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敵は本能寺に有り!

明智光秀が老ノ坂で言ったと言われるあまりにも有名な台詞ですが これって本当に言ったんですか? それとも後世の創作ですかね?

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回答No.4

こんにちは。 bungetsuです。 しばらく留守にしていました。 なるほど、消去方で考えてみたのですね。 私には新たな見方を考えさせられる「一服の清涼剤」となりました。 井沢元彦氏の「逆説の日本史」的に本でも出版されたらいかがでしょうか。 これからも機会がありましたら、意見を述べあいましょう。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

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回答No.3

こんにちは。 bungetsuです。 なるほど、面白い筋書(推論)ですね。 秀吉が中国の大返しで素早く立ち戻って、光秀に矢をいかけた時には、光秀は、 「散々味方面して置きながら、畜生!秀吉め裏切ったな!!」 とでも叫んだのでしょうかねえ。 ただ、貝原益軒の「黒田家譜」には、光秀が信長を討った報せを知った時、 「秀吉殿、好機到来ですぞ、ただちに、軍を京にとって返しましょう」 と、進言し、中国の大返しが実現した・・・とありますが、 貝原益軒にしても江戸時代の人ですから、いずれも、後世の書物であり、 また、光秀は「3日天下」と言われ、信長を討った「謀反人」とされてしまいましたので、光秀の行動や言動を書き記した「日記」みたいなものは、すべて焼却されてしまったのでしょう。 光秀の実像を描いた「書き付け」でも発見されると、歴史も変わるかもしれませんね。 とにかく、「謎」と「不明確」な戦記ですので、色々な推論があっても良く、あなたの論法もあってしかり・・・かも知れません。

azuki-7
質問者

お礼

もちろん黒田軍師は本能寺の計画を知らなかったでしょう 秀吉があれだけ危惧した男です 恐らく計画は打ち明けていなかったはずです それから徳川家康もシロでしょう 光秀は変の直後堺にも兵を差し向けています 明らかに家康を討つつもりだった もし家康もクロだったらのんきに堺で物見遊山なんかしてないはずです それに当時の徳川家はまだまだ信長の後ろ盾が必要だったはずです 今信長に死なれて一番困るのは むしろ家康だったはず だから彼はシロでしょう

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回答No.2

NO1、bungetsuです。 確かに、秀吉の黒幕説や秀吉の陰謀説等々があることは知っています。 あなたの推測はなきにしもあらず。 だが、 秀吉&朝廷が真犯人だとすると、秀吉にとって光秀は何の役目をし、何故、山崎の戦いで秀吉に追われる身となったと考えていますか?

azuki-7
質問者

お礼

光秀は秀吉に利用されたんですよ もちろん最初は共謀していたでしょう 秀吉が信長に「備中高松へ起こし願いたし」と援軍要請したのは信長をおびき出すため 当然信長の出陣となれば当時家臣団で手が空いていた光秀にも出陣命令が下る 決行はそのときと決めたはずです 秀吉は当然あらかじめ毛利方にも手回しをしていたでしょう 安国寺ー小早川間で秀吉との和睦に応じる準備をあらかじめ整えておいた でなければあんなに早く和睦は成立しないでしょう 小早川が秀吉の追撃を止めたのもあらかじめそういう手はずだったからです そして高松城で捕まった毛利方への密使 あれは光秀から毛利へではなく 光秀が秀吉に宛てた密使だったのでは? 「こちらは上手く行った 羽柴殿手はずどおり次の段階へ」的なね で秀吉は手はずどおり備中から帰還 当然光秀は秀吉と組んで機内を抑え、二人で天下統一を目指す腹積もりだった だから大して軍備も整えず機内でうろうろしていたんです しかし秀吉は最初からそれを狙っていた 自分が味方するために帰還しきたのだろうと光秀に思わせ 油断したしたところを天王山で打ち破る 当然光秀は謀反人だから秀吉には大義名分が出来る ざっとこんなあらましです 最初から秀吉は光秀を利用するつもりだった ええ 光秀じゃなきゃいけなかったんです

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>これって本当に言ったんですか? 後世の創作の可能性が高いですが・・・。色々な書物によると・・・。 天正10年6月1日の夕、光秀は1万3000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった。 しかし、秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。 明智光秀は重臣斉藤利三等に命じ本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるためと称して老ノ坂を下り左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斉藤利三勢およそ3000を渡河させ洛中に向けた。(当代記) 家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていた。(本城惣右衛門覚書) 翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の「明智軍記」にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。 江戸時代の頼山陽の「日本外史」では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。 なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。 またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという「本城惣右衛門覚書」によれば、下級武士たちの間には徳川家康を討つものと流布されていたことが窺い知れる。 これらを総合して考えると、桂川を渡ってから、斎藤利三勢3000の兵に本能寺に向かうことを告げたと思われます。 一説には、斎藤利三だけには光秀から「信長を討つこと」を聞かされていたとも伝えられています。 光秀にしてみれば、信長は安心しきって100人位の手勢だけで本能寺に宿泊していることの情報を得ており、3000もあれば十分勝てる・・・と判断したと思われます。 少し長文になりますが、面白い「説」をご紹介します。 「信長を討ったのは光秀ではない!」 それも、天下のNHKが2007年に「検証した」といって放映されました。 (1)光秀の居城「亀山城」からは、城下を通り、老ノ坂の峠を越え、京都に入り、桂川を渡って本能寺へ着いた。 <1>このルートは、各種の史料等で、現在は「定説」となっている。 <2>しかし、このルートであると、亀山城から本能寺までは約20Kmとなる。 <3>光秀が亀山城を発進したのが、6月1日午後8:00。 <4>本能寺の変が起きたのは6月2日午前2:00。 <5>とすると、6時間で本能寺に到着しなければならない。 <6>当時の具足(鎧や兜)は、鉄砲に対する防御で、鉄板が多く使われており、約30Kgあった。 <7>城下は、ともかくとして、老ノ坂は、だらだらとした昇り坂で、馬であれば1頭ずつが縦に並んで通れるぐらい。人であれば、3~4人が横並びでも通れた。 <8>京都に入ってからは、「桂川」を馬上または徒歩で渡った。橋ははるか上流にはあるが、そこを通るとすると、時間はさらに延びる。従って、一番早く着くには桂川を馬上または徒歩で渡るしかなかった。 <9>ところが、公家の「山科言経(やましなともつね)」の書いた「言経卿記(ともつねきょうき)」によると、6月1日は「前日から雨」。 <10>当然、桂川は増水しており、馬上であっても徒歩であっても渡ることができない。はるか上流か下流の橋を「迂回」せざるを得ない。 と、なると、6時間で本能寺に着くまで、時速3~4Kmで進軍しなくてはならない。また、老ノ坂峠にしても、「ぬかるみ」だらけで、馬上の者は別として、雑兵などはとても早足で越えることはできない。 <11>従って、光秀は「本能寺の変」には間に合っていない。 (2)では、誰が信長を殺したのか。 <1>結論から先に言うと「イエズス会の宣教師たち」であった。 <2>イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスの記した「日本史」によると、 「信長が厠(かわや)から出て、手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。(中略)。直後に、信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら応戦していた。しかし、鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。信長は直後に障子の戸を閉じて、火を放ち自害した」 と、あたかも「現場」を間近で見ていたかのような記述がされている。 <3>光秀軍が襲ったのであれば、何万もの兵がうごめく中、このような「詳細」を見ることはできなかったはず。 (3)では、なぜ、イエズス会だったのか。 <1>信長は、イエズス会の布教活動を許可し、自らも南蛮製のマントや帽子を着用していたから、イエズス会と仲は良かったはず。 <2>イエズス会の「怒り」をかったのは、やはり、ルイス・フロイスの記録によると、 「信長は、かくのごとく傲慢(ごうまん)になり、世界の創造主であるデウスのみに帰すべきものを奪わんため(中略)その霊魂は地獄に葬った」 と、ある。 <3>「かくのごとく傲慢」とは・・・。 信長の居城であった安土城跡(滋賀県安土町)に残る「廟(びょう)」のてっぺんに「盆山(ぼんさん)」と呼ばれる「岩」を乗せてあり、信長は、生前より、 「この石を神と思え、わしと思え」 と、いかにも天皇をも越えて、自分ただ一人が「神」である、と、命令していた、と、言われ、これがイエズス会にとっては、神はデウスであって、信長ではない、との反感をかった。 (4)本能寺の発掘調査が物語るもの。 <1>2007.3.3の「産経新聞」の掲載記事によると、本能寺は、北は六角通。東は西洞院通。南は蛸薬師通。西は油小路通。に囲まれた120m四方と言われていたが、信長が宿泊したと思われる場所は、北東の角にある40m四方の小さな建物で、寺と言うよりも「武家住宅」あるいは「小御殿風」であった。 <2>と、なると、信長をはじめ側近の者が「雑魚寝」をしても、せいぜい40人位。 <3>これまで、100人近い兵と共に宿泊をしていた。と言う考え方は、到底無理が生じる。 <3>従って、イエズス会の宣教師たちの少人数でも攻めることができた。 (5)イエズス会のバックボーン。 <1>イエズス会は、南蛮貿易で「火薬」の原料である「硝石」を貿易しており、十分な資力があった。 <2>従って、弓矢や鉄砲などの武器を調達することは、「たやすい」ことであった。 <3>また、イエズス会の「本山」である「南蛮寺」は、本能寺から、わずか、300mしか離れていない。 (6)では、なぜ、明智光秀が罪人なのか。 <1>光秀が到着した時には、すでに、イエズス会により信長は「暗殺」されていた。本能寺も焼け落ちていた。 <2>確かに、光秀は信長を殺そうと本能寺に向かった。 <3>これにより、光秀は「謀反の罪」を着せられた。 あなたは「信じますか?」「信じませんか?」・・・。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます 私は真犯人は秀吉&朝廷だと思っています

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