仏教の学び方と宗派の違いについて

このQ&Aのポイント
  • 仏教の学び方とは、まずは仏陀の教えを学ぶことが重要です。宗派の中から自分に合った教えを見つけることも大切です。さらに、宗派ごとの特徴や違いを理解することで、より深く仏教を学ぶことができます。
  • 仏陀の教えは欲についての教えも含まれています。欲は本性的には清浄であり、垢がついていることで問題が生じるとされています。欲を浄化することで、本来の輝きを取り戻すことができます。
  • お勧めの仏教本は、難解過ぎずにわかりやすい内容であることが重要です。初心者向けの入門書や、実践的な教えが書かれた本がおすすめです。
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仏教は、どのように学べばよいのですか。

仏教について学んでみたいのですが、大乗に小乗、真言宗、天台宗、禅宗、浄土真宗、日蓮宗など宗派が多すぎて、どこからどのように学んだらいいのか、わかりません。 仏陀の教えが幹となって、枝葉に分派の教えがあるのなら、まずは、仏陀の教えを学ぶほうがいいかなという気もするのですが・・ できれば、各宗派の違いや特徴も教えていただければ在り難いです。 (宗派の勧誘はお断りします・・笑) カテゴリーで、気になった言葉があります。 諸法及諸有 一切皆清浄 欲等調世間 令得浄除故  如蓮體本染 不為垢所染 諸欲性亦然 不染利群生  「すべてのものは皆きれい 欲が世間を整えて すべてを清らかにする。  欲も本性きれい 垢に染まってない欲は 人に利益をもたらすのさ」 「欲そのものが悪いのではなく、垢がついているので、働きが発現しない。 垢をとって、本来の輝きを取り戻せ」 ・・言葉は、「  」のような意味とのことでしたが・・ 垢って何ぞや(?)という疑問。ここでの、欲とは(?) 仏教でいう、欲に付く垢は、どのように捉えたらいいのでしょうか。 (難解過ぎない)お勧めの仏教本がありましたら、教えてください。 よろしくお願いします。

noname#180507
noname#180507

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

こんばんはです。 bragelonneさんへの、わたしの回答を読んでしまったのですか~。 質問者さんの仏教に対するイメージは、「仏教とは欲望否定の教え」でしょうから、理趣経(りしゅきょう)の百字の偈(げ)を見ると、混乱するでしょう。まったく、正反対なことをいっているわけですから。わたしも最初は大いに混乱しました。この文章をどのように読み解いたらいいのか、悩みました。そして、最近になって、ようやく、その意味が少しだけ頭で理解できるようになりました。 《清浄》とは《空》のことです。《空》の積極的な表現です。 と書き出しものの、どこから、どう説明をはじめたらいいのか。。。 弱ったな~。 《清浄》はサンスクリット語で、《visuddhi・ヴィシュディ》です。日本語に訳すと、《清浄》や《浄化》。 なのですが、藤田正浩は原始仏教でのこの語の用法を調べた結果、 ───────── √sudh───vi-suddhiの語幹です───系の語はウパニシャッドの思想を継承しており、すべて意味内容がほぼ共通している。悟りの境地を象徴することが多いとはいえ、人、物、事全般を形容し、不用物、汚れたものなどマイナス価値をもつものの欠如態を意味する ───────── と言っています。 つまり、《清浄》とはマイナス価値(煩悩や強い自我執着)などが欠如した状態をいいます。 で、《汚れ》や《垢》は何かといえば、《煩悩》や《強い自我執着意識》などなど。 こうした、マイナス価値は、確かに、いまのわれわれの《欲》には付着している。しかし、こうしたマイナス価値は本来的なものではない。それは、ヨソからやって来たお客さん・《客塵煩悩》(かくじんぼんのう)だ。けっして、欲には、自性としてマイナス価値があるわけではない───つまり、《空》───。そのマイナス価値を失くせば、本来の輝きを発揮するのだ。 《○○清浄》というのは、まあ、このようなイメージです。 で、われわれの生命の根源から発生する《欲》も空である。つまり、欲清浄!! 清浄だから、本質的に何ら否定されるものではない。 否定されるのは、《欲》に付着している汚れや垢である。 それを取り去れば、自己にだけ利益をもたらすと思われている《欲》も本来の活動性を発揮し、人々に利益をもたらすのだ。 こんなイメージです。 要するに、《客塵煩悩・自性清浄心》という、古くからある仏教の考え方を押し広げた考え方です。 より宗教的に言えば、 人間に内在する《内なるホトケ》や《内なるカミ》のハタラキ、活動性が顕在化する、と言ってもいいと思います。 まあ、こんな感じの思想です。 ちなみに、《空・sunya》とは、本来、「○○に△△はない」というのが、原義です。 念のため言っておきますが、 今ある現勢態の自分本位の欲(望)をそのまま肯定しているワケではありませんよ。その欲を今の自分ができるの範囲内で世のためヒトのために使え、と言っているんです。それが菩薩の道だ、と理趣経の百字の偈は言っています。 なので、そう無茶なオシエではないと思いますよ、わたし。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~ 垢って何ぞや? ~~~~~~ 仏教でいう煩悩というヤツです。 ~~~~~~ 欲とは? ~~~~~~ 今ある、あなたやわたしの《欲》です。 ~~~~~~ (難解過ぎない)お勧めの仏教本がありましたら、教えてください。 ~~~~~~ お坊さんの説教臭いない入門書でしたら、 ○仏教入門 岩本宏 中公新書 あたりが最適かと。ただ、既成の仏教観を揺るがすような、かなり衝撃的な内容を含んでいます。 より高度な仏教思想を知りたいのでしたら、 ○仏教思想へのいざない 横山紘一 大宝輪閣 あたりです。 この本一冊で、原始仏教、アビダルマ、中観、唯識思想を勉強できます。ただ、内容はかなり高度なものを含みます。わたしは、辞書がわりにこの本を使っています。 日本仏教全般───禅宗、浄土(真)宗、日蓮系は含んでいませんが───について知りたいのなら、 ○八宗綱要 仏教を真によく知るための本 凝然大徳 鎌田茂雄訳註 講談社学術文庫 が最適です。この本を超える本は、おそらく、ありません。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 》bragelonneさんへの、わたしの回答を読んでしまったのですか~ はい。 ねこさんの回答に、思わず、立ち止まってしまいました。 この意味なんだろ~直接、お聞きしたかったので、回答いただけて嬉しいです。 (勝手に、ねこさんの回答を質問文に引用することには躊躇したのですが・・) 》《清浄》とは《空》のことです。《空》の積極的な表現です。 》と書き出しものの、どこから、どう説明をはじめたらいいのか。。。 》弱ったな~。 質問で、どの程度の知識か書いておけばよかったですね。 お手数かけて、ごめんなさい。 「般若心経入門(松原泰道著)」と、ビジネスホテルの机のひきだしにある「仏教法典(聖書みたいな本)の一部」ぐらいしか読んだことないのです。あと、子供の頃、「おしゃかさま(伝記)」の本は読んだような気がします(^_^;; あの文字は「理趣経」なんですね。 「欲」を肯定しているところに強い印象がありました。 仏教は、欲に囚われないと思ってましたので・・ 》「《清浄》とはマイナス価値(煩悩や強い自我執着)などが欠如した状態」 》「《汚れ》や《垢》は何かといえば、《煩悩》や《強い自我執着意識》など」 》「われわれの生命の根源から発生する《欲》も空である」 「欲」と「煩悩」を混同していたことに、気づかされました。 「欲」は、生命の根源なんですね。草木が生える大地のような力強さを覚えました。 仏教の教えは、天上界ではなく、大地に在るのでしょうかね。 《客塵煩悩・自性清浄心》の言葉に集約されるのですね。 》欲を今の自分ができるの範囲内で世のためヒトのために使え、と言っているんです。 》それが菩薩の道・・ 確かに、知識を得たら、実践することが大切であると思います。 日々の実践のほうが、大変だと思いますが、まずは、自分のできるところからですね。 良書のご紹介も、ありがとうございます。 初歩から、ゆっくりと学んでいきたいと思います。

その他の回答 (10)

回答No.11

 「欲」と「垢」をどう解釈したらいいのか、に回答すべく考えてみました。  生命はみんな生きる力を持っていますが、なかでも人間の生きようという力は大きな欲望となって現われています。  生きようという力を欲望と言うのなら人間にとって必要不可欠なもの。これを否定してしまっては生命そのものを否定することになってしまいます。  でも宗教的に「欲望」というとなぜか否定的に使われることが多いです。  この質問ではそこのところを「欲」と「垢」とに分けて、欲そのものが悪いのではなくその欲に付く「垢」がよくないのだと言ってますね。  これを私は欲望というものには宗教的にみて、好ましい欲望と好ましくない欲望とがあると受け止めています。  すこし表現を工夫すれば“好ましい方向に働く欲望”と“好ましくない方向に働く欲望”と言ってみたいと思います。  仏書などでは、欲というものは本来きれいなものであると、言われますがそれは“好ましい方向に働く欲望”を差しているのではないでしょうか。  また、欲に付く垢とは“好ましくない方向に働く欲望”と言ってみたいとも思います。  ただ、良いか悪いかの境目は大変曖昧であって、またその基準も人さまざまだと思います。  また質問とは関係ありませんが、人間の三大欲望に性欲を多くの人が上げますが、性欲は無くても死にません。また子供には生理的な意味において、性欲はまだ現われていません。  三大欲望を生理的欲望、欲求と受け止めるなら性欲ではなく排泄欲をあげるのが正しいと思います。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 今回、仏教でいうところのの《欲》や《垢》は、何を意味しているのかを知りたく、質問しました。煩悩に歪められて、欲が、好ましくない方向に働くのかもしれませんね。 良書を読んで、深めていきたいと考えています。 欲望の捉え方はいろいろあるでしょうが、ショーペンハウエルは「生きんとする意志」として、「食欲」「性欲」をあげていますね。「食欲」は個体の生、「性欲」は個体を越えての生の生命衝動(本能)と。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

こんばんは。 手当たり次第、全部、学んでみては。 で、「これだ!」というのは、全部違うと思います。 >「欲と本来の輝きと、垢」 やっぱり「これだ!」はダメ、ということと思います。 「(現世的?)利益」というより、道理ということと思いますから、 「パッと飛び付いて、直ぐに、やった!」というような インスタントなものではないと思います。 >「すべてのものは皆きれい」 アヤし過ぎると思います。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 世間は悲惨なニュースが多いですし、日常にも、虚栄心や妬みや裏切りや欺瞞など、人間不信に陥ることもあるでしょう。もし、「神」がいるなら、何故、そんな悲惨な運命を背負わせたというようなことが、世界には充満していると思います。 「所詮・・」とニヒリズムに陥ってあきらめることもできるでしょうが、もし、「仏性」というものがあるのなら知りたいです。 「般若心経入門」しか読んだことないですが、宗教というよりは、哲学に近い印象を持っています。仏陀は神格化されて、宗教になったのかもしれないですが、どのような哲学を持っていたのか学んでみたいと思います。時間がかかるでしょうね。 手当たり次第というのは、効率的でないから質問しました。 地元の図書館の仏教コーナーだけでも、四百冊くらいありそうでした。 良書には、数十冊もの本に匹敵する内容が集約されていますので、自分の理解レベルに合ったものを知りたいと思いました。 インスタント的なものは求めておらず、初歩からゆっくりと、学びと体験を反復させながら、深めていきたいです。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.9

垢って何ぞや(?)という疑問。ここでの、欲とは(?) 仏教でいう、欲に付く垢は、どのように捉えたらいいのでしょうか。 ○欲に付く垢ですか。欲がないと人間生きていけませんから欲が悪いわけではないですね。これは簡単ですから誰にでも理解できるでしょう。ここでの欲とは、人間が生命を維持し、社会生活するにあたっての必要な欲のことです。食欲、睡眠欲、性欲など、また向上を目指す多少の名誉欲もいいんですよ。 さて、欲が垢になるという意味は「執着するような欲になる。」ということですね。 川の流れのようなサラサラした欲であれば,とどまりませんからよどむこともないですね。 よどんだ欲、粘着質の欲のことを垢といってるんですね。でも垢は一概に悪いとも言えないところがあって、良い方向の垢を個性といいますね。悪い方の垢が良くないと言ってるわけです。欲もとらわれるとストーカになってしまいますからね。 こんなのは普通に考えればわかることです。お釈迦様はそんなこと教えるためにわざわざ教えをといたのではありませんね。もっと深遠ですね。 人間は生きるために欲があるのですが、生きるための欲の先に真なる自分が存在し、その自分はダイヤモンドのように透明で美しいものである「一切皆清浄」と教えてるのですね。これを仏性といいます。 これをみんな持ってるのでどのように見える人間も佛の子の性質を持っていると説いているのですね。 現代人なら高度な科学も理解できるのでこの途方もないお釈迦様の教えも理解できるでしょう。 例えば、どのような物質もいくつかの原子からできていると同じような教えですね。それを人間の本質に当てはめて考えれば理解できるでしょうということです。 それを、いろんな方便で説明したのが仏典としてあるだけですね。仏典を読んでも意味不明だから読まないほうがいいと思いますよ。万巻の仏典は、上記の説明なんですから。

noname#180507
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 煩悩が「垢」なんですよね。 執着心も、ひとつの煩悩なんでしょうね。 「仏性」・・No4のねこさんが書かれている《内なるホトケ》や《内なるカミ》と同じ意味かと捉えました。「一切皆清浄」は、煩悩や執着がない、ダイヤモンドのように透明で美しいものなんですね。 仏教は、たぶん、科学と全く矛盾するものでもないような気がします。

noname#181644
noname#181644
回答No.8

こんにちは。 私は、好きな経典の好きな箇所から読んだり、仏教に興味のある方どうしで、楽しく語り合ったりするといったことから始められると良いとおもいます。仏教には、海がすべての河川の水を集める様に、と喩えられるように、あらゆる、様々な事柄から、その道に通じる事ができると言われています。特に心配せず、最初の一ページを開かれると良いのではないでしょうか。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 確かに、語り合うことも大切かと思います。 人文学部(中退しましたが・・)で、先輩や友人と夜更けまで語りあったことは、大きな宝でした。違ったものの見方を知り、刺激になる部分もありました。 でも、それ以上に、自分自身と語りあうことが大切だと感じています。 日記を書くような、自己と純粋に向き合う作業です。旅でいえば、一人旅のようなものですね。最近よくあるブログ日記は、自分と他者の視線が混在するので、純粋な日記とはいえないような気がしています。 孤独は大切ですが、孤立しないことが大切なんでしょうね(自戒) わからなかったことが、後でわかることもあるので、こだわり過ぎず、まずは、最初の一ページから始めてみます。

回答No.7

佐藤さんがネットで次のように書いておられる。 仏教に無明(むみょう)という言葉がある。無明とは、人間が根本的に持っている無知のことである。人生における人間の苦しみは、すべてこの無明から始まることをブッダは、瞑想の中から発見した。人は、その無明というものを取り払うことで、心安らかに生きていける。何だ、人生の秘密とは、こんなことだったのか。ブッダは、余りに簡単な人生の秘密を知って、興奮し、感激し、どきどきしながら、世界の誰もが知っていないはずの、この純粋で微妙な感覚の余韻にしばらく浸っていたのである。 次にブッダは悩んだ。この自分が知ったことを、世の中に伝えたいのだが、この内容が余りに簡単で単純であるのに、実に微妙で、奥深い意味をはらんでいることなので、とても理解してはもらえないだろう。と思ってしまったのである。 しばらく考えたブッダは、ついに意を決して、以前一緒に修業をしていた仲間に、初めてその人生の秘密を伝えたのである。やはり最初、その仲間達は、ブッダの発見を聞いて、「無明が人間の苦の根元である。だからこの無明さえ取り払って、真の智慧を獲得すれば、全ては解決する」というその余りの簡単な答を馬鹿にして、取り合わなかった。 それでもブッダは真剣に、持論に誠意を持って説いたのである。「人生というものは、人が思っているほど、複雑ではない。ごく単純な法則が、根底にあり、それが絡み合って見えるから、複雑に見えているだけなのである。」と熱弁をふるった。やがて一人が、ブッダのその考えを理解した。すると次々と無明の意味を理解し始めた。これが仏教の始まりである。・・・・・・と。 世界の4大聖人といえば釈迦・孔子・ソクラテス とイエスであり、紀元前5~6Cの同じ頃にインドで釈尊、中国で孔子、西洋でソクラテスが生まれ、シルクロードで世界が結ばれ、500年後のイエスによって世界に「神の国」が出来始めた可能性がありますが、十字架刑で殺されたので実現できませんでした。釈尊は無明、ソクラテスは無知の知、等みんな知る事を大事にしました。彼らに共通することは悟り、独学であり神(天・天使・絶対精神等)等から学んだ又は問答したという事でしょう。 今は世界中の情報が瞬時にわかり、短時間で世界に移動できるようになり、求めれば何でもわかる時代になりました。私の独断でいえば、仏教の教えは、仏陀の教えだけで十分でしょう。あとはややこしいだけです。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 昔、参禅会に参加していた時期がありました。 (仏教を学ぶという求道心からではなく、入口は西洋哲学でしたが・・) 確かに、体験から気づくこともあると思います。 内側から湧いてくる雑念を除いて、無心で座禅することで、自分が特別な「個」でなく、境界はないことを感じた瞬間はありました。 左右上下、優劣などなど・・あらゆる比較はなく、位置的にはゼロという概念に近いような。その体験を通して、日常や世間を見ると、偏見がはびこっていることに気づかされます。 座禅を通さなくてもわかる単純なことだとも思います。 (涅槃とかその境地まで至る修道者(仏陀?)もおられるかもしれませんが・・) 参禅会の先輩で出家された方もいますが、修道はかなり厳しいご様子でした。 (そういう生き方を否定するつもりもありません。例えば、雪山は、誰もが登ることはできないけど、登った者にしか見れない風景があるのだろうと) 二十代半ばに、愛憎で苦しんだ時期がありましたが、「般若心経入門」を読んで、「囚われない」という考えに救われました。 自分の本当の気持ちにも気づくことができ、受け入れることができました。 座禅だけでは、気づけなかったと思っています。 体験したことを意味としてわからなくては、消えてしまいます。 インターネットで情報は得やすくなりました。 逆に、氾濫している表面的な情報で知識を得たと勘違いしやすい時代かとも思います。良書をしっかりと学び、熟成しなくては、自分の血肉にはならないように感じています。

noname#181697
noname#181697
回答No.6

とりあえず、ご実家の菩提寺の宗派から勉強し始めるのがいいかな、と思います。宗派の別と言うのは、解釈や実践方法の違いと、その現れに過ぎません。どの宗派も根本的には同じ事を言っているのですが、ただ、自分にとって分かり易い、ピンとくる言い回しというのもあるので、ある程度勉強したら、気になる宗派の教えを学んでみると良いと思います。ちなみに参考書籍は、何を読んでも大して変わりません(笑) ただ、日本の大乗仏教というのは、分かり易い反面、簡略化され過ぎている所もあるので、ある程度勉強したら、仏陀(釈迦世尊)の教えを比較的原型に近い形で伝えている、上座部仏教の教えを学んだ方が良いと思います。 上座部の教えを学ぶなら、日本テーラワーダ仏教協会のHPや、そこのスマナサーラ長老の本が分かり易いのでお勧めですが、上座部は上座部で色々と問題があるので、勉強するにしても、後回しにした方が良いと思います。 さて、欲についてですが、三大欲求ってありますよね?食欲、性欲、睡眠欲。別にこれ自体は不浄でも何でも無いので、腹減ったなら腹減った、エッチしたいならエッチしたい、眠いなら眠いで完結しているなら問題は生じません。でも、これだけじゃ済まないのが人間という生き物な訳ですよ。 簡単にそれらの欲求を満たせる場合はいいけど、そうじゃない時の心の働き、エゴの働きというのは、決して美しいものにはなりません。仏教はこれを「垢」だと言っている訳です。 本来なら心身を健康な状態で維持していく為のサインが、余計な心の働きによって歪められ、苦しみを生み出す源にまで成り下がる。そりゃあ良くないだろ~、どうにかしようぜ~、という事ですね。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 実家は臨済宗ですが、地元では少なく、曹洞宗の寺で法事はしてもらっています。 祖父母の眠る墓参りは好きです。思い出もありますし、語りあえるからです。 大乗仏教を学んでから、上座部(小乗?)のほうがいいんですね。 協会のHPも教えていただき参考になりそうです。 生きていくには、三大欲求は大切ですね。 うつ病になると、これらの欲求が歪んでいきます。 「垢」がつくと、歪められ、苦しみを生み出すんですね。

回答No.5

 こんばんは。  少々説明の仕方を異にした・しかし同じ視点で同じ内容を表わす理論について 投稿をこころみます。  【Q:なぜ情欲を劣情とするのか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5922822.html  ☆☆(その趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~  なぜ情欲を劣情とするのか?  人間の《情欲》をかつてクリスチアニズムは 何故かくも貶めたのか?  たとえばつぎのようにです。そこでの《魂》は 単純に広く《感性》のことだと思います。  ▲ (アウグスティヌス:情欲論) ~~~~~~~~~~~  魂なしには肉の情欲は存在しないから 確かに情欲を起こすことは 生きており感覚している本性の性質である。だから去勢された男でも情欲が欠けていないで 貞潔がそれを抑制しなければならない。  情欲を駆り立てる燃料が見出されない場合には 性欲が貞潔に逆らって刺激することがいっそう少ないから 苦労もいっそう少ない。しかるに性交の試みが たとえ〔去勢されているがゆえに〕それができなくとも カリゴヌスの恥ずべき行為に至らないように 慎み深さによって抑えられている。彼はワ゛レンティアヌス皇帝の息子の宦官であり 娼婦の告白により醜行の責任を負わされて 復讐の剣によって罰せられたと言われている。肉の実行はなかったとしても 〔情欲が〕肉的な情欲の渇望によって引き起こされなかったとしたら 集会の書ではそこから比喩がつけ加えられて    彼は目で見て 嘆息し 宦官のように処女を抱きしめ    かつ悲嘆している。 (シラの書(集会)30:20)  と語られはしなかったであろう。  (『ユリアヌス駁論』6:14 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    問題(問い)は 二つないし三つあると思います。  ひとつには まづわたし個人の答えですが これも単純に《なぞの何ものかへの畏れ》の問題だと思われること。その畏れをないがしろにするなかれということ。そのためであり その意味であって 情欲じたいを取り上げるのではないであろう。あるいは情欲をおとしめること自体を意図していないのではないか。  いまひとつには この文章を書いた人じしんが つぎのようにも書いていること。少々クリスチアニズムの特殊な領域にも入りますが。  ▲ (同上 1・5) ~~~~~~~~~~~  かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いづれの問題点についても これらのことが どうして人間の思惟やその観念として・また観念の世界においてこそ 唱えられ抱かれ頻々と説かれ やがてはそのような共同の幻想となってしまったのか。これが 三つ目の問いです。  言いかえると 前の二つの問題点は――それらについても 解説や批判を募っているのですが―― いづれも《非思考》として成り立っていると思われます。しかるに そのことがどうして《思考や想像力》の問題あるいは《知識》の問題に成り下がってしまったのか? こういう問いです。  情欲論には 落とし穴があるのでしょうか? どういう落とし穴(あるいは つまづきの石)でしょうか?  さらにあるいは ひとは――もしそうだとしたら――なぜ情欲から離れなければならないのでしょう?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  以上が  ★ ~~~~~~~~  垢って何ぞや(?)という疑問。ここでの、欲とは(?)  仏教でいう、欲に付く垢は、どのように捉えたらいいのでしょうか。  ~~~~~~~~~~  ☆ へのひとつの答えです。《非思考》というワケの分からない回答内容になりますが。  上に掲げた質問の回答No.1のお礼欄をも参照ください。  つまり  ★ 仏教は、どのように学べばよいのですか。  ☆ 《非思考》の問題は 《学ぶ》とは別だと思うという回答です。《信仰》において会得するものだと考えます。  《信仰》なら ブディズムの内では 親鸞にかぎります。そのあとで ほかのオシエを聞けば その内容をしかるべき位置に位置づけて捉えることができると思います。  要領を得ないかとは思いますが こういう見方もあるのかと あたまの片隅にでも置いておかれるとよいのではないかと思いました。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 私の読解力不足のせいか、今回質問の仏教的「欲・垢」とご紹介の「情欲論」の関係について読み取れませんでした。せっかく詳しく、説明いただいたのに申し訳ありません。 この質問では、比較論は考えていませんので、拡散せずに、集約の方向でいきたいと思います。 小学生の頃、日曜学校に通って(通わされて)いたのですが、キリスト教は、神のことばが、まずありきという印象を持っています。また、高校時代、一年程、教会に通いましたが、「神は、何故、人に自由意思を与えたのか」など懐疑部分が、信仰を勝りませんでした。神を信じることは、託すことができ、心の平安は得られやすいでしょう。「非思考」だとは思います。 でも、信仰深い方に出会うと、私には感じ取れなかった何かがあったのかも・・とふと思うことはあります。 親鸞は、キリスト教的な仏教というイメージがあるのですが・・ 今回、信仰というよりも、哲学的なものを求めています。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.3

法を持ってすれば、綺麗なものですよね。 人はすべて、自分の中に法則性や理が潜んでいます。 自分に気がつけば、自分の中で法が目覚める。 垢は欲望です。 欲が足るを知らず、それ以上の望みを持つことです。 自分が進むべき道を叶えるより、金や地位や権力を望むことですね。 進みたい道に付いてくる付属品を、道より重要視すると垢で固まります。 求めるものは外にあらず内にあるということです。 宗派にあまり興味を持たないので、教えるというようなことはできないのですが 何を言わんとするや?には、自己を掘り下げていく力があるように思います。 そういう意味で、六祖慧能はいいと思います。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 金・地位・権力は追い続けても、満たされることはないでしょうね。 物質的な満足は一時的で、退屈を招きますし、金・地位・権力のみを追い続ける人は、傲慢さが増すように思います。傲慢な方の死は、孤独です。 臨終間際にも、個室に入って面会せず、多数の親戚が廊下で財産の話をしていた事例もありました。 Wikiを読むと、六祖壇経は、禅宗のようですね。 「般若心経」は、昔、入門書を読んだくらいですが、哲学に近い印象でした。 一字一字の意味や世界観に共感しました。

  • neo_Venus
  • ベストアンサー率50% (130/260)
回答No.2

日本の仏教は・・・ 形式だけを整えて、中身のないものとなっています。 (一部の高野山等の仏教は、わからないが。) 一例が、近所にあるお坊さん、戒律なんて 存在しない生き方をし、高級車にのってたりする。 で、仏教の原点といえば、チベット仏教 ダライラマ法王が、いらした仏教です。 で、そこの教えをわかりやすく解説したのが ↓虹の階梯という本です。 http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_ss_i_3_2?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Daps&field-keywords=%93%F8%82%CC%8AK%92%F2&sprefix=%93%F8%82%CC%2Caps%2C334 チベット密教の真髄となる教え、瞑想方法が、のってます。 仏教ファンなら、一冊はもっておきたい 書籍ですよ。 以上

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 仏教の原点って、チベットなんですか。 インドかと思っていました。 大まかには、チベット周辺が小乗仏教で、日本が大乗仏教ですかね。 どちらも関心があります。 若い頃、参禅会に参加したことはありますが、瞑想やヨーガは、また違ったアプローチなんでしょうね。 今回、仏教の教え(文字の意味)を中心にと考えています。

  • marbleshit
  • ベストアンサー率49% (5033/10253)
回答No.1

釈迦仏教の最高法典は法華経です。 これをお読みになるのが取急ぎ効果的でしょう。

noname#180507
質問者

お礼

回答、ありがとうございます。 「法華経」は、最高法典なんですね。 漢文だけでなく、解釈付きのわかりやすい本があれば読んでみたいです。 (漢文だけでは、頭が痛くなりそうだし、誤読しそうので・・汗)

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    仏教に関する基本的な質問なのですが、宗教には全くド素人なので小学生に教えるような感じがお願いします。 1. 仏教は大乗、小乗と分かれたり、また密教とか禅宗とかありますよね? これらは一体何がどう違うのでしょうか? 2. 一部を除いて大体のお坊さんは頭を丸めていますよね? 多分、頭髪を切る事で俗世間とは縁を切るという意味が込められているのかなと思うのですが、この習慣(?)はいつ頃から始まったと考えられるのでしょうか? 写真で拝見したダライラマ14世は日本の僧と同じように頭を丸めていました。 でも、元祖のお釈迦様はどうだったのでしょうか? また頭を丸めない宗派があるはずですが、俗世間と縁を切るという考えは無いという事になるのでしょうか? 3.日本の仏教界だけでも色々な宗派に分かれているようですが、本来、お釈迦様が唱えた教え(原始仏教?)に最も近いのはどれでしょうか? 専門用語を使われると全くのチンプンカンプンになって質問した意味が無くなると思いますので、それこそ小学生にざっくりと教えてあげるような感じでお願いできれば有難いです。

  • 仏教では、どの宗派でも「怒り」を捨てれば幸せになれると教えているのですか。 

    上座仏教についての本を読んでいます。 仏陀の教えを、そのままに伝えているそうです。 原始仏教とも言われています。 そこでは、幸せになる道は一つだ。 「怒り」を捨てなさい。 どんな悪人に対しても、慈しみの心を持って接しなさい。 全ての人の幸せを願いなさい。 そう書いてあります。 それが、仏陀の教えだと。 頭では理解出来るものの、実際これを実践するのはかなり難しいのではないかというのが、正直なところです。 誰にでも「怒り」の感情はあります。 私にもあります。 身内に二人ほど、「怒り」の対象となる人間がいます。 冷たい態度、キツイ言い方、思いやりのない態度、礼儀知らず、素直でない、心から感謝しない、などなど。 こういう人間に対しても、「怒り」を捨てなさいというのですか。 怒らずに、慈しみの心を持って接しなさいと。 そして、その人間の幸せを願いなさいと。 たしかに、いつまでも怒ってばかりいると、こちらの精神がダメージを受けることもあり、精神衛生上良くないのは理解出来ます。 だから、今後は出来るだけ怒らないように心がけるつもりです。 それで、こちらの心の平安が保てるのなら、そうした方が得だと思います。 怒らないのは、まあいいとしても、慈しみの心を持ってその人間の幸せを願うというのは、そうとう修行を積んだ人でないと出来ないのではないですか。 すでに書いた身内の人間に対して、そうしなさいということは、要するに「許しなさい」ということですからね。 たとえ許したとしても、そういう人間はそのことに感謝するどころか、自らの態度を改める気など全然ないし、平気な顔をしてますますええ気になるだけですよ。 少なくとも私にはそう思えます。 それでも、そうしなさいというのが仏陀の教えなんですか。 上座仏教では、そう書いてあります。 では、他の宗派の教えはどうなんでしょうか。 やはり同じ教えなんですか。 それとも異なる教えなんでしょうか。 元は仏教という点では同じですから、「怒るな」「許しなさい」「慈しみの心を持って接しなさい」という教えは同じですか。 浄土宗、浄土真宗、天台宗、真言宗、禅宗などではどうなんでしょうか。 そこのところが知りたくて質問しました。 よろしくお願いします。

  • 小乗仏教から大乗仏教へ

    ジャンルがここでいいのか分からないのですが・・・ 小乗仏教から大乗仏教が生まれた経緯は、解説本を読んで大体理解しているつもりですが(過去の質問も目を通しました)、どうも根本的に納得できないというか、腑におちません。 個人の悟りが先か、衆生を救うのが先か、という社会問題が原因だといっても、現に小乗を信じる人は多いわけだし、そちらの方が釈迦の教えに忠実なわけですよね? そもそもそんなに簡単に大分裂が起こるものとも思えませんし、何か教えの理解のうえで決定的な相違が生まれたのではないでしょうか? 詳しい方々、是非お願いいたします。

  • 大乗・小乗仏教について確認させてください

    小乗仏教⇒ 無神論 ・ 釈迦の直接の教え(間違いない) 大乗仏教⇒ 有神論的 ・ 釈迦の教えを何百年かけて弟子達がまとめた/理論付けた。 だから釈迦の教えではないかもしれない(というか実際矛盾がある) しかし釈迦は大乗についてノーコメントなので絶対違うとも正しいとも分からない。 ↑合っていますか? 大乗仏教の図式は、大宇宙に釈迦と同等の仏様(大日、ビルシャナ、薬師)、それらの師匠の阿弥陀様がいる。その他に仏様を助ける菩薩様が大勢。すべて信仰対象。 ↑これも合っていますか? 大乗非仏説というのがありますが、釈迦が説いたものではないという証拠がもし見つかった場合、例えば奈良の大仏(ビルシャナ仏)は仏教と無関係の単なる作り物になってしまうのでしょうか? 仏教はもともと生きるための知恵だったようですが、僧侶が権力を持つための道具になってしまい、 人々の自己満足と宗教団体の共存という図式ができあがり、今でもその風習が残っている、 そのようにも思えましたがどうなのでしょうか。お寺の存在自体も分からなくなってしまいました。

  • 仏教における極楽について

    今、仏教について興味があり、勉強しているのですが、「極楽」のところでいきづまっています。 仏陀のお教えでは、煩悩と言う欲は、人を迷わせるものであり、断ち切らねば、涅槃には入れないとあります。 ですが、仏教で言う天国、極楽は、花が咲き乱れ、きれいな家やおいしい食べ物があり、自由に生きられる世界だとあります。 この二つは、大きく矛盾していないでしょうか? 友人などに聞くと、「一般庶民に布教するために、何かしらの拠り所が必要で、極楽はそういうもんだ」と言われます。 本当にそんなものなんでしょうか?世界的宗教である仏教の教えがそんなものであるとは、私には思えないのです。 どうか教えて頂けませんでしょうか? よろしくお願いします。

  • 禅宗は自分で頑張れ超がんばれ!って思想なんですか

    禅宗の教え 神も仏も信じない。この世に救済はない。 だから己一人、自分自身だけのために修行せよ。 他者を助けることなどできない。だから禅宗にはお経がない。 これは小乗仏教というやつですか?

  • 真言宗は小乗仏教でしょうか

    仏教は仏をあがめるとともに、自ら仏になることを目指す宗教です。 そして、大乗仏教は、出家主義の上座部仏教に対し、在家であっても仏になれることを述べています。なによりお釈迦様は、「にぎりこぶしはない。(隠し事はない。)」と述べられています。 いずれの宗派とも、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経と唱えることや、坐禅を組むことなど、仏になるための方法を在家にも伝えています。 真言宗の宗祖 弘法大師は三密行こそが仏になる方法と説いておられますが、真言宗は、出家者しか三密行を伝授しません。これは正しく小乗仏教に他ならないと思います。 真言宗の僧侶や信徒の方は疑問にもたれないのでしょうか。

  • 宗教の分派

    仏教でも、キリスト教でも、元の教えは一つのはずなのに、枝分かれして宗派がたくさんできています。枝分かれ派は、元の宗派に対して、どういう理由で枝分かれしていくのでしょうか。 私が思いついたのがいくつかあります。 ・元派の中では、高位につけないので、分派して自らトップにつく。 ・元派の教えは、自分の考えと違うので、分派して、自分の考えを広めようとする。(元派の教えは、現状と合わず、改善も見込めない。) ・全く新しいものを造って広めようとしても、簡単に受け入れてもらえないので、分派という形で広めようとした。