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長崎奉行を任命する上司は?

江戸幕府の職制のなかで、「長崎奉行」を任命する際は若年寄から本人に伝えられるのでしょうか。または遠国奉行は老中支配なので老中から本人に伝えられると考えていいのでしょうか。どなたか教えて下さいませんか。

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回答No.1

こんにちは。 回答から先に述べますと、 「長崎奉行」も「老中支配下」ですので、老中から「任命」されます。 また、遠国の、例えば「佐渡奉行」などもすべて「老中支配下」ですので、老中から「任命」されます。 任命の方法は、 数日前に、「○月×日にお城へ出仕せよ」と使者が来ます。 その日に出仕すると、白書院の間で、将軍立ち合いのもと、(立ち会わない場合もある)「任命書」というものが老中(主に、老中首座)によって読み上げられます。 そこには、 「○○○左衛門、その方儀、○月×日を以て長崎奉行に任ず、将軍の署名、花押」 などと書かれており、読み上げた後、平伏してい○左衛門の方に「任命書」を見せ、確認させた後、その書面を本人に渡しました。 これが「任命式」です。 幕府が重要都市に置いた遠国奉行は1,000石級の旗本から任じられましたが、伏見奉行は譜代大名からも任じられた別格のポストでした。 これは、東海道から京に入る要所であり、大名と朝廷を近づけないために、参勤交代の途中で伏見より京側に進むことは認められていませんでした。 また、将軍の行幸があった日光奉行も、他の遠国奉行よりやや格が高かった。 猟官運動が盛んに行なわれたのは「長崎奉行」であり、貿易に絡む賄賂に近い副収入が見込めたことで人気が高かった。長崎奉行となって大きな財産を築いた旗本もいました。 3,000石未満は将軍家から直接家録を支給され仕えていた家臣で、徳川将軍家直属の部隊に編成され、その種類と士卒の身分差で、番筋といわれる階級が17番あり、そのうち上から5番目迄を上位5番方といい旗本(番格で御目見以上)でした。 (5代将軍綱吉の時に正式に定義されました。)残りの12番が御家人ですが、こちらは4代家綱迄の主従関係により三階級に集約されています。 番筋毎に役職通例という昇進コースが有りました。軍人兼現在の国家公務員で旗本(5番方)がキャリア組、御家人がノンキャリア組だと思って下さい。 ※旗本は寄合席と5番方の二つの身分に分かれていました。 現代人がイメージしている旗本は5番方の方です。大岡越前守は1700石、遠山左衛門尉は1500石でした。 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/edojob.html

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