自殺する勇気について感心

このQ&Aのポイント
  • 自殺には怖さや痛み、恥ずかしさなどの心理的な抵抗感があるが、それを乗り越えて実行する勇気に感心する。
  • 自殺のニュースを聞くたびに、なぜ自殺を選ぶ勇気があるのか疑問に思う。
  • 自殺の背後には個人の心理状態や状況が関与しており、そうした要素が恐怖感や抵抗感を乗り越える決断を促している可能性がある。
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よくも自殺をする勇気があるなと感心しちゃいます!

藤圭子さんが飛び降り自殺されました。私がいつも自殺のニュースを聞いて感心(?)するのは、よく自殺する「勇気」があるな、ということです。 だって、 (1)電車に飛び込んだり、高いビルから飛び降りたりするのは「怖い」ですし、 (2)自分の身を傷つけるのは「痛い」ですし、「苦しい」ですし、 (3)自分の惨めな死/死体を他人に見られるのは「恥ずかしい」ですし、 (4)死ぬと何もかも終わってしまうのは「寂しく」て「残念」で「未練」が残りますし、 第一 (5)死ぬよりも、たとえ、のんべんだらりであっても、生きる方が「ラク」だと思うからです。 私は、カトリック信者で、自殺を絶対否定する立場ですが、そういった信仰や信念の以前に、「だって自殺って怖いし、苦しいし、嫌じゃん?」という生理的忌避感があります。 ですから、武士の世の中で、たとえ自殺(切腹)をしなければならない状況であっても、自分には出来るかどうか自信がありません。 ↓ (私の過去問) もし切腹せよと言われたら出来ますか? http://okwave.jp/qa/q6937308.html 自殺される方には、上記のような恐怖感や生理的忌避感はないのでしょうか? それともそうした感情が全部麻痺してしまうものなのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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noname#186555
noname#186555
回答No.21

こんばんは 叔父、父、母、同級、俺が30になるまでに続けて・・ 十数年の欝との闘病で去年、子供を残し妹が 他界しました。・・・ よくないさ でもね、見捨てられたんじゃない 今生きてる俺たちが 見捨てたんだ、苦しさに気づけず それが現実・・・・ そんなふうに思いたくないって思っているだけ 君も俺も 今49だよ 忘れたくても忘れられ無い 忘れようと努力しているのに 良くないなんて解っている 感心?簡単に言ってくれるな。よ。

oozora2000
質問者

お礼

前に書かれた回答が削除されてしまいましたが、めげずに再度回答頂き、有難うございました。 確かに、そうした辛い目に合われた方、身近に当事者がおられた方には、返す言葉がありません。 自殺はよくない・・・とか理屈ではわかっていても、「止むに止まれぬ」事情でそういう事態に立ち至ってしまった辛さ、救えなかったもどかしさ、悲しさ・・・その他いろんな感情がないまぜになって、あなたを苦しめているのだと思います。 家族・地域・政治・行政或いは宗教・・・などの役割は、自死者や遺族など辛い立場にいる人たちに少しでも心を寄せ、陰ながらサポートをすることだと思います。(他の回答とそれらへの私のお礼・補足、特にNo.16さんの補足の欄を借りてあなたの前の削除回答に向けたお礼や、No.12さんへのお礼で宗教の役割について書いたものをご覧下さい。) No.16さんへの補足欄では、「No.17のSさんとNo.19のNさんに「幻のベストアンサー」を差し上げることにして、この後質問をクローズすることに致します。」と書きましたが、そのうちのお1人であるあなたのもうひとつの回答がここにありますので、その心からの叫びに答える意味で、前言を翻し、ベストアンサーを差し上げることにします。

その他の回答 (17)

回答No.24

おはようございます。 私の考え方も貴方の考え方に近いです。ただ、質問内容には問題がありましたね。貴方も反省していらっしゃいますものね。 自殺者は、自己中心でしか物を考えられなくなってしまった病気を持っている人です。精神の病気です。 その家族は、自分にとって不利益と思える人に対しては、無神経で無関心なだけなのでしょう。 変化に気がついても自分の生活が一番ですから。見たくない、気にしたくないですよね。 自殺する人も自殺された家族もお互いに無関心だったと言う事です。お互いを思いやる、優しさがなかったということです。 私が檀家になっているお寺の住職が言っていました。「自殺者は二度と光を見る事は無いでしょう」。 どういうことか分かりますか。訂正や削除された回答者。本心で思います。命を語るのは、いい加減にして下さい。 私達は生きる事だけ考えればいい。

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 私の質問に理解を示して頂き、有難うございました。 おっしゃっている意味わかるような気がします。 確かに、自殺者や遺族にも、周りが見えなくなっている所はあるかもしれません。 その分、今回のような無神経な質問に対して「何を言ってるんだ!」という反発を食らったのもうなづけます。 ただ、そうした彼らの攻撃的な「反発」が、彼らの「不幸」から来ていることにも目を向ける必要があるように思います。 不幸に見舞われたり、弱い立場にいる人々から、そうでない人々に対する「反発」は、彼らの「辛さの叫び」であり、「幸せへの希求」であると考える必要があるのではないでしょうか? 彼らほど不幸ではない、弱くもない、まだ余裕のある人々は、彼らの攻撃的な「反発」に腹を立てず、彼らの叫びに耳を傾け、その辛さに寄り添うべきではないでしょうか? たとえ、その実体験を理解することが難しくても・・・。 尚、住職さんが言われた「自殺者は二度と光を見る事は無いでしょう」というお言葉もわかるような気がしますが、No.12さんへのお礼と補足に書いたように、宗教家はただ突き放すだけでよいのでしょうか? 宗教の役割は、こうした弱い立場にいる人に少しでも光明をもたらすことではないのでしょうか? その点を確かめたくて、この後明日になるかと思いますが、新しい質問「宗教家は、自殺(自死)をどう考えているのか?」をアップしたいと思っています。

  • wgwjdama
  • ベストアンサー率6% (4/61)
回答No.23

確かに貴方の言ってるように 何故痛くて見苦しいのに自殺するのか疑問に思う一般人は少なくありません。てか それが生き物の生きたいと思う生存本能があるのです。 自殺する人の理由は様々ですが、だいたいの理由は 壮絶なイジメ 暴力 羞恥攻撃が関係していて、相談する相手もなく、孤独になります。 それが長年続くことにより生存本能が抑制され、初期として生存本能はあるものの放心状態になって苦痛を和らげることを学びます。そうしないと苦しいからです。それでも暴力が続く場合やはり身体にダメージを与えてしまいます。そうなると死にたいということが本能になってしまいます。何故かというと もう体がこれ以上我慢しても死に近づいていく。だからこれ以上傷口を広げないよう自殺を選ぶのです。それは無意識です。 ただそこで 自殺をためらうのであれば生存本能はまだあるということです。

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 詳しく「死にたくなる」気持ちの動きを教えて頂き、有難うございました。 そうした辛いことが長年続くと、生存本能が抑制され、放心状態になって苦痛を和らげることを学ぶということですが、そうしたことはありうるのかな、とは思いますが、実体験がないので仲々理解できません。 でも、そうした心の動きがありうるのだということを知り、自殺者や遺族の心に寄り添うことは出来ると思います。 大変わかりやすい回答で、ベストアンサーの候補とも考えられますが、今回は、自殺者の身近におられ、そうした「止むにやまれぬ」辛さを経験された回答者様の迫真の回答に差し上げることにしましたので、ご容赦ください。

回答No.22

自殺を未然に防ぐ手立てなど、本当にあると思うのですか? 身近にいる人でさえ防ぐことが叶わないことなのに。 こんなところで、質問提議して、一体何になるのでしょう? 「気持ちを逆なでしてしまった」と、いうのは、私の前回答を理解して頂けていないと思い、再度回答します。あなたの質問文の中には、愛情が感じられないんです。興味本位と、とれるような内容文が多く見られ、読むだけで心が痛くなるんです。以前「切腹」について、質問もされたんですよね。死について興味があるだけではないのですか?この回答も編集、削除されるでしょうが、あなたが本当に「配慮が足りなかった」と思うのであれば、この質問自体を削除してもらって下さい。「題名」事態に傷つく方もたくさん、おられると思います。私は、この質問文を削除して頂くように、メールを送りましたが、私の回答文が編集されたり、他のまともな事を書き込みした方の回答文が削除され、ここの、規則、規約に対して、疑問を強く感じています。

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 前のNo.8のご回答が大幅に編集されてしまったのに、再度の編集/削除の恐れずご回答頂き、有難うございました。 おっしゃりたい気持ちはよく伝わってきます。 身近にいても救うことが出来なかった悲しみともどかしさ、辛さが切々と伝わってきます。 ただ、表現方法がまずかったことは申し訳ないと思いますが、「こんなところで、質問提議して、一体何になるのでしょう?」というご意見には賛成することは出来ません。 興味本位に質問した部分は反省しますが、自死者や遺族の悲しみや辛さは、皆で共有してこそ、そうした不幸に至らないための方策の立案や動機づけに結びつくのではないかと思います。

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.20

  殆んどの人は、精神的な不安や苦しみによって、抑うつ状態になり、 恐怖感は消えているか、恐怖感は薄れています。或いは発作的です。

oozora2000
質問者

お礼

すみません。補足に書いた通りです。

oozora2000
質問者

補足

お礼が大変遅くなり失礼しました。 やはり、精神的な不安や苦しみによって、抑うつ状態になると、恐怖感が消えるか、薄れていき、発作的に死を選ぶことがあるのですね。前のお礼でも書きましたが、こうなると「自殺」というよりも「自死」という感じなのかもしれませんね。理屈はわかりましたが、なったことがない人には、到底理解しにくいでしょうね。

noname#187573
noname#187573
回答No.16

私も自殺するのは怖いです! 生きる方が幸せだと思います。 自殺は罪だと思っているので罪を犯したくはありません。 神様から無償の命を与えられたことにも感謝しています。 命ほど大事なものはないと思っています。 自殺するなんて勿体無いと思いました。 あんなに素敵なマンションにも住めて夢のような暮らしを捨てるなんて勿体無いと思いました。 不満を、もたない生活が大事だと思いました。

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 「怖い」・「生きる方が幸せ」・・そうですよね。それが普通の感覚だと思うのですが・・・。 まあ、「自殺は罪」、「神様から無償の命を与えられている」と言う感覚は、信仰のない人には理解できないかもしれませんね。説明するのも大変ですね。 しかし、少なくても、生命の誕生に際しては、男女が交わり、何億という精子と卵子の中からたったひとつの組み合わせが結びつき、生命になるんだということ、又、人間と言う生命体は、又々何億と言う細胞から構成されているんだということをもう一度認識すれば、我々が如何に奇蹟的に「生かされている」ということに感謝の心が芽生え、自ら命を絶つということが如何に不遜かを思い知るのではないかと思います。

oozora2000
質問者

補足

この後に3つの回答(No.17, 18, 19)がありましたが、削除されてしまいましたね。この場を借りて一言・・・。 今回は本日(9/6)現在、24の回答が寄せられましたが、その内、実に6件の回答が削除され、1件に大幅編集がなされるという異常事態となりました。元はと言えば、私の質問文に「勇気」や「感心」など、不適切な表現があったのが原因と深く反省しています。 3つの内の2つはSさんからのもので、Sさんの回答はNo.10に続いて、3つとも全部削除されてしまいましたが、多少口は悪くても、おっしゃりたいことは十分伝わってきました。要は、「福島の酪農家が「原発さえなければ」と書き残し自殺したことをどのように思うのだろう。この酪農家の奥さんがどんな思いでこの期間を過ごしてきたか・・・ということに思いを致す必要があるのではないか。・・・」ということで、誰も死にたくて死んだわけではないんでしょうが、「止むに止まれぬ」思いに心寄せる作業が必要なのではないか、という痛切な思いを訴えておられました。その回答の削除後再度寄せられた「YESマンの回答を望んでいるのかは知りませんが。削除となった回答内容そのものは間違っていなかったはず。結論として一度自殺した方の遺族に会って話が聞けたり・・・するといいのでは。」という当たり障りのない回答まで削除されてしまい、正直不可解に思っています。 又、もう一つのNさんの回答は、「・・・身近の親しい大事な人達 俺には居るんだぜ、くやしい、哀しい、苦しんでんだよ」と痛切に訴えられ、息が詰まるような悲しみを覚えました。 こうしたことから、今回は、上記のNo.17のSさんとNo.19のNさんに「幻のベストアンサー」を差し上げることにして、この後質問をクローズすることに致します。 皆さん、削除された方も含め、多くのご回答有難うございました。 併せて、再度無神経な表現を使ったことをお詫びします。 本Q&Aから私が学んだことはとても大きかったことを記し、心からお礼を申し上げます。

回答No.15

そんな恐怖を感じる部分が麻痺してしまったのでしょうね。 切腹は酒を飲んでからすることもあったし、生贄なんかは薬物漬けにしてから行うというところもあったようです。 鬱病なども自死を抑制する脳の部分の機能が著しく低下するそうです。 いじめや失恋、事業の失敗などで精神的に大きくバランスを崩す人もいらっしゃいます。 精神のバランスを崩した結果、自殺を抑制したり恐怖を感じる機能も低下してしまう方もいらっしゃいます。 藤圭子さんは生前違法薬物使用の噂がありました。 薬物使用によっての転落事故とも思えます。

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 鬱病や精神のバランスを崩した結果、自死を抑制する脳の部分の機能が著しく低下することがあるのですか? 薬物の乱用もそういうことを助長するのですね。

  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15359)
回答No.14

 たぶん、今私は自殺をすると成ったら出来ます。ただし、その衝動を抑えていますが。  実は死に対する恐れが無いのです。生きていないと駄目だという理由は沢山ありますが、それが足止めにも成らないほどに。  ただ、私は神様にしろ、仏様にしろ、生きていろと言われて居るから残っていると思って居ます。死の覚悟はあります。いつ死んでも良いと。でも、事故にしろ、病気にしろなんとか乗り越えているのはその証だと思って居ます。  死を迎えらるほど、死に関する事を考えてきたかな。生きる目的を考えると分からなくなるけど、死ぬという当たり前の事は誰にも来ることだと考えると、どのように死ぬのか考えると、むしろ生きている事が楽じゃないかと感じる事もあります。  それに、一度自然と車に向かって体が動いたこともあります。でも、恐怖とか無いです。助かったときに恐怖を感じたぐらいですね。頭の中が悩みとか何もかもが失っていた状態に近いかなと。

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 死に対する恐れが無いというあなたの感覚を私が共有することは大変困難です。 しかし、神仏が生きていろと言うから生きている、という感覚は信仰心のある私には容易に理解できます。 生きることはそれだけエネルギーのいるものなのでしょうか? 私が果たしてそれだけ、真剣に「生」と向き合っているかは、疑問です。 私はただ、死ぬよりも生きている方が楽だな、と思っているのに過ぎないのですが・・・。

  • Devil-Ear
  • ベストアンサー率21% (739/3450)
回答No.13

自殺するのを「勇気」って言ってるのに違和感があります。 生きる方が余程勇気は必要です。 死ぬのは逃げでしかありません。 まあ、親のスネをかじって怠惰に生きている人には勇気は必要ないかも知れませんが・・・

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 死ぬのが怖い私にとって、自ら死を選ぶのは「勇気」以外の何物でもないのですが、 皆が皆そうした感覚を共有するわけではないことを、私は今回のQ&Aを通じ思い知りました。

  • ryubikun
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.12

カソリックの方だそうですね。 では、『人はパンのみにて生きるものにあらず』という意味を考えていただければそれが回答になるのではないかと思いますよ。 つまり、肉体の痛みや生存本能よりも強い絶望が人を死に追いやるのではないでしょうか。 クリスチャンの方にとって自殺者はまるで神意に背く娼婦『マグダラのマリア』です。 だけど、ナザレは「マグダラのマリアに石を投げられる者のみ投げよ」と言った。 そして誰一人投げられなかったと聖書には書いてあります。 あなたは投げられたのですね。

oozora2000
質問者

お礼

お礼が大変遅くなり失礼しました。 「あなたは投げられたのですね。」というあなたの痛切な問いかけを見て、私は我が身を見つめ直し、又、宗教者、特にキリスト者の近年の「自殺」に対する考え方について調べてみようと思い立ち、以下の「変化」に至る経緯を知ることが出来ました。 1.キリスト教では、他殺・自殺を問わず、「生命を司る神に対する重大な反抗である」という理由で「大罪」と見なしてきました。そのため、長年、自殺者の葬儀は断られ、墓地も少し離れた所に埋葬させられるなど、公然と「差別」してきました。 2.しかし、日本でも、毎年のように、非常に多くの(平成9年ごろまでは毎年約2万人、その後は毎年約3万人)自殺者が出ている状況を見るにつけ、「弱い人々に寄り添うべき」立場にある宗教が、ただ「裁き手」として、自殺者を断罪しているだけでは、益々人心は離れるばかりだということに気が付いたのでしょう。 3.その結果か、少なくてもカトリック教会については、近年「自殺」に対する考え方・対応が昔と比べ、大きく変化したきたようです。  1983年に発布された教会法典からは、自殺者の被埋葬権剥奪についての規定が削除され、いつ頃からかはわかりませんが、教会は、これまで「自殺者に対して、冷たく裁き手として振る舞い、差別を助長してきた」ことを認めた上で、深い反省の意を表し、「これからは、神のあわれみとそのゆるしを必要としている故人と、慰めと励ましを必要としているその遺族のために、心を込めて葬儀ミサや祈りを行うよう、教会共同体全体に対して呼びかけていく」こととなったようです。 4. 教会は、「自殺」の中にも、そこに至るまでの次のような様々な事情があることに気が付いたようです。 (1)背景には、生活苦やうつ病などの精神的病のように、様々な「止むに止まれぬ」事情があり、そうした「人生の障害」を取り除き、改善できるよう支援することこそが、教会のひとつの使命であることに気が付いたようです。  又、多くの自殺者は「自殺を止めてほしい」或いは「生きたい」と願っていることも多く、教会が役に立てることも多い。 (2)極度の精神の病や限界を超える苦労などにより、ほとんど認識能力が失われ、「引き込まれるように」死を選んでしまう人も多く、そうした人達の責任能力は問えない。こうした死は、もはや、主体的に自分を殺す「自殺」ではなく、無意識に死を選んでしまう「自死」という言葉が当たり、「罪」とは言えないかもしれない、ということに気が付いたようです。 (3)その人が本当に救われたかどうかは神のみが判断されることであり、人間が軽々に判断することではないので、教会として裁くことはしないことにしました。  例えば、明らかな飛び降り自殺をしたとしても、落下の途中で心から悔い改めたら、神が許してくれない訳がない。  イエスが十字架上で亡くなられる時、隣の十字架上の大盗賊が罪を心から悔い、イエスに許しを求めた時、イエスが快く許した例もある。 5.人間は弱く罪深い存在であるが、その弱さ、罪深さを認め、神に許しを請えば、誰でも許してもらえる、だからご回答のように、姦淫(今でいう「不倫」)の罪で捕まった女を石打ちにせよと、迫る民衆に対して、『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』(ヨハネの福音書8:3~7)とイエスが言ったのに対して、一人去り、二人去り、最後に全員が去って行ったように、人間だれしも、人を公然と裁く権利はないのだということをもう一度認識する必要があることを、教会も再認識したのだと思います。 (尚、質問者様のように、上記箇所に登場した「娼婦」をマグダラのマリアと同一視する説もありますが、どうもこれは別人のようです。) 6.最後に、現在、カトリック教会が関与している自死者の遺族に対するサポートの例として、東京四ツ谷のイグナチオ教会やカリタスジャパンが中心になって運営している、「いのちを守るプロジェクト」・「自死遺族の会」や「虹の会」を紹介しておきます。 ↓ http://www.caritas.jp/japan_news/no_106/04.html http://www.pauline.or.jp/eventandstudy/20130918iwata_nijinokai.php http://www.youtube.com/watch?v=8AQJcjTNHos&feature=youtu.be

oozora2000
質問者

補足

誠心誠意深く考え、カトリックのスタンスを説明したつもりですが、やはりどんなにカトリックの自殺者や遺族に対する対応が変わったと言え、根本には「自殺は他殺と同様、生命をないがしろにし、神を冒涜する行為である。」という思想は変わらず、その点は妥協の余地がないように感じます。 わずかに自殺者が救われるとすれば、ここに書いた通り、 (1)精神的病などにより認識能力を欠いている場合と (2)自殺行為(飛び降りなど)の最中に悔い改める場合など が考えられると思いますが、結局、宗教は自殺に冷淡であり、やはり、死んだ者は救われない、 という基本線は何ら変わらない気がします。 果たしてこれでいいんでしょうか? 本質問後締め切り後、一両日中に、 「宗教家は、自殺(自死)をどう考えているのか?」 という質問をし、この点を質していきたいと思っています。

noname#184683
noname#184683
回答No.11

切腹について考えましょうかね。自殺ではありませんけど・・ 切腹の殆どは「扇子腹」というもので、扇子を小刀にみたて腹にあてるのを合図に首を切り落とすものでした。西洋のギロチンと似ています。ただ、ギロチンのように確実に一瞬で首を切り落とすには、それなりの剣豪でなければなりません。因って、介錯する人物を切腹する本人が指名することもあったとか。新撰組の山南は扇子腹を嫌ったと伝えられ、介錯は沖田だったそうです。 切腹は武士にとって名誉な死に様でした。時代の刷り込みというのはあります。 同じく特攻があります。お国とは、愛する家族です。 それを守るために、敵艦に突っ込む様は現代のアメリカ寄り思考の方々には理解できないことでしょう。 くだらない縛りに追い詰められる方々がいます。しかし「くだらない」と言えるのは恵まれた状況下にあってこそではありませんか。 どうせ死ぬのであれば、痛みや恐怖などは一瞬で終わらせたい。そう考えたときもありました。

oozora2000
質問者

お礼

国や藩や家/家族を守るため、或いは、名誉を守るため、納得して死んでいった先人が日本には沢山おいでになります。その人たちの犠牲の上に日本の今日の繁栄があった、いう側面も否定しません。国を始めとしたコミュニティや周囲の人間関係を重視し、自分の思惑よりも周囲の空気を優先し、「恥」の文化に生きてきた日本人は、「生」に対して以上に「死」に対しての美学があり、これが自殺を時として否定しない気風につながってきたのかもしれません。 一方、キリスト教文化に裏打ちされた西欧文化では、他殺にせよ自殺にせよ、神から頂いた「生」をないがしろにすることでは同じであり、「罪」に値するという考えが濃厚です。こちらにも、コミュニティや家族に対する愛がない訳ではありませんが、先ず生きるに当たってのベースは「個」であり、他人の思惑は二の次という考え方が主体だと思います。 私は、年齢を重ねるにつれて、恵まれた環境にあることもあってか、後者の考えに傾きつつありますが、日本人の感性や美学にも理解を示すことを忘れず、今回頂いた色々なお叱りも糧にしながら、改める所は改め、生きていきたいと思います。

oozora2000
質問者

補足

この場を借りて、削除されてしまったNo.9さんとNo.10さんにもお礼を言います。 いずれも、身近に亡くなられた方がおられたか、そうでなくても絶望のふちにいる方を見ていて、ひとごとと思えない、そこに持ってきて、私の質問が、まるで茶化しているように聞こえて、不快感を覚えられたのだと思います。 自殺(或いは自死)と言う問題は、当事者や家族でしかわからない、部外者が軽々に批判すべきではないのかもしれません。一方、部外者から見れば、なんでそうなるの?という疑問が強く、それを直接、刺激の強い表現で質したのは、短慮だったと思います。自殺に同意することは出来ませんが、これからは、自分と違う世界におられる方々の気持ちにも寄り添い、じっくり急がずに勉強していきたいと思います。

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    始めに断りますと、私は自殺志願者ではありません。) ご承知だとおもいますが、最近ネットでの自殺なるものが頻発してます。原因は色々言われております。不況や社会の不安、また欧米に比べ日本は自殺者が多いとも指摘されております。 今日では「自殺」はしてはいけない事と認識されてますが。日本(いや日本だけでなく東洋社会)での伝統では、自殺がかならずしも否定されるものではなかったという事実であります。武士の「切腹」や士大夫の「賜薬」というのも人間の意志を尊重するものであります。又古くは楚の「屈原」に代表されるように、自殺した英雄でも悲劇、美談として語られております。 何を言いたいかというと、平たく西洋、東洋と二局の価値観に別けますと、西洋の価値観では自殺は宜しくないことであるけれど、東洋の価値観では(伝統的には)必ずしも否定されるものではなかったのではないか?… (よって、「自殺」を悪い事と断罪する価値基準は必ずしも絶対的ではないのではないかということです。 (勿論、人間の命の尊さというものは、人間として共通する認識であるけれでも、自分で自ら命を絶つ=自殺を否定するかしないかは微妙に異なると思うのです。) 自殺を否定する価値観がキリスト教の価値観に端を発するのであるなら、それは必ずしも絶対的な価値観にはなりえないということです。 (政治学的にも人間の権利として、無条件に自殺を禁止しますし、今日の社会でもそのそのようですが) 「自殺」を否定する、理屈はなんでしょうか?考えると 私には「自殺」を否定する弁証よりむしろ肯定する弁証のほうが出てきてなりません。 世間の常識としては「自殺」を非難しますよね?TVのコメントの論調もそうです。あの方々は何故自殺はいけない事だと思っているのでしょうか?そういうふうに決まっているからでしょうか? 私は無条件にそう受け入れていたのですが、今となって、何故なのかわからないと納得できないので、宜しくお願いします。

  • キリスト教カトリック 入門について

    キリスト教 カトリックの入門について 恐れ入ります。 私はこの春高校二年生になりました16歳の女子です。 簡潔に言ってしまうと題名の通りなのですが、少し詳しくお話します。 私は、自分で言うのもどうかと思いますが、この一年半年、ものすごく辛い日々が続きました。 中三のとき、大きなものではありませんが、二ヶ月ほどいじめに遭いました。 そして昨年の九月、大切な後輩を亡くしました。 そして先月、震災により被災しました。 更に先月末、もともと折り合いの悪かった母と大喧嘩になり、家出を経験しました。この時は本当に辛くて、本気で自殺も考えました。 しかし、そんな時私を救ってくれたのは、聖フランチェスコの祈りであり、賛美歌であり、イエス様のお言葉でした。 どれも偶然テレビなどで見たものでした。それでも、それを目にし、聞いたとき、私は確かに救われました。 そんなことはありましたが、キリスト教への信仰の心は今までありませんでした。(信者の皆様、すみません) ですが、一昨日、自分でも分からないのですが、何故だか突然に、信仰心が目覚めました。 とにかく祈りたい、聖人たちやイエス様の軌跡をもっと知りたい、聞きたい、学びたいと思いました。 今までも、カトリックに対しては結構好意的な意識を持っていましたが、これ程までに強い思いに駆られた事はなく、今とても戸惑っています。 私は罪深い人間です。良い行いばかりしてきたわけではありません。嘘をついたこともあります。心無いことをしたこともあります。 身体が弱いために自己嫌悪に陥ったことも何度もあります。 だからこそ、私は赦しをもとめているのかもしれません。 そこでカトリック信者の方にお尋ねしたいのですが、こういうとき、どうすればいいのでしょうか。 祈りたいという思いがあっても、祈り方が分かりません。ロザリオ(?)の使い方、聖書の手に入れ方もわかりません。 教会に行くのが一番良いのかもしれませんが、私は未成年の子供です。親は絶対、教会に行く事、わたしが宗教に入ることを許しません。そして私のような、にわかに目覚めた者が、神聖なる場所に果たして行ってよいのか・・・。 ですが一度目覚めてしまった信仰心とは恐ろしいもので、一昨日からこのことばかり考えてしまい、宿題が全く手につきません・・・。 どうか、回答お願い致します。長文失礼致しました。

  • これは自殺に当たるのでしょうか?

    他の方の質問の中で、自死についての質問があり、 回答者の中に >人を愛する、人の命を大切にする、 そうした根本的な人間らしい心がないから自殺してもいいだろうなどと、 自分の命を粗末に扱うのです。< という方がおられたので、少し考え込んでしまいました。 定型発達の方にとって自殺とはどの辺までを言うのだろうと? 私はアスペルガー症候群を医師より診断されていまして、モノの考え方や感じ方が「一般的な範囲」と重なっていないことが多いです。 自殺というワードでも、多くの方が抱く共通概念と違う捉え方をしていないか、少し確認してみたくなりました。 以下、私が自殺と思う事例をいくつか挙げてみるので、自殺かそれ以外の何かになるのかなど、皆さんの思われるところを教えていただけると嬉しいです。 積極的自殺(自己の気持ちで完結する理由の自殺) ● 借金・病気などの苦で命を絶つ ● 何らかの犯罪の被害者になってしまい、生きていく活力より死への渇望が上回り命を絶つ。 ● 将来に望みを持てなくなり「死んだほうがまし」と思い命を絶つ。 職務的な自殺(軍人の犠牲的献身など、立場上称賛される死に方) ● 敵機動部隊を見つけた偵察機が、より確実な接敵成功のため帰りの燃料が無いのを承知で攻撃隊を敵機動部隊に誘導する。帰還は不可能、着水しても助かる見込みもなく「先鞭」として敵艦に突っ込む。 ● 護衛対象の民間商船に魚雷が迫っており、商船側での回避は不能。火器運搬船であるため、一発当たれば大爆発してしまう。敵潜を警戒していた警戒機が「これも俸給のうち、100人より2人の方が被害も少ないですしね」と商船側に伝え、魚雷に体当たりをする(真冬のベーリング海近海で着水すれば確実に助からない)。 ● 羽柴軍に責められ水責めされた城の城主が、城の人々の助命と引き換えに船上で割腹。 信仰や信念による自殺 ● 古代アテネの様に、生贄になることが社会的な名誉となり、自ら志願して命を落とす。 ● 衆生救済のために即身成仏をする。 ● 信仰を守るため、改宗を拒み命を落とす(断れば殺されるのが自明で、他者の手を借りた自殺とも思える)。 こんな感じですが、私はこれをすべて「自殺」と思っています。社会的な貢献や時代背景、個人の立場など加味して、注意深く考える必要があるのは当然ですが、 自ら命を絶つ(立たれる状況に積極的に持ち込む)ことが自殺だと思うのです。 行為の崇高性とは別で。 上記の行為は、定型の方は私と同じように「自殺」だが崇高な行為や多くの人を救う行為もあると捉えるのか、 やはりいけないことと考え  >人を愛する、人の命を大切にする、 そうした根本的な人間らしい心がないから自殺してもいいだろうなどと、 自分の命を粗末に扱うのです。< と思われるのでしょうか? 法律的なところや、学問的な部分ではなく、皆さんがパッと見て感じた部分を教えていただけると幸いです。 私とのずれや、感じる手順やモノの見方の違いを勉強させていただきます。 どう思われます? 注意 私が自殺したいとか、希死観念が強いということではなく、純粋に同じ語句ので、他の方との感じ方のずれがあるのかを知りたいという趣旨です。 私が死にたいと思うという立ち位置からの回答はご遠慮願います。質問の内容を書いてください

  • カトリック信者の相談ですが一般の人も相談に乗ってください

    こんにちは。 キリスト教(カトリック)信者です。 信者ならカトリックのサイトで相談をすればと言われるかもしれませんが、匿名可のカトリックサイトはないのでここで相談させてください。自分の名前を出すと関連する他者の名前・教会名までわかってしまうので、一方的な「告発」みたいにとられたくないんです。相談したいだけなので。 自分の誇りのために、カトリック信者をやめるべきではないかと思っています。 私はうつ・パニックを患っていたことがあり、心気症状が出て体調も悪いけどでも教会に救いを求めたくて行って、聖堂でつらくて泣きわめいてた時期がありました。そのとき婦人会長に「神様のことを勉強してる子ども達にそんな姿を見せたらだめ」と言われました。見せたくないのは私も一緒、でも泣き部屋も信徒会館もないんです。土曜ミサなので、じゃあ子どものこない日曜の御言葉の祭儀に出ようと行くと、信者は私一人で、昨日のミサで人が多かったのでホスチアがなくなって今日はご聖体は切らしてる、だからあげられないというシスターの言葉でした。昨日なくなってしまったのなら、どうして日曜日くる人のためにご聖体をつくっておいてくださらないんだろう。わたしは来るはずの頭数にも入ってないのかと。シスターには、「そんなに調子が悪いなら無理して教会に来なくてもいい」「あなたのことこわがる人もいるもの」と言われました。でも私は暴力はふるったことはありません。つらいときこそ行きたかったのに。いたわりの言葉なんかなし。電話をくれる人もなし。他人の信仰まで否定する気持はありません。でもこれで教会ですか?神の愛はあると思います、でも私にはないです、自分の誇りのために教会を意地でもやめたいと思う私は間違ってますか?  カトリック信者の方、そうでない方を問わず相談に乗ってほしいです。いろんな分野の人にアドヴァイスしてほしい。お願いします。

  • 仏教家系で育ったクリスチャンはどう苦難を乗り越えてきたのでしょうか?

    仏教の家系ながら社会人となって父が他界する直前にカトリックに入信。縁者の反対を押し切ってカトリックの家系の妻を娶り、子供たちも受洗させました。養子縁組の一人っ子の私は、母にとっては私の生き方は裏切り行為であり家系にとっては背信行為にしか映りません。信仰は個人のこころの問題であり、クリスチャンでも仏壇の先祖供養はできると説得しても聞く耳はなく、私が信者をやめるか、やめなければ私を離縁して先祖供養をお寺に任せると主張します。母にとっては今やそれだけが死ぬ前の気がかりなのです。ひとり寂しさの母の不憫さを思うと胸が張り裂けんばかりです。よい信者ではないですが、私は信仰を捨てることはできません。自分がまいた種とは言え、母の心の負担・悲痛な嘆きを和らげることができないものか途方に暮れるばかりです。