• 締切済み

意外に難しい英単語

Freedom、Responsibility、Human Right、これらは 普通に英語が苦手でない人なら、誰でも知っているような単語です。 でも、「自由」、「責任」、「人権」と訳したところで、 本質的な意味を理解している人は少ないように感じます。“自由”なら、 勝手気儘になんでもやっていい と考える人も多いし、 “責任”を取る というのは 例えば 会社で不正を働いて大損害を与えれば 損害賠償をしなくとも 退職するだけで 済まされるような日本の風潮、 “人権”については 例えば 凶悪な殺人者は 動物みたいに 刹処分しろと 叫ぶ人が多いなど。 これらの 訳語は明治時代あたりに作られたものだと思いますが、訳語を作ったところで 日本人には 理解が難しいんでしょうか?

  • Ksenia
  • お礼率66% (357/533)
  • 英語
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みんなの回答

  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.4

 "Freedom""Responsibility""Human-Rights"などの言葉は、それぞれに「自由」「責任」「人権」といった「訳語」がありますが、これは英語を単純に日本語に置き換えただけなどの表象的な問題ではないと考えます。  それぞれを対象とする学問領域で使われてきたテクニカル・タームが新聞などの一般的な活字メディアでも使われ始めてきたとの経緯もあります。  例えば「自由」という訳語にも"Freedom"と"Liberty"との二種類があって両者の間でもニュアンスも異なると同時にこれらが西洋から移入された明治維新当時から現在に至るまでの間、殊に後者は一般の日本社会には馴染んでいないとも政治学などの社会科学領域では言われています。  「訳語」ですから、外国語の表記を単純に日本語に置き換えるとの意味とは少し異なりもします。「訳すこと」は「日本語で定義し直すこと」と同じですから、日本そして日本語になかった概念を日本語で表現することは無謀にも近いか或いは誤訳となる可能性も多大にありえるとのことになります。  更に言えば、この「日本語」ですらも先の三例は「漢語」をペースとしてもいます。つまり「西洋の言葉」に対して二段階のクッションを設けてるともいえますが、漢語の背景にある中国の思想と西洋の思索との間に共有できる部分があるかといえば、これも問題になるはずです。それを考えなら、僕の個人的印象ですが、日本には西洋近代の思索を十分に表現しうる言葉が本質的には存在しないのではなかろうかとも考えてしまいます。それは歴史の経緯一つをとってみても明らかといえます。日本には「市民革命の経験」がありません。これはどうしても真似のできない部分でもある。  僕が「自由」の訳語に対応するのは"Liberty"であると考えていますが如何でしょうか。そして「本質」とは哲学的あるいは社会科学としての認識論的な位置付けに基づくと考えますが、これも如何でしょうか。もしそうでなければ質問者様に問いに答えていない形となるはずです。

  • Him-hymn
  • ベストアンサー率66% (3489/5257)
回答No.3

あなたの例を読むと 「自由」に関しては、言葉の理解の問題を指摘 「責任」については、責任の取り方の問題の指摘 「人権」については、それを重んじない人たちの存在の指摘 のように思います。少なくても「自由」はことばの問題ですが、残りは「ことば」以外の、もっと大きな問題のように思います。 訳語を作ったところで 日本人には理解が難しいんでしょうか? →理解するのが難しい概念は確かにあります。しかし、ご質問の言葉に関しては、おおむね理解はできているのだと思います。理解することと実践することは別問題。また、人は易きに流れるものですから、自由の一面をもって、自由を理解するーーということがあります。これは何も日本人だけではありません。アメリカにだって自由を履き違えている人はたくさんいると思います。 武器を持つ自由ーーこれで、青年の死因のトップが殺しになったりするわけですから。 さらには、戦い取った「自由」「権利」と、人から教わった「自由」や「権利」では重みも違います。自由のためにたくさんの人の血が流された歴史を持っている国と、そもそも自由のために戦ってこなかった日本(一部戦った人はいるが)では大きな違いです。 これは、訳語の問題もなくはないでしょうが、それ以外の部分に問題点があるように思います。 たとえば、平和。ほとんどの人が平和を願っているのに、人類の歴史は戦争の歴史と言っていいほど、戦争だらけです。つまり、ことばがあっても、本質が伴わない。 宗教書でも、たとえば、旧約聖書では、「罪」を犯さないように言っているのに、旧約聖書の歴史はイスラエル人が神に反逆して偶像の「罪」に陥り、最後は滅びる。 結局、啓蒙活動があっても、人間はそれを実践できない面がある。それを歴史が証明しているのであって、「ことば」というよりは、人間性、社会性、生き方、文化、さまざまなものが絡んでいるーーと思います。

Ksenia
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ぼくは英語は得意な方だと思うんですが、高卒で馬鹿なので Him-hymnさんの哲学的説明は難しすぎます。

  • litsa1234
  • ベストアンサー率28% (230/795)
回答No.2

訳語はそれなりに役に立つ語と言う風に考えたらどうでしょうか。 英英辞典を引く癖をつけましょうね。 以上、参考まで。

Ksenia
質問者

お礼

Merci pour la réponse. Mais j'ai peur que je vous dise que votre réponse est parfaitement hors de propos.

  • KappNets
  • ベストアンサー率27% (1557/5688)
回答No.1

英語の概念を日本語でどう表すか、昔の人たちは苦労されたことでしょう。英語をそのまま使うことになったインド他とは違ったアプローチをとるため、日本では漢字を当てることを考えついた学者がいたわけですね。現在の日本でもこのやり方であらかたの欧米の思想を日本語で議論出来ているわけです。(ただし例えばITの概念などは漢字になりきらずにカタカナや英語の大文字になっていますが)日本語生まれのこれらの用語は中国でも使われているそうです。むろん日米の用語は100%同じ意味ではありませんし、直訳不能な単語・言い回しも数多くあります。それでも直訳に近い日本語で議論出来ている意義は大きいと思われます。

Ksenia
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ちょっと見当外れなご回答ですが・・・・・ 例えば「自由」ですが、おそらく、江戸時代は freedom に対しては、「勝手」とか「気儘」とかに訳されていたと思うんですが、「自由」という訳語が作られても 「勝手」とか「気儘」と殆んど同義語で使われていますよね。 「責任」も むしろ 「落とし前」や「けじめ」の意味合いで使われることが多いし。 「人権」も 「生きる(暮らす)資格」みたいに捉えている人が多いでしょ。 やっぱり、訳語を作ったところで 概念まではなかなか理解が難しいものですね。

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