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松平容保はなぜ自らの命を引換にしなかったのですか?

herdranbo77の回答

回答No.5

会津戊辰戦争ほど日本史上における過酷な戦争は無い、基本的な起こりの要因は何処から始まったか知っていますか?それは水戸藩士(一人薩摩藩士含む)が桜田門外で大老・井伊直弼を殺害した事に端を発し、実質ここから約10年にも及ぶ国内戦争は始まる、この時点で会津中将松平容保は、まさか!わが会津藩が幕府の盾に成ろうとは知る由も無かった、孝明天皇からの絶大なる信頼があった容保公は孝明帝より名誉ある御しんかんを享け賜る(天皇から歴代将軍が御しんかんの名誉を享けた者は誰もいない)、しかし孝明天皇は突然の崩御!(死因は天然痘とされるが実際は岩倉具視による毒殺説の可能性大)、失意のどん底に叩き落された容保公は気を取り直して職務(実質国務)に励むが、更に勢力を増した郎党過激連合(薩長土肥安芸連合)の謀略に巻き込まれてゆく、そして愚かな徳川慶喜公は将軍職を投げ出してサッサと隠遁生活に入る(これほどブザマな将軍は足利幕府以来だろう!)、足蹴にされた容保公は会津に戻り戦争に備えるが、怒涛のごとく調子づいた郎党連合は強姦・略奪・放火の限りを尽くし、会津藩を完膚なまでに叩きのめす!徳川宗家に尽くし自らの国許を守り抜こうとした容保公に責任は無い!100%完全なる戦争責任があるのは(薩長土肥安芸連合)の桂・大久保・西郷どもだろう、そして幕府海軍司令官・榎本武揚にも責任はある、どうして品川沖で艦砲射撃を行わなかったのか?どうして彰義隊を見殺しにしたのか?どうして勝を殺さなかったのか?この男への三大不思議だ、最後まで慶喜公の尻拭いをした会津中将松平容保は正にお釈迦様である、正しい史実のドラマ制作をしないNHKの罪も深い、オッと!面白い歴史フィクション小説をお教えする(大逆説!戊辰戦争、上下巻/著者・志茂田景樹)。

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質問者

お礼

宸翰は容保公にとって非常に名誉な事だったんでしょうね。死ぬまで手放さなかったと聞いています。 でも・・・ただの紙(ごめんなさい)より、家臣の命、領地の民の安寧の方が大事なんじゃ・・・と 思ってしまう私は平和ボケした現代人なんでしょうね。その時代に生きていたら容保公の生き方も すんなり理解できたかもしれません。教えていただいた小説、是非読んでみたいと思います。 ご回答ありがとうございました。

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