにシャバに戻ってきます。実名も明かされません。 反省することなくのうのうと人生を楽しむのです。 こういった類のニュースや記事を読むと、血管がぶち切れそうになるほどの怒りから、全身が震えます。被害者の苦しみを考えると、あまりにも悲しくてやるせない気持ちになります。 自分の欲のために強姦をする人間や集団リンチ・拷問を行う人間など死刑でいいでしょう。 もはや人ではなく、獣です。鬼畜染みています。 もし私の身内や大切な仲間が被害に合った場合、自分の人生を投げ打ってでも復讐します。 以上が私の許せない事柄のごくごく一部です。 人の気持ちを考えることのできない人、保守的な思想を持つ人、自分の保身だけが大事だと言う人、すぐに八つ当たりする人などは一番嫌いです。 これだけ書くと私は直情型の人間に思われるかもしれませんが、いたって穏やかであり、冷静に物事を判断し、理性も自制心も人一倍働きます。また、頑固な一面もあります。 自分に非があって何か言われた場合は心の底から反省しますが、八つ当たりや責任の押しつけ、人を見下して馬鹿にするなどこちらに非がない時に何か言われれば、どなり散らして殴ってやりたいと思います、そこはもちろん抑えて顔にも出しません。(社会に出ると不条理なことだらけでしょうから、臨機応変に対応するしかないというのは分かっております) 上記に綴ったようなことに怒りを覚えながら生きていますが、どうすればこういったことが良い方向に変わるのだろうかと考えたまま動くことのできない自分が情けなくて仕方ありません。 個人的には人に対する礼儀は徹底しますし、常に相手の気持ちを考えて行動してはいます。 ただ、凶悪な犯罪者などの常軌を逸した人物に対しては何もできぬままです。 弁護士や裁判官といっても、日本の判決はあまりにも甘過ぎるがゆえに納得がいきません。 警察官だとしても、私一人が一生懸命動いたところで被害者を救うことはできないように思います。 お役所仕事的な部分がありますので。 思いの丈を長々と書き綴ったので何が言いたいのか分からないかもしれませんが、 私のような性格の人間にはどういった職業が適していると思われるでしょうか。 私自身も何がしたいのかまだはっきりと分かっていないのです。 こういう思想を持つ私にはこれから生きていく上で何ができるのか知りたいと思いました。 犯罪の被害者を救う職業でなくてももちろん結構です。あくまでも一例として、私の一番許しがたい部分を挙げたので、他の状況にも当てはまることは多くあると思います。 みなさんの率直な意見をお聞きすることができれば、幸いでございます。

  • 開放系社会と閉鎖系社会

    人々の理想的社会に「桃源郷」というものがあります。 人界から隔絶し、わずかな善良な人々だけが暮らす村社会。欲望もなく発展もなく幸福だけがある。そんな社会。 そして、あるとき下界から欲にまみれた人が踏み込み、理想郷は破壊される。そんなストーリー。 欲を否定し、関係性の拡大を否定し、閉じこもった幸福を賞賛する価値観。それが桃源郷です。 鎖国を賞賛する価値観もこの文脈上にあると思います。 だが実際には閉鎖系社会は幻想に過ぎません。小説を持ち出すまでもなく、外部には未知の、アンコントローラブルな意思があります。それらと戦わなければ我々の社会は維持できません。 閉鎖系社会は必ず外部からの攻撃によって敗北します。 なぜなら、この理想的な閉鎖系社会は発展がないからです。 未知の外部と戦うためには、常に未知と戦いつづけ、常に未知と交流しつづけなければなりません。 そのために必要なのが「欲望」です。 欲望を捨てて幸福になることは、未来の敗北を約束します。 左翼の「理想」は、すべて「閉鎖系社会」を前提としたソリューションです。だから現実と合致しないのです。 開放系社会を前提とした理想を再構築し、社会の差異を受け入れ、外部からの攻撃に備えなければならない。 我々は地球文明だって閉鎖系だと思っているかもしれないが、数百年のうちに地球外文明と接触する可能性がないとはいえない。つまり地球文明も開放系です。 閉鎖系にとって理想は「安定と秩序」だとしても、開放系における理想は「成長と協調」以外にない。 成長の源泉は闘争心、勝ちたいと思う心、欲望です。 私はそう思います。 補足:死刑が望ましいかどうか、このような議論で考えるべきは局所的な論理的整合性ではない。 開放系である社会が生き残っていくために成長していくために望ましいシステムはなんなのか?それだけだ。 ------------------ さて質問どうしましょう・・・とりあえず左翼的価値観(平和・平等・博愛・多文化主義・死刑廃止)についてどう思いますか?

  • 映画「グリーンマイル」って感動できる映画として認知

    グリーンマイルを見ました。 友人に「感動できる名作映画」と聞いて見てみたのですが、 この映画ってそういう区分に分類される映画なんですか? 私はそうは思えませんでした。 「この映画は現代の悪に満ちた社会を批判した映画だったのかなー」 くらいにしか感じられませんでした 悪を裁いて人々を救うためにやってきた神の遣いジョンを 本来なら感謝をする側であるはずの人間が、あろうことか彼を「悪」として罰してしまい、 そしてその報いは、善良な人間でいてそして神の恩恵を一身に受けた主人公に返ってくる、という どこまでも「救い」がなくて、 そして現代に生きる短絡的で悪に満ちた人間たちを批判した映画だと思いました 少なくとも、「泣き」を全面に押し出したような映画には思えませんでした。 そもそも、この映画に「感動の名作」と呼べるほどの感動シーンがあったのでしょうか この映画の泣き所というのは、おそらくポールがジョンを死刑執行するシーンだと思うのですが、 このシーンは「感動の名作!」と呼べるほど、感動できるシーンなのでしょうか。 あのシーンの感動ポイントは、 ・ポールはできることなら死刑を執行したくないが、 「生きていたくない」というジョンの本心を聞いて泣く泣く第二スイッチを入れるという「葛藤」。 ・何故善良であるポールが死ななければならないのかという「不条理さ」 この2つだと思うのですが、 前者については、 感動できるほどジョンとポールの二人の関係性は深いものではなかったし、 後者については、 ポールの善良さは取ってつけたような感じがして説得力が無いと感じるのは私だけでしょうか ここまで言っておいてこんなことを言うのもおかしな話ですが、 このシーン自体はとても良かったともいます。 シーンそのものを批判したいわけじゃないんです。 ただ、、「感動の名作!」といえるほどのシーンとは思えなかったんです。 「感動した!」といってる人は、ただ映像の迫力に騙されて感動してるだけのように思いました 私は見方を間違えているでしょうか

  • 現在の刑法は罪状にによって刑罰の上限を決めているが、この上限を撤廃したらどうだろうか?

    土浦の無差別殺人事件の判決が出ました。 被告本人は 「死刑を望んで、覚悟して殺人事件を起こした。希望通り死刑判決を出してほしい」 といっています。 最近、このように 「死刑になりたいから殺人をしました」 という事件が数多く起こっています。 現在の日本の刑法では罪状によって刑罰の上限下限が決まっています。 いっそのこと、この上限下限を撤廃してしまったらどうでしょうか? たとえば現行の窃盗罪では死刑はありえません。 したがって死刑願望者は万引きで警察に捕まろうとは思いません。 「4人以上の人殺しをしたら死刑」という永山(だっけ?)基準に則って4人以上の殺人を犯してしまいます。 これでは殺された人がかわいそうです。 ですので、窃盗罪でも詐欺罪でも傷害罪でも、全部上限は死刑にする。 そうすれば死刑願望のあるものは 「死刑にしてほしいので犯罪を犯しました。罪状は鉛筆一本の万引きです」 と軽微な罪で捕まえてもらえます。(万引きされた商店も迷惑だが、無差別殺人よりはよかろう) また、「死刑制度は犯罪の抑制力になりうるか?」という論議にも終止符が打てます。現行では反対論者の意見は 「死刑制度があっても、犯罪を犯すものは犯罪を犯すんだ。抑止効果はない」 といいますが、それは多くの犯罪が数年で刑期が終わるからです。ムショ暮らしの期間が計算できるから、計画的に犯罪を犯す。(主に暴力団など、アウトローの人々ですが)  その点、上限撤廃すれば問題なし。なにしろ、立小便でも駐車違反でも、何をやっても最高刑は死刑ですから。世の中、みな品行方正になりでしょう。死刑制度に抑止力なし!という意見は、刑罰の上限撤廃したときに始めて有効になる意見だと思います。 現在の裁判では実際には「量刑の相場」ってのがあって、裁判官は自分の考えなど挟む余地なく、前例の「量刑の相場」にしたがって判決を出すでしょうから、もし量刑の上限が撤廃されても、ごく普通の人が犯罪を犯した場合は相場どおりの判決をしてもらう。  ただしその筋の方々が被告人の場合、罪状によっては上限撤廃という”伝家の宝刀”を抜いてもらう、ってことで。 現行の裁判でも時々 「私は悪い人間でどうしても性根をたたきなおすことができません。  私のような人間が社会にいると人様のご迷惑になります。  よって、なるべく長い刑期をおあたえください」 と希望する被告人がいると聞きます。 本人が希望するなら、例外として相場以上の刑罰を与えられるように刑法改正することはマズいのでしょうか?