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直参と陪臣について

funoeの回答

  • funoe
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回答No.8

no7です。資料の写しが手元にありました。 紀州徳川家(55万石)の家臣団の役職と石高について転記します。 宝永分限帳(宝永は1704~1710年)によると、 士分以上の1200余名の中で、 1000石以上が68名 500石以上が120名 300石以上が122名 200石以上が193名 100石以上が155名 となっています。 紀州徳川家は、尾張家や水戸家と比較して500石以上の数が多いといわれているそうなので、水戸徳川家(35万石)では500石以上はもっとすくないのでしょう。 馬廻役は、大名家によって呼び方が異なり、将軍家(幕府)や一部の他家で云う書院番または小姓番(←合わせて「両番」とも)と同じです。 役割としては、戦陣で殿様の直近を警護する武官です。 紀州徳川家では、御書院番頭、御小姓組頭が400石格でそれぞれ5名ずつ。 御書院番組頭が60石格、御書院番が25石格。 御小姓組頭が200石格、御小姓組が40石格。 「馬回り役で500石」との記載については、 石高の方を信用すればそれは馬廻番頭(部隊長)ということでしょうし、 馬廻役(番頭でも組頭でもない馬廻役)というほうが本当であれば、・・・・ということです。 そういえば「御三家の家臣は陪臣」についてはみなさんの回答の通りで異論の余地がありません。 「御三卿の家臣が直参」の方ばっかり主張して、御三家の方は書き忘れちゃいました。

annabe
質問者

お礼

比較対象として紀州徳川家の例をあげて下さり わかりやすかったです。 また、馬廻りといっても、各藩によって呼び方が違ったり、 馬廻り役の中にもランクがあったのですね。 馬廻り役というのは、母が実際に水戸の市立図書館で確認したので (というより、その時初めて馬廻り役の存在を知った。)事実なのだと思います。 500石というのは、明治生まれの私の祖父が「多分500石くらい」と言ってたようで、 最初は、本当かな?と思いました。 「うちは藤田東湖さんちと姻戚関係にある」という話があるので、 藤田さんちの石高を調べたところ、始め200石で最終的に600石になったらしいので、 祖父の言ってたことはあながち間違いではないのかもと思いました。 姻戚関係云々がそもそも間違ってたら意味ないんですけど(汗) また、お墓が水戸黄門で有名な格さんや藤田幽谷・東湖父子と同じ墓所にあり、 母曰く、ある程度の家格がないと入れない墓所らしいとのことで、 一応根拠のうちの一つにしてます・・・ 今、ご先祖について調べているので、 その点も含めて、もっと調査していきたいと思います。 2度目のご回答ありがとうございました。

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