『論理哲学論考』の対象と実体について

このQ&Aのポイント
  • 『論理哲学論考』(岩波文庫、野矢茂樹訳)において、命題2.027では対象が「存在し続けるもの」として説明されています。そこで疑問が生じますが、例えば古代ギリシアの時代にはパソコンという対象は存在しなかったはずですから、対象が「存在し続ける」とはどういうことなのでしょうか。
  • さらに、命題2.021では対象が世界の実体を形づくるとされていますが、この「実体」とは何を指しているのかが明確ではありません。また、命題2.024では何が事実として成立しているかとは独立に存在すると述べられていますが、具体的に何のことを指しているのかが分かりません。
  • さらに、論理哲学論考においては「実体(対象)」という表現が使われていますが、これが同じ意味を持つのかどうかが不明です。
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『論理哲学論考』の対象と実体について

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫、野矢茂樹訳)についてです。 (1)命題2.027では、対象とは「不変なもの、存在し続けるもの」とあります。 変化するのは対象ではなく対象の配列なのだ、という議論は理解できるのですが、対象が「存在し続ける」というのはどういうことなのでしょうか。 例えば、パソコンという対象は古代ギリシアの時代にはなかったはずですから、古代ギリシアでは「パソコン」という言葉はなかったはずです。 そして、現代のギリシアではパソコンという対象がありますから、「パソコン」という言葉が存在するでしょう。 これを見ても、パソコンという言葉が「存在し続ける」とはいえないように思います。 あるいは、言葉とはプラトンのいうイデアのような存在の仕方をしているのでしょうか。 パソコンという言葉自体は、イデアのようにずっと存在し続けているのだが、古代ギリシアではパソコンという対象が存在しなかったので、パソコンという言葉を使うことがなかっただけなのだ、ということでしょうか。 (2)命題2.021で「対象が世界の実体を形づくる」とありますが、この「実体」とは何のことでしょうか。 アリストテレスらの哲学者たちが議論し続けた、あの「実体」のことでしょうか。 命題2.024などで「何が事実として成立しているかとは独立に存在する」とありますが、一体何のことを指しているのか分かりません。 また、『論理哲学論考』についての論文で、「実体(対象)」と書いている論文があったのですが、実体=対象と捉えてよいのでしょうか。

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回答No.3

私流の理解ですが、参考になれば―― 『論考』において「対象」という語はむかしから(ウィトゲンシュタインの生前から)、むずかしい(あいまい)とみなされています。 ひとつ例をあげます。 ――ここに、コップがあります。 ここにあるもの(対象、モノ)は、「飲む」との関係から見れば「コップ」ですが、 「活ける」との関係(視点)から見れば「花瓶」にもなり、 さらにほかの関係から見れば「金魚鉢」にも「貯金箱」にも「凶器」にも「商品」にもなり、ます。 ですが、そこにあるもの「対象」は、私たちの都合などにお構いなく、ずっと「不変」であり「存在し続け」ています(当然ですが)。 これはある意味でカントのいう「物自体」と見てもいいと思います。 なお、 「対象」とはアリストテレスでいう「実体」と見ることも可だと思います。 「実体」はギリシャ語ではたしか「ヒュポケイメノン」だったか失念しましたが、 英語では「substance」で、「下に存立するもの」の意味です。 いろいろ表面上の性質は(関係にしたがてって)変わっても、実体は不変というわけです。 『論考』の「実体」を以上の文脈で読むことに全く問題はないと思います。 「実体」ですが、これは近代以降、「主体(subject)」がその位置に居座っているという理解もできます。 「主体」、あるいは人間、あるいはこの私等々は、「父」でもあり、「夫」でもあり、「息子」でもあり、「男」でもあり、 と変化しますが、継続的に存在している点では、「対象」と同じです。 「主体=この私」は10年後も「この私」であるわけですが、そのレベルでいえば、「対象」が「不変」であると読むことに違和感はないはずです。 ただ『論考』にもどれば、「対象」とはもっとも難解な語の一つとみなされてきました。 以上です。

selfless
質問者

お礼

ありがとうございました。

その他の回答 (2)

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.2

言葉を出してあるので、例として言葉を対象とすると 言葉の実体は「伝える」と言うことですよね。 別に昔の壁画のように絵でもいいし、どこかの民族の文化のように紐を結んでもいいのですが 表面に見えるものは変化しても、伝えると言う実体は存在し続けて 今はそれぞれの言語として伝えることに使われるのが多いかと思います。 他に知られないで「伝える」を成したいときは「暗号」などが使われますよね。 パソコンの実体は入れ物ではなくて、プログラムや探す・調べる・伝える・記録するなどなど 多くの存在し続けるものを用途として現実化させたものだと捉えています。 目に見えるものに囚われず、その根底にあるものが実体だとしての考察が 論理的思考であり、それに基づいたものが結果としての現実化だとなるのではないでしょうか。 最初に戻りますが「伝える」とは、最初に伝えたかったのは「生きる術」(古代に言語を持たない時代から) でしょうから、生きるが伝えるになり今は書籍やネットや車などの移動手段や大量に物資を輸送させたりと 生きるに対しての行動を広げていると思います。 生きると言う実体から存在する様々な活動は多様で素晴らしいものだなと 回答を書きながら、ちょっと感無量に浸りました。 進歩って、素晴らしいです♪

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.1

こんばんは。 >「(1)命題2.027では、対象とは「不変なもの、存在し続けるもの」とあります。 変化するのは対象ではなく対象の配列なのだ、という議論は理解できるのですが、対象が「存在し続ける」というのはどういうことなのでしょうか。」 「対象の配列が、存在し続ける」のでしょう。 (一旦、成立したからには、、、今後も(勿論)あり得る)

selfless
質問者

お礼

> 「対象の配列が、存在し続ける」のでしょう。 不変なのは対象であって、対象の配列は変化するものだという記述があったはずなのですが。

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