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松平容保はなぜ自らの命を引換にしなかったのですか?

isokenの回答

  • isoken
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回答No.10

>松平容保はなぜ自らの命を引換にしなかったのですか? 戦国期・幕末動乱期の双方を比較可能な現代人としては、当然持つであろう疑問ではあるのですが、一方明確に法人化した徳川中期以降の大名家に於いて、藩主の委託を受けた家老以下が政務を代行し、その責任の全てを負うというのは、極めて明快な論理でありました。 学問・歴史的素養他、恐らく容保公は平均以上の殿様ではあったのでしょう、但し彼とて世の慣習の埒外では在り得なかった、即ち藩を代表しての自刃という選択肢が、そもそも容保公のそして会津藩士の頭の片隅にすら無かった、そう考えるのが妥当な推論かと思われます。 一方何れの歴史書にも明確に記されてはおりませんが、私個人が捉える幕末の動乱とは、或る意味朱子学を基調とする佐幕派と、陽明学の流れを汲む薩長尊皇派の争い、無論その他の要因も加味されるのでしょうが・・。 つまり徳川家康が天下を取った後、荒々しい戦国の気風を残す大名諸侯の思想的な去勢を目論み、林羅山らを重用して、武家政治の基礎理念として幕府の正学に定められたのが、建武の新政以降長らく市井に埋もれてはいたが、忠孝を一義的に説く朱子学。 (但しこの朱子学から派生した尊皇攘夷思想が、討幕運動の引き鉄となったのは或る意味歴史の皮肉ではありますが・・。) 一方に於いて、陽明学に傾倒した(と思われる)吉田松陰の系譜を引く長州藩に於いては、暴発前後の段階では藩主の存在など殆んど無視、最早藩主・藩すらどうなっても良いとの兆候すら窺える。 他方薩摩藩は、西郷隆盛一派と島津久光系の藩至上主義という二頭立ての馬車であり、陽明学と戦国群雄割拠意識の混成部隊。 尚以下は余談ですが、徳川中期以降完全に法人化した大名家に於いて、藩主はおろか閨閥家老ですら御飾りと成し、一部の例外を除き実質的な決定機関は、現代企業の役員会・常務会に相当する「衆議」でしょう。 そしてその傾向は明治維新以降も明確に引き継がれ、一体全体あの日米開戦のスイッチを誰が押したのかすら今以って判然としない、即ち責任の所在が誠に持って不明確な日本型政治の一典型となり、未曾有の敗戦に依り、殆んど全ての諸制度が形骸化した戦後社会すら生き延びて、今に至ります。

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質問者

お礼

>法人化した徳川中期以降の大名家に於いて、藩主の委託を受けた家老以下が政務を代行し、その責任の全てを負うというのは、極めて明快な論理でありました。 現代憲法が規定する天皇の権限に少し似ていますね。 (国民は選挙権を行使して自分たちの代表(議員)を選ぶ。多数を占めた議員の集団(与党)が 総理大臣を選ぶ。天皇は総理大臣を形のみ任命するものの、天皇の国事行為は全て内閣の決定に従って 行われる。天皇は実質的な権限は全くないかわり政治責任も負わない)。 >日米開戦のスイッチを誰が押したのかすら今以って判然としない、即ち責任の所在が誠に持って不明確な日本型政治の一典型となり、未曾有の敗戦に依り、殆んど全ての諸制度が形骸化した戦後社会すら生き延びて、今に至ります。 大日本帝国憲法ではそうだったかもしれませんが、議会制民主主義を明確に定義づけて現代憲法では、 今後万一戦争が起きても(ないとは思いますが)、戦争責任は内閣(もしくは議会制民主主義に 基づく選挙で内閣総理大臣を選んだ議員集団=与党を選んだ国民全体)にあるのではいでしょうか。 >法人化した大名家に於いて、藩主はおろか閨閥家老ですら御飾りと成し、一部の例外を除き実質的な決定機関は、現代企業の役員会・常務会に相当する「衆議」でしょう。 容保公の頃の会津藩では、世襲制家老が力を持っていて、門閥以外の実力派の意見が取り入れられにくく、 保守傾向が強かったため、軍制の改革が遅れたとの説もありますね。 その点、薩摩藩・長州藩はある意味、実力主義だったのでしょうか? 攘夷思想は海外と密貿易をして富を得ていた薩摩藩では醸成されにくかったかもしれませんね。 (外国の実力を早くから知っていた?) >学問・歴史的素養他、恐らく容保公は平均以上の殿様ではあったのでしょう、但し彼とて世の慣習の埒外では在り得なかった、即ち藩を代表しての自刃という選択肢が、そもそも容保公のそして会津藩士の頭の片隅にすら無かった、そう考えるのが妥当な推論かと思われます。 みなさまのご意見を伺って、そうかもしれないと思うようになりました。もう少し自分でも勉強してみます。 詳しいご回答をありがとうございました。

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