30代半ばで海軍少尉? 他

このQ&Aのポイント
  • 祖父の戦時の役職と経歴について質問があります。
  • 海軍少尉の役職について、出世の遅さについて疑問があります。
  • 海南島での終戦と復員について知りたいです。
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30代半ばで海軍少尉? 他

 実家で納戸を整理したところ、「軍友」という年季の入った古い本が出て来ました。太平洋戦争時、郷里から出征した方々の一覧のようなものでした。  その中に祖父の名も当然あり、役職欄に「正八位功五級勲六等海軍少尉」、軍歴欄に「昭和二年佐世保鎮守府志願。昭和二十年海南島にて終戦。昭和二十一年復員。」というようなことが記されていました(うろ覚え)。  質問点なのですが、 1.「正八位功五級勲六等海軍少尉」の部分で、最後の「海軍少尉」といいうのは解るのですが、その前に書いてある部分も役職の一部なのでしょうか?また、終戦時は恐らく30代半ばだと思うのですが、この時点で海軍少尉ということは出世は遅かったとみるべきでしょうか?何となく「海軍少尉」というと20代前半の方というイメージがあって、、、。 2.「海南島にて終戦」とありますが、どんな経歴・経過で海南島まで行ったと想定できますでしょうか?そもそも海南島に海軍の基地があったのですか? 3.「昭和二十一年復員」ということで、終戦から一年ぐらい間があるのですが、復員って簡単には出来なかったのでしょうか?また、復員までの間というのはどんな待遇だったのでしょうか?「シベリア送り~」とは違うの思うのですが。  祖父が存命中に、「帰って来る時は部下に全部あげてしまって何も残らなかった」「勲章はお金出せば買えた。勲章そのものよりも一緒に頂けた賞状の方が価値があった」というようなことを聞いたことがあります。  以上、よろしくお願い致します。

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  • ithi
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回答No.3

no.2です。 お祖父様は、ひょっとしたら、戦闘機乗りの方でしょうか?どうも私には功5級の金鵄勲章からそう思えてなりません。戦闘兵科でない限り、この勲章を授与されることはあまりないと思いますので… 下士官上がりの人の最終階級は特務大尉です。特務とは下士官上がりの士官という意味です。 日本軍の階級 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E3%81%AE%E9%9A%8E%E7%B4%9A 金鵄勲章 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E9%B5%84%E5%8B%B2%E7%AB%A0

takepan_toki
質問者

お礼

遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。

takepan_toki
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 戦闘機乗りというのは聞いたことがありませんので、恐らく異なるかと思います。 横須賀と立山の学校で訓練したということは聞いたことがあります。

その他の回答 (2)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.2

takepan_tokiさん、こんにちわ。 1.正八位功五級勲六等はその当時日本が制度化していた栄典制度における位階勲等です。正八位は位階です。功5級は金鵄勲章ですね。六等はおそらく、旭日章か瑞宝章という勲章を授与されたということです。この制度には宮中席次といって、宮中行事における席次で文官や武官といった官吏を末端まで序列化することを目的としていました。お祖父様はたぶん、昭和二年に海軍に佐世保鎮守府の海兵団に志願し、下士官から士官にご昇進したのでしょう。20代の海軍将校のイメージは海軍兵学校卒業の人たちばかりです。 下記のURLを参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E5%B8%AD%E6%AC%A1 2.その当時、海南島にあった有名な海軍の部隊で第二五四海軍航空隊がありますが、どんな経歴・経過で海南島まで行ったということまた、配属先はここであるかは不明です。これはお役所にお聞きになった方がよろしいと思います。厚生労働省か防衛省でしょうか? 下記のURLを参照ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E4%BA%94%E5%9B%9B%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%88%AA%E7%A9%BA%E9%9A%8A 3.船がなければ、外国から日本へ復員できなかったと思いますので、戦後の混乱期で何しろ何百万人も内地に戻さなえければならないとなったら、そのくらいの遅れは出るでしょう。待遇は「シベリア」よりは良いと思いますが、私にはわかりません。

takepan_toki
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 宮中席次、中々複雑な制度があったのですね。

  • chie65535
  • ベストアンサー率43% (8519/19367)
回答No.1

>1.「正八位功五級勲六等海軍少尉」の部分で 「正八位」は、日本の「位階」。 位階は天皇が授与し、政府組織に対し勲功のあったものに与えられる。 「功五級」は、日本の「金鵄勲章」の級。 金鵄勲章とは、戦前、軍人軍属で功ある者に与えられた勲章で、一級から七級まであり、尉官になると功五級が授けられた。 「勲六等」は、日本の「勲等」。 勲六等は、律令制では従五位の位階に相当する。 勲等とは、政府組織に対し勲功のあったものに与えられる位階のこと。 >この時点で海軍少尉ということは出世は遅かったとみるべきでしょうか?何となく「海軍少尉」というと20代前半の方というイメージがあって、、、。 予科練上がり、つまり、一般兵から昇級していったなら、普通です。 20代前半で尉官になるのは、士官学校出身のごく一部のエリートだけです。 >2.「海南島にて終戦」とありますが、どんな経歴・経過で海南島まで行ったと想定できますでしょうか? 行った経緯は本人が所属していた部隊の部隊長にしか判らないのではないか?少尉とは言え、司令部から「行け」と言われたら行くしかありません。 >そもそも海南島に海軍の基地があったのですか? 島の南部の三亜に、海南警備府司令部があった。当時の重要な軍事拠点。 >3.「昭和二十一年復員」ということで、終戦から一年ぐらい間があるのですが、復員って簡単には出来なかったのでしょうか? 復員には「復員船」と呼ばれた船舶が必要です。 終戦の時点では、船舶の殆どが沈められ、燃料も無かったので、出せる船舶が殆どありませんでした。 船舶があっても、女性と子供を最優先で帰国させたので、長期に渡って「順番待ち」を強いられました。 >また、復員までの間というのはどんな待遇だったのでしょうか?「シベリア送り~」とは違うの思うのですが。 戦勝国や連合国側の収容所で待機させられました。

takepan_toki
質問者

お礼

遅くなりましたが、ご回答ありがとうございました。

takepan_toki
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 本の中の他の方々を見ますと、同時期の志願者でも「○等兵曹」が大半で少尉が2名程度といった感じでした。やはり所属部署等で出世の速度には差があったのでしょうか? また、叩き上げですと最終的にはどの程度の階級まで出世できたのでしょうか? よろしくお願い致します。

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