• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?)

パウロとペテロ、異邦人と割礼の者の関係についての質問

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.1

 こんにちは。  ◇ III 十二使徒とは、何なのでしょうか? イエスの教えを伝えるためのタダの装置のようなものなのでしょうか?  ☆ 解説書を読むと 当時において〔も〕 遠くは預言者の系譜として 文書としての律法(ないし聖書)をおしえるサドカイ派やパリサイ派の人たちのほかにも 《口伝律法》を民衆に巡回しておしえる《ラビ(教師)》が多くいたと言います。(以下 〈聖書と口伝律法とラビ〉 in  河合一充編著『ユダヤ人イエスの福音――ヘブライ的背景から読む』 2012 によります)  このようなあたかも私度僧のごとき教師たちの一人であったと言います。つまり イエスがです。  《十二》というのは ユダヤ民族の支族の数に合わせたのかも分かりません。(この点は わたしの推測です)。ほかにもいたと言い 金持ちの息子などは 弟子としてついて行けなくなった場合が書かれていますね。  つまり 名だたる教師には 弟子も多くいたということだそうです。それが ふつうだったのだと。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  I パウロとペテロ(ケパ)のどちらが正しいのでしょうか?  II パウロと十二使徒はどっちがエラいのでしょうか? どちらが、イエスの教えを正しく理解しているのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) イエス・キリストについて 《おしえ》は 主要な問題にはならないと考えます。  (い) 万人にとっての神――《無い神》をふくむ――を指し示したことが いちばんだと見ます。  (う) 《真理とめぐみ》をもたらしたと言いますが 真理とは そのじんるいにとっての《全体としてひとつの神》のことです。その神への 心の明け これが 《道》であり 《生命》であると。(《向こう岸(彼岸)へと筏で渡る》というのとも ちょっと違う)。  (え) 《おしえ――または パウロの言う《文字》――》は要らないとおしえた(!?)。  (お) 生まれながらの きよらかなおそれ これのみだというオシエを人びとに押しつけた(!?)。それにしたがうならば 幼子のように 元気が出ると告げた。これが 《めぐみ》である。  (か) 真理はきみたちを自由にする。  (き) メグミ( grace )というのは タダで(無料で)( gratis )そなわっているという意味でもある。その幼子のごとき心のあり方が すべてであると語った。とにかく元気が出るのだと。出ないのは 信仰ではない。  (く) これらのことを パウロは――そのことをわたしは アウグスティヌスをつうじて理解したのですが―― 語っている。  (け) 十二使徒の一人ひとりについては分かりませんが ペテロは そのパウロの信仰説明について分かっていたであろうと推察します。夢の中で 大きな風呂敷が出て来て その中にいろんな動物だかが入っていた。つまり どの言語のどの民族も ひとしくキリスト・イエスの指し示した・万人にとっての神のもとに生きるということを ペテロは知っていた。  (こ) ただし ペテロは そのあたらしい信仰のかたち――特には従来の儀式やナラワシから自由であることとしてのあたらしいかたち――に慣れていなかった。  (さ) もしペテロは 一般にそうであるように弟子たちの代表として語られているとするのなら ほかの弟子たちも 同じくあたらしい信仰のかたちを知っていた。ただし 昔取った杵柄が忘れられなかった部分が多かったのかも知れない。  ◇ イエスによって正しい律法がもたらされたから、それまでの古い律法はご破算にしてよい / ということなのでしょうか?  (し) 《律法》は 集団として生きる場合の交通法規です。  (す) 中身として 個人にとっての信仰と同じものであるとしても・ですから《良心》の問題として捉えることにも対応しているものであるとしても 交通信号のように ほかの人びともそれを守るというかたち――つまりは そのようなものとしての社会的な約束ごとないし取り決め――としてはたらくのだと考えられます。  (せ) つまりは 交通法規を守るというのは 人やクルマの流れがすんなりと行くようにという・或る種の仕方で外形的な意味合いを持つ側面と そして 人間どうしの交通つまりコミュニケーションとしての良心や信義の関係という側面とがあると思われます。  (そ) あたらしいかたちの信仰にもとづくなら 基本的に言って・一般的に見て 心の内面についても外面においても 律法を守るという姿勢は受け継ぐと言っているものと受け取ります。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~  もし、パウロが正しいとすると、ペテロを始祖とするローマ・カトリックの正統性の根拠が失われてしまうように思うのですが、  ここのところは、どうなるのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 楽しみに取っておきたいと思います。寄せられる回答をたのしみにしています。

NemurinekoNya
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 共卓問題についてのbragelonneさんのお考えを伺いたいと思います。 ───────── 5:27そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。 5:28すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。 5:29それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催したが、取税人やそのほか大ぜいの人々が、共に食卓に着いていた。 5:30ところが、パリサイ人やその律法学者たちが、イエスの弟子たちに対してつぶやいて言った、「どうしてあなたがたは、取税人や罪人などと飲食を共にするのか」。 5:31イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 5:32わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。 口語訳 ルカによる福音書 第五章 ───────── と、『ルカによる福音書』にはあります。 厳密には、異邦人との共卓とは異なるのかもしれませんが、 異邦人と共卓をすることを避けるようになったペテロ(ケパ)の姿勢は、 イエスの立場に反するのではないですか? ───────── 5:36それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。 5:37まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。 5:38新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。 5:39まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。 口語訳 『ルカによる福音書』 ───────── 《酒》が《律法》のたとえであるとするならば、 古き律法は捨てさるべきものなのではないですか? わたしには、そもそも、異邦人、無割礼の者との共卓が問題になることの方が、問題なのでは、という思いがします。 bragelonneさんのお考えを教えてください。 よろしくお願いします。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。