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ゴルギアスについて

古代ギリシアの哲学者ゴルギアスは、 ・何も存在しない ・何かが存在したとしても、それを知ることも思考することもできない ・何かが存在したとしても、それを他者に伝達することはできない と主張していました。 この二点目に関する質問です。 二点目の論証では、「あらゆる思考できるものは存在する」と「存在できないものは思考できない」 を反証した上で、ゆえに「何かが存在したとしても、それを知ることも思考することもできない」 と結論づけています。 しかし、これを反証しただけでは、 ・存在するものは思考することができない ・存在しないものは思考できる の二パターンが残りますよね? つまり、「存在しないものは思考できる」というパターンもあるわけです。 ゴルギアスはこのパターンを否定できていないと思うのですが、なぜこのパターンが否定されるのですか?

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9729/12103)
回答No.3

>> この2命題は、「最初から否定されている」のではないでしょうか。 >どうしてでしょうか? >一番目の命題で「何物も存在しない」ことを論証しているので、確かに「・存在するものは思考することができない」は否定できているかもしれません(存在するもの自体がありえないので)。 >しかし、「存在しないものは思考できる」については、何も論証されていないように思うのです。 >「存在しないものが思考できるはずはないので矛盾」といえば、確かにそうかもしれませんが……。 ⇒白状しますと、実は私もよくは分かりません。(偉そうなことを言って、ちょっと恥ずかしいです。) 一応、次のようにお答えいたします。 (1)まず、考えたことは、selfless様もおっしゃるように、「存在しないものが思考できるはずはない」ということです。「存在しないもの」は、「存在するもの」以外のすべてであり、「ゼロであり、かつ無限大」です。人間は無限大に続くものは考えられない、とされていますね。 (2)ゴルギアスは、「非存在“である”限り、それは“ある”のだ」とか何とか言ったそうですね。これは、おそらく古代ギリシャ語には「無い」を表わすのに単独の語がなく、einai (=to be)の否定形で表現したことと関係があるのではないかと思います。(ゼロを発見したインドなどではあり得ない発想かも知れません。)  さて、以上のことと、最初にselfless様の言われた、 >・存在するものは思考することができない とを突き合わせれば、1つのお答えになるかも知れない、と考える次第です。 以上、不乙ながら再伸まで。

selfless
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9729/12103)
回答No.2

>・存在するものは思考することができない >・存在しないものは思考できる >ゴルギアスはこのパターンを否定できていないと思うのですが、なぜこのパターンが否定されるのですか? ⇒この2命題は、「最初から否定されている」のではないでしょうか。 ですから、それが「肯定されることもあり得る」ことを証明するために、いわば、「きわどい」能弁を駆使した…。それが、ゴルギアス(やプロタゴラス)の活動の一つだったのではないでしょうか。 彼らは言ったそうです。「相反する事柄の双方を弁護することができる。すべての真理は相対的で、一時的・暫定的である。なぜなら、真理とは、“そう思い込んだこと”だからである」と。彼らが、「詭弁を弄するソフィスト」との観を与えるのは、このことのためではないしょうか。 ただし彼らは、いわゆる「ソリプシズム」を唱道するなど、「弁論における立論の多様性や言語伝達の限界などを考える上では、それなりの貢献があった」、と(個人的には)思っています。 以上、十分なお答えになっているか否か分かりませんが、ご回答まで。

selfless
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 > この2命題は、「最初から否定されている」のではないでしょうか。 どうしてでしょうか? 一番目の命題で「何物も存在しない」ことを論証しているので、確かに「・存在するものは思考することができない」は否定できているかもしれません(存在するもの自体がありえないので)。 しかし、「存在しないものは思考できる」については、何も論証されていないように思うのです。 「存在しないものが思考できるはずはないので矛盾」といえば、確かにそうかもしれませんが……。 > 相反する事柄の双方を弁護することができる。すべての真理は相対的で、一時的・暫定的である。なぜなら、真理とは、“そう思い込んだこと”だからである これはおっしゃる通りだと思います。 ゴルギアスは、プロタゴラスの議論をひっくり返して証明することによって、「存在するものは存在する」とも「何も存在しない」とも論証できてしまう、そういう存在論の危うさを示したように思います。

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.1

幽霊なんているわけないじゃん、バカじゃないの。 いたとしても、俺が知るわけないじゃん。 知らないんだから、ほかのバカみたいに語れるわけないじゃん。

selfless
質問者

お礼

別にゴルギアスの思想の要約など求めていないのですが……。 質問文ぐらいきちんとお読みになってから回答していただきたいものです。

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