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教えを通じて神に近づく

諸の聖典に綴られている言葉、教えを通じて神に近づくという場合、その言葉、教えは道標のようなものと考えられる。 この時、その道標たる言葉や教えを信じて精励するのであるが、どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。 それともいつまでも、それらが道標として機能するゆえに、道を踏み外さないでいられるのだろうか。

  • a_hona
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  • ベストアンサー
noname#189751
noname#189751
回答No.7

「基本に始まり、基本に終わる」 という言葉があります。 よくいわれる言葉ですが 「なぜ? 基本なのか?」 が分かれば卒業なのだそうです。 それくらい「基本」が大切だということだと思います。 同様に 「道標」はなぜ「道標」なのか? 道標の深い意味が分かったとき、はじめて道標は、その人のものとなるのでしょう。 その人のものとなって一生忘れることはない。 そんなふうに思います。 >神に近づく 眠っている神様にいくら呼びかけても起きてこない・・ でも 眠っているふりをして聞いているのかもしれない・・ もっと呼びかけなさい、大きな声で・・と 道標の言葉とは、そうしたものではないでしょうか。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほどです。基本がなぜ基本であるのか分かれば、基本をマスターしたことになる、ですか、道標についても同様だと。

その他の回答 (6)

回答No.6

 こんにちは。  ★ 神に近づく  ★ どのような境涯に至れば  ★ 道を踏み外さないでいられる  ☆ これらのすべては 人間の――あるいは じんるい全体の――判断に帰着します。  人間の判断なる能力は 万能か?  とうぜん 有限であるとなります。  言いかえると この問いのすべては あとは一人のひとの主観という問題に行き着きます。ひとりの主観の問題でしかないとなります。  これをさらに言いかえると 問題は もしそれでもひとつの主観を超えて その内容が共同化しうると(つまり 人びとのあいだにコモン・センスをかたちづくり得ると)するならば そのときには 《神に近づく / 道を踏み外さない》といった外形的な主題としてや切り口において問う〔だけ〕ではなく ずばり《境涯》の中身を問い求め 互いにその・とにかく主観の外に表現された中身を吟味検証しあう。ということ。ここに帰着します。    ★ どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。  ☆ これは しかしながら けっきょく《神に近づく》とはどういうことか? に帰着します。  だとすれば   ○ 神とは何か?   ○ 神とわれとの関係は どういうことなのか?  ○ ・・・    といった主題を立てて扱わねばなりません。  問い求めには 切り口と順序とがあります。  このように知ることは たぶんひとつの道標がその役目を終えたと言えると自負しています。そういうひとつの段階の境地です。  主題を一つひとつ 地道に問い求めること。その中間報告を互いにつねにおこなうこと。そういう問題ではないでしょうか。  行き当たりばったりでは 用を成さないと考えます。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 その境涯の中身にその答えを求める、それは妥当だと思います。中々言葉にするのは難しい事柄ですが、一つ一つ言葉にして行く作業が理解につながるのかもしれませんね。

回答No.5

  >そのような諸々の徳たるものが、人間の信じるべきもの、人間の真理ではないだろうか。 例えば聖書にはおびただしい数の奇跡の話が盛り込まれています。 これらの奇跡が真理でなくただの演出であり偽りであるとすると、例え聖書が善や愛や徳、友や賢、清いことを説いたとしても、真理を説いてはおらず偽っている以上道標には成り得ないゆーこと。    

a_hona
質問者

お礼

私はそうは考えない。見るべきところを見て、見なくてよいところは見なくてよいと考える。たった一つでも金言を得たならそれでよい。それで十分道標にはなるだろう。読む側の問題であり、その書が満遍なく正しくなければ我慢ならない人は、その書を放棄すればよいのだと思う。誰かにとっての道標が、万人にとってもそうであるということにはならないだろう。それぞれの人が、何処から道標を得ようとも構わないだろう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

a_hona様、こんにちは。 「参考資料」と思います。 (今回、それでよかったとしても、次回それでいいとは限らない)

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 なるほど、一種、参考資料のようなものかもしれませんね。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

>>この時、その道標たる言葉や教えを信じて精励するのであるが、どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。 ○道標即我、我即道標の境地に至れば一つの道標の道は卒業したといえる。この世で仏神の道標の一つでも押し通せば当然、肉体生命の危機もあります。しかし、道標即我、我即道標の境地に至れば肉体生命など気にもかけないでしょう。吉田松陰や坂本竜馬などはそのような生き方のように見えますね。肉体生命や家族や地位や名誉、つまり、自身やこの世のことにかまうようなより良い生き方を目指すようでは道標の役目が終わることはないでしょうね。道標が神の教えであるということは道標即神ということなんですね。それが神の世界の掟ですね。

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 それは大変難しいことですね。命よりも法が大事だというのは、私には計り知れません。過去の偉人たちはそのようであったのかもしれないですね。

回答No.2

>善や愛や徳、友や賢、清いということなどについて書いてあるが、それらを読んだだけでそれらを身につけることはできないだろう。 聖典が善や愛や徳、友や賢、清いということなどについて説いたとしても、真理を説かなければ道標には成り得ないゆーこと。  

a_hona
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そのような諸々の徳たるものが、人間の信じるべきもの、人間の真理ではないだろうか。

回答No.1

  >この時、その道標たる言葉や教えを信じて精励するのであるが、どのような境涯に至れば、それらの道標達は役目を終えたといえるだろうか。 聖典に綴られている言葉、教えはそもそもその出発点において既に道標としての役目を終えているのではないか。 奇跡で始まり奇跡で終わる聖書物語などはその出発点において既に道標としての役目を終えていると考えます。  

a_hona
質問者

お礼

例えば勇気という言葉を知っただけで勇者になることはできない。勇気という言葉を知って、それがどういうものであるかを体得してこそ勇者となる。諸の聖典の言葉も同じではないだろうか。善や愛や徳、友や賢、清いということなどについて書いてあるが、それらを読んだだけでそれらを身につけることはできないだろう。それで精励することが必要であると説かれる。 書物の始めであろうが中ほどだろうが、終わりであろうが、有意義な言葉を一つでも見出せたなら、その読書は有意義なことだったのである。

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  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

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