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神功皇后の野望について

3、4世紀の倭は朝鮮半島を頻繁に攻撃 していましたよね? その一番大きな動機は何だったのでしょうか? 最終的には広開土王に負けたそうですが、 もし倭・百済が高句麗に勝っていたら、次は 晋や宋に侵攻するつもりだったのでしょうか? それとも単に高句麗が半島南部に侵攻して 来ただけですか? 神功皇后は世界征服しようとしていたのでしょうか?

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回答No.2

神功皇后の活躍については,日本書紀の記述にしか資料がありません。 魏志とか,朝鮮の三国史記などの方が,史実を知る上ではより貴重な資料です。 魏志東夷伝倭人の条(この下りを我が国では「魏志倭人伝」と通称しています)には,卑弥呼がいた邪馬台国の事が記されていますが,その場所は九州説と大和説とが対立したまま,未だ特定されていません。 日本書紀には神功皇后が卑弥呼で有ったと比定するが如き記述が見られますが,これは明らかに諸資料と対比して誤りとされています。 神功皇后の朝鮮遠征記事は,極めて謎の多いものです。応神天皇(神功が遠征時に懐胎していたとされる)以前の天皇については,実在を疑われてさえいます。 その頃は,朝鮮半島に限らず,日本列島の南西部一帯が北方民族や渡来人の植民地争奪戦の状態でした。『倭人』が日本列島の先住民であったと考えるより,半島経由の渡来人であったとの見方の方が説得力があります。 入り乱れて争う中で,半島からは百済の人が多数日本の地へ渡来していた模様です。地域によっては新羅系と見られる所,高句麗系と思われる古代地名も残っています。 神功紀に言う朝鮮出兵は,危機に瀕した百済救援の為とも考えられ,あわよくば朝鮮半島を支配下に置こうとした事は考えられますが,それ以上でも以下でもなかったでしょう。 神功皇后が実在したとしても,出兵の経験から朝鮮半島の征服さえ困難な事は,確認できたはずです。それ以上の野望は,昭和の時代になっても達せられませんでした。

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質問者

お礼

実際に三韓侵攻したのは下関にあったイツツヒコ王国 で大和王権は無関係だと上垣外氏は主張していますね。

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回答No.1

自国の領土を拡張しようとするのは古今東西為政者の変わらぬ野望です。

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