• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ペテロとパウロ、どっちが正しいのでしょうか?)

パウロとペテロ、異邦人と割礼の者の関係についての質問

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.3

 No.1です。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  厳密には、異邦人との共卓とは異なるのかもしれませんが、  異邦人と共卓をすることを避けるようになったペテロ(ケパ)の姿勢は、  イエスの立場に反するのではないですか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《律法》の遵守あるいは厳守という問題については あいまいなままになっているところがあるかと まづ 思います。  姦淫の女が現場で捕まえられたら 石打ちの死刑だとあります。  ▼ (レビ記/ 20章 10節) 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。  ☆ ところが ヨハネ福音書(8:1-11)では 《あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい》というイエスの発言によって その刑をまぬかれた模様です。  姦淫ばかりの例を出してすみませんが 王のダヰデは 人の妻を横取りした上に その軍人の夫を戦地に遣って死なせた。ところが 言ってみれば お咎め無しです。  ですから 律法の遵守という問題については まだよく分からないと思っています。  その上でですが 律法は 基本的な内容については 守るべきものだと考えます。新約の時代になってもです。  それは けっきょくアブラハムが その長子のイサクを神への生贄としてささげるからであっても 人をころすことは よくないことではないかと確認したという問題が モーセの律法条文の書かれる以前にあったと考えます。  ひとは人をころさない。自分をも他人をも。という書かれざる心のうちの律法が――自然法というべきものとして―― アブラハムの信仰から得られた理論として 持たれていた。と見ます。そして このような基本内容は 成文法となった時代と制度のもとでも まもるべき信仰のあり方だと見ます。  この生命の尊厳といった基本内容とは別に 社会のナラワシや法律条文にかんしては 時代とともに変わり得るとも考えられますから 特別の遵守命令を受けているとは 見ません。  いのちのとうとさは けっきょく 存在の掛け替えの無さであり 具体的には 人それぞれの自由意志の尊重のことだと見ます。逆に言うと 意志が 人間存在の中軸となっていて これをないがしろにすることは 暴力――あらゆる暴力の初め――である。と捉えます。  この基礎内容は ナラワシにしても律法にしても 守るべき――オシエと言えば唯一のオシエたるべき――事柄であると捉えます。  隣人を愛するのは このように自分のおよび相手の意志をとうとぶということを基礎内容とすると捉えます。つまり隣人愛も 唯一のオシエと言えばそうですから。  ○ 共卓  ☆ は どうなんでしょう。同じユダヤ人のあいだであっても 罪びととのそれや あるいは 異邦人とのそれについて どう捉えればよいでしょう。  たぶんそれらは 《規制緩和》してもだいじょうぶだという了解は もうすでにイエス派の中ではみとめられていたのではないでしょうか。  しかも その了解どおりにじっさいに実行するか・実行できるかとなると――石打ちの死刑が その実行があいまいにされ得たのなら まして あたらしいナラワシへ進むことについては―― まだまだ あいまいなままにしていた。と 単純なかたちで 考えられて来ます。《理論》の問題ではなくなっているように見られます。  ▼ (ルカ福音 5:38) 新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。  ◇ 《酒》が《律法》のたとえであるとするならば、 / 古き律法は捨てさるべきものなのではないですか?  ☆ いまわざと変な用語を使うとしますと 《核心的内容》――いのちのとうとさ・自己のおよび相手の意志の尊重――にかかわる部分は 律法というオシエやキマリをも守る。それ以外は 人びとの考えに従い 取り決めあっていけばよい。  というかたちで 《あたらしいワインをあたらしい革袋に入れる》のがよいと考えます。  ◇ わたしには、そもそも、異邦人、無割礼の者との共卓が問題になることの方が、問題なのでは、という思いがします。  ☆ なのですが ふるい人びとは その考えに合わせてそれなりに そしてあたらしい人も 慣れとしてのクセからそれなりに 問題となるコトを つづけたりするものと思われます。  《過去の歴史を反省しない者》との共卓――止むを得ずでしょうか 第三者の家では避けずに そうしましたが――をこばみつづける人もいるようですから 理論の問題をすり抜けてのように 長引くことがあるのかも知れません。  その人のお父さんは 《米軍慰安婦の管理隊長》であったという記事(週刊誌の見出し)を見ました。  でも あたらしいワインを飲む意向だと思われ 未来志向なのだと察せられるのですが どうでしょうか。

NemurinekoNya
質問者

お礼

丁寧なご回答、ありがとうございます。 bragelonneさんのお考えがよくわかりました。 ☆その人のお父さんは 《米軍慰安婦の管理隊長》であったという記事(週刊誌の見出し)を見ました。 ◇ことの発端は、確か、韓国の京郷新聞の11・6づけの記事。 お父さんが米軍慰安婦を××していた、という、お父さんの書名入りの公式な記録が見つかって、この件を、野党の議員が国会で追求した、と報道された。 2chでは、11・6の時点で、この話題について結構、賑わっていましたよ。 (最近、結構、2chのニュース・書き込みを覗いたりしています) NHKをはじめ、新聞などの、日本のマスコミはいっさいこの件について報道しませんでしたけれども。 韓国の大手新聞社の日本向けのサイトを見ても、 韓国では、この件については、あまり問題になっていないようです。 日本叩きの口実がなくなるので、K国の皆さんは、この資料を黙殺し、信じようとしていないようですが。 10月の半ばくらいからですかね~、 韓国の大手新聞社は、露骨な反日記事が減り、日本と仲良くしよう、という論調に変わっています。 「韓国は先進国だ」と言わなくなった(笑い)。 「これ以上、日本との仲が悪くなると、韓国経済は破滅しちゃいます。お願いですから、日本と仲良くしてください」と悲鳴をあげています。

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     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。