戦前の軍部独裁と議会政治の終焉

このQ&Aのポイント
  • 戦前の日本で議会政治が崩壊し、軍部独裁に移行した理由を知りたいです。
  • 戦前の日本は民主主義国家として議会政治が機能していましたが、なぜ軍部独裁が成立したのでしょうか。
  • 議会政治が終焉した年を具体的に特定することができますか。
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戦前の軍部独裁と議会政治の終焉

何で戦前の日本は雪崩を打ったようにして議会政治が崩壊していき、軍部独裁に移行してしまったんですか? 僕は日本史の中でこれが一番不思議です。今でも解せません。 戦後の民主主義ほど完全ではなかったとはいえ、戦前も曲がりなりにも民主主義国家として議会政治が機能していたのに、何で太平洋戦争直前くらいになると、怒濤の勢いで一気に軍部独裁が成立してしまったんですか? ごく大まかな説明でもいいので理由が知りたいです。因みに議会政治が終焉した年を具体的に特定すると、何年になりますか? 余談ですけど、僕はこの危険な史実こそ、日本の歴史2000年の中で後世の人間が一番学ばなくてはならない点だと思っています。

  • mkfdh
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  • 歴史
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質問者が選んだベストアンサー

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  • Yelm
  • ベストアンサー率19% (63/324)
回答No.6

他の方も述べておられますが、戦前の日本では軍部と政府が並列に存在していました。 これは明治維新政府の基盤が脆弱であったことから、政府と軍部を一本化せずに並列とすることで反政府勢力が政府を揺さぶっても軍部は替らず「体制の擁護者」たることが求められたのです。 当然ながらこのような体制は対外戦争には不向きなものですが、日清日露戦争時は伊藤博文、山形有朋などの元老が行って見れば「超法規的」に軍部と政府の意思統一を図ったのでこの問題は表面化しませんでした。 しかし皮肉にも日清日露戦争の勝利は「体制の正しさの証明」となってしまい、既に時代遅れとなった体制を昭和まで引きずる事態となってしまいます。 しかしながら昭和初期には軍・政府の並列体制の不備もまた明らかであり、このため「軍の統帥権はあくまでも純粋な作戦面に限定され、軍部は政府に従うべきである」とする見解が主流となっていました。 ところが1930年のロンドン軍縮条約調印時、衆議院では野党の政友会が「政府が勝手に軍縮条約を結んだのは統帥権の干犯である」と政府を攻撃し、統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。 これ以降、議会で軍部の行動を制しようとすると政敵から「統帥権干犯だ!」と揚げ足を取られる事態を招き、議会は自ら軍部へのチェック機能を放棄してしまうのです。 議会における目先の主導権争いの為に、国益を大きく損なったと言えるでしょう。 そして当然ながら議会における目先の足の引っ張り合いのために統帥権を弄ぶ政党の行動は、有権者の失望を招き、それと共に「統帥権」をタテにとって政府を無視し、満州全域を制圧した「満州事変」がマスコミや世論の喝采を浴び、国民は軍部の暴走を支持するようになってしまいます。 このように戦前の議会政治の終焉は 「過去の体制がその成功故に時代遅れとなっても維持され続けた」 「政治家達が体制の不備を改正するのでは無く、政敵の足を引っ張る事に利用した」 「体制の不備をついて暴走した軍部の行動が短期的には成功を収め、政府や議員に代わり国民の支持を得た」 といった理由があるのです。 敢えて言えば議会政治の破綻が始まったのは1930年、その後年々崩壊を続け、最終的に終焉したのは大政翼賛会が設立された1940年でしょう。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。当時の歴史的な流れが把握できて大変参考になりました。

その他の回答 (8)

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.9

私たちは、邪悪な戦後教育による洗脳工作によって、無意識に民主主義が至上の正義だと刷り込まれています。だから質問者さんのような誤った歴史認識に陥ります。 元々戦前の議会政治は薩長による藩閥政治のアンチテーゼとして誕生したものです。明治新政府は、明治維新に功績のあった薩長土肥の有力藩士の合議制によって運営されていました。政府だけでなく、中央官僚、軍官僚も全部、薩長土肥の藩士に抑えられていて、賊軍となった東北諸藩はもとより、町民・農民はまったく政治に関わることができませんでした。 ところが明治6年、明治新政府は内部の路線対立が表面化し明治六年の政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野します。西郷隆盛は薩摩藩、江藤新平は肥前藩、板垣退助は土佐藩です。つまりは長州藩の一人勝ちになってしまったわけです。薩摩藩の大久保利通だけは西郷隆盛と道を別って政府に残りましたが、薩長土肥の内、薩土肥が中央政界から弾き飛ばされてしまったという構図は変わりません。 そして西郷隆盛は薩摩藩の不平士族に担ぎ出され、同様に江藤新平は肥前藩の不平士族に担ぎ出されて士族の反乱に至ります。反乱の名目は、明治政府の不正を糾すというものでしたが、実際は明治維新で功績を挙げたにも関わらず、明治政府から阻害され、武士の特権を剥奪されたのが不満だったからなのです。しかし士族の反乱は鎮圧される。武装蜂起では藩閥政治を打倒出来ないと考えた板垣退助は自由民権運動を起こします。元々議会は板垣退助が民衆の支持を背景にして明治政府内に復権しようという目論見で起こしたものなのです。 邪悪な戦後教育は、自由民権運動を民主化の走りのように賛美し、捏造したイメージを作っていますが、それは暴力的な政権交代を目指したものではなく、平和的な政権交代を目指したという方法論であったのに過ぎません。板垣退助が明治7年に結成した愛国公党は、日本最初の政党といわれますが、土佐藩士が中心で個人的人脈によって結成された地域政党に過ぎませんでした。 そうして帝国憲法、帝国議会が設立されることになるのですが、それは政変や反乱といった権力闘争で政権交代をするのはやめましょうという意味です。それを民主主義と呼びたいなら、それでもいいが、農民には主権者意識も育ってないし、農民階級から出た政治家もいないのです。 議会政治といっても、政友会は資本家・地主を支持基盤として、民政党は商工業者・中産階級を支持基盤としていました。つまり議会政治といいながら小作人の利益を代表する政党は存在しなかったのです。また議会は、政敵のスキャンダルの暴きあい合戦の場であり、何も政策の議論などしていなかった。 1925年に成立した普通選挙法によって納税額に関係なく、小作人も選挙権を勝ち取ったのですが、同時に立法された治安維持法によって共産主義は非合法化された影響もあって無産政党は様々な路線対立によって離合集散してまとまらず、二大政党制をつきくずすほどの議席を得られませんでした。それが戦前、寄生地主制を廃止できなかった理由でもあるのです。無産政党が小作人の支持を得られなかったのは、元々小作人は議会政治など全く信用していなかったからでもあるのです。長年、議会政治から忘れ去られ、無視され続けていた小作人は選挙権を得たといっても、もはや議会政治に期待するものなど何も無かったのです。表現を変えれば、小作人には民主主義など全く根付いていなかったということになります。 そうして1930年~1934年昭和東北大飢饉、昭和東北大凶作の時代になる。 昭和東北大凶作 http://www.mumyosha.co.jp/docs/01new/kyosaku.html プロローグ  「欠食児童世代」 歴史的な飢饉多発地帯 江戸・天明の大飢饉/天保の大飢饉 昭和五年(1930)世界恐慌の直撃 泣く子も地頭もかなわない/失業の大群とホイト(乞食) 昭和六年(1931)凶作の追い打ち 大不況と凶作と「満州事変」/粒々辛苦の甲斐もなく/北海道――辛うじて飢えをしのぐ飢餓地獄/青森県――ワラビの根を掘って食料に/岩手県――茅の野原のような田んぼ/秋田県――収穫皆無地1300町歩 昭和七年(1932)悲惨、娘身売りと欠食児童 売られ行く娘たち/欠食児童全国20万 昭和八年(1933)戦争への道行と三陸大津波 救農事業と「自力更生運動」/地主様と小作農民の悲哀/軍国美談の陰で/厳寒・暁の大津波 昭和九年(1934)ああ、昭和東北大凶作 恨みのやませ(風)/死の東北を救え! 飢餓線上の凶作激甚地を行く 岩手県――深刻な飯米の欠乏/青森県――娘たちを求めて人買い人が横行/秋田県――料金未納で電灯が消されていく/山形県――皮を食用にと裸にされた松の木/宮城県――凶作のうえに養蚕収入激滅の打撃/福島県――野獣対人間の木の実の争奪戦 重荷を背負った娘たち、空腹に泣く子どもたち 「悲しみの身売り列車」/走る食堂車からの恵みのパン/軍事予算に潰された農村救済 では議会政治は、東北の惨状に何か救済策を打ったのか。何もしなかったのだ。無為無策だ。 515事件で斃れ、政党政治に終止符を打った犬養毅は何かしたか?高橋是清を蔵相に起用して金輸出再禁止と兌換停止を断行しただけだ。これは日本を世界大恐慌のデフレから世界最速で脱出させた金融政策として高く評価されているけれども、それは飢えに苦しむ東北の農民には何も関係がない。 では東北の農民は何に期待をかけたのか。満州事変です。満州事変を首謀した石原莞爾は山形県、板垣征四郎は岩手県出身です。山形県はおしんで有名ですし、岩手県は江戸時代最も不作・凶作が頻発し百姓一揆の発生件数が多かった地域です。 これは決して偶然ではない。中央政界への道を閉ざされた東北地方の有志は、軍をよりどころに身を立てるしかなかった。それが立身出世の唯一の道だった。犬養毅が撃たれたのは、満州国を承認しなかったからなのです。それが東北の惨状に胸を痛める青年将校には許せなかった。 日本国民よ!  刻下の祖国日本を直視せよ  政治、外交、経済、教育、思想、軍事、何処に皇国日本の姿ありや   政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と 更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と 軟弱外交と堕落せる教育と 腐敗せる軍部と 悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民労働者階級と 而して群拠する 口舌の徒と……  日本は今や斯くの如き錯騒[綜]せる堕落の淵に死なんとしてゐる  革新の時機!! 今にして立たずむば日本は滅亡せんのみ  国民よ  武器を執つて立て! 今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外に何者もない  国民諸君よ!  天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!  国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!  横暴極まる官憲を膺懲せよ!  奸賊、特権階級を抹殺せよ!  農民よ、労働者よ、全国民よ……      祖国日本を守れ  而して……   陛下聖明の下、建国の青神[精神に]帰り国民自治の大精神に徹して人材を登用し 朗らかな維新日本を建設せよ  民衆よ!   この建設を念願しつゝ先づ破壊だ!   凡ての現存する醜悪なる制度をぶち壊せ!   威[偉]大なる建設の前には徹底的な破壊を要す   吾等は日本の現状を哭して赤手世に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの   素より現存する左傾右傾の何れの団体にも属せぬ   日本の興亡は吾等(国民前衛隊)決行の成否に非ずして吾等の精神を持して続起する国民諸君の実行力如何に懸る   起て!   起つて真の日本を建設せよ! 昭和七年五月十五日 陸海軍青年将校 農民同志

mkfdh
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございました。調べれば調べるほど深い事情が交錯していることが分かりました。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.8

そんなに当時の歴史に詳しいわけではないですが。 まず政治的に混乱していたという事情があったのです。内閣が短命政権でくるくる変わったのです。中には、大臣が決まらずになんと政権発足前に内閣が倒れる(ただし、これは陸軍の嫌がらせによるものでした)なんてこともあったくらいです。 そんなわけで政治家は政争に明け暮れて、何も決められずにいました。政治が何も決められないので軍部が独走し、満州事変が起きました。本来は政府が軍部(といってもそのごく一部の陸軍エリートなのですが)の暴走を止めなければならないのですが、現状を追認するようなことになってしまったのです。 そういった中で、五一五事件が起きます。これは海軍の青年将校が犬養首相を暗殺した事件です。この五一五事件、実は戦前昭和史のターニングポイントになった事件なのですが、現代で考察されることがあまりありません。なぜか。 それは、「国民が軍人の暴走を熱狂的に支持した」からなんです。青年将校は政争に明け暮れる政治家に義憤を感じ行動に移したのですが、それが国民の琴線に触れたのです。裁判では、政治の腐敗を批判する青年将校の姿に「裁判所は涙に包まれた」と新聞は美談調に書き、ついには傍聴席のあるご婦人が立ち上がり、「裁判長様、どうか、ご寛大な判決を!」と叫んだのです。 日本中で青年将校に対する助命嘆願運動(反乱罪はもっとも重い罪で、世界のどこでも死刑です)が沸き起こり、とうとう事件の青年将校たちは軽い判決を受けることとなります。 この五一五事件の顛末が「動機が純粋(義憤)なら、行動が乱暴でも人々の支持を得られる」という前例を作ることとなり、それがあの二二六事件を引き起こします。だから、二二六事件はよくテレビなどでも取り上げられますが、二二六事件と五一五事件はセットで考えないといけないのです。五一五事件がああいう顛末にならなければ二二六事件は起きませんでしたから。 ただ、二二六事件の背後には陸軍内におけるいわゆる「皇道派」と「統制派」の権力争いがありましたのでチトややこしいです。二二六事件によって皇道派は失脚します。しかし二二六事件によって政治は力を失い軍部の発言力がとても強くなります。 つまり、戦前のあの戦争になっていく流れの時代は、「世間は不況」で、「東北地方などは塗炭の苦しみ」にあり、「隣国との関係は最悪」の状態で、それでありながら「政治はなにも決められず政争に明け暮れ」て、「エリート官僚(軍部)が暴走していた」のです。 え?私は2012年の日本の話はしていないですよ。戦前の日本の話をしているのです。 よく、「歴史は繰り返す」といいます。それって、こういうことなんです。私たちが今いる道は、「いつか来た道」なんですよ。 もし今、偶発的に尖閣諸島で中国海軍と海上自衛隊が軍事衝突して海上自衛隊が勝利したら、たぶん日本人は熱狂することでしょう。「もっとやっつけてやれ」という声も出ることでしょう。日中戦争も、「一撃膺懲論」というのが引きずったのです。「中国に一撃を与えて、それで中国人を反省させて和平交渉に持ち込もう」というのが日本人の考えでした。ところが、無限とも思える国土の広さを持つ中国は別に一撃を喰らったくらいではたいしたダメージではありません。広い国土に引きずり込まれで、ズブズブの泥沼戦争になりました。 また他の人も回答していますが、世間は不況だったのでもし日中戦争が終わって戦争に行っていた大量の将兵が国内に復員しても、引き受けられる雇用がなかったのです。戦争に参加して粗暴になっている大量の失業者が国内にウロウロされたら、国が不安定になってしまうでしょう?だから政治家は怖くて戦争終結を決断できなかったのですよ。 今の日本でも、エリートである原子力ムラの人たちは原発再稼働にまい進し、政治はそれを追認する形です。原発を軍部に変えれば、構造としては同じなのです。かつて「統帥権」が錦の御旗となったように、「日本のエネルギー問題」が錦の御旗となっています。 きっと将来、我々は「なぜ当時の人はあのとき原発をやめることを決断できなかったのか」と未来の人々から批判されることになると思います。

mkfdh
質問者

お礼

詳しい回答ありがとうございました。歴史は人間が紡ぐもので、故に様々な事情が交錯していることを痛感しました。

noname#212854
noname#212854
回答No.7

 《戦前の日本は雪崩を打ったようにして議会政治が崩壊していき、軍部独裁に移行してしまった》  と、たった一行で表現できるほど、現実は単純ではありません。  《この危険な史実こそ、日本の歴史2000年の中で後世の人間が一番学ばなくてはならない点だ》  というのはもっともです。  しかし、今、あなたがいちばん学ばねばならないのは、1990年以降の日本の政治、経済、社会でしょう。  実は、1930年代も現代も、日本には立派な官僚機構があり、大きな支配権力となっています。  1930年代も、現代も、政治権力や軍事権力、経済力は盛衰がありましたが、官僚機構に付随する権力には、ほとんど動きがありません。  昔も今も、議会政治は、官僚機構が実質的な権力機構である事実をかくすための隠れ蓑として機能しているのであって、実質的な権力ではなかったのです。  《戦後の民主主義ほど完全ではなかったとはいえ、戦前も曲がりなりにも民主主義国家として議会政治が機能していた》  ですから、戦前も今も、選挙があり代議士と呼ばれる人が議会政治の担い手にはなっていますが、議会政治そのものは、昔も今も実質的な権力を持っていません。  日本では、まだ、西洋型の民主主義が機能してい無いどころか、始まっていないと考えるべきでしょう。  始まらないものは終わりません。

回答No.5

戦争のお蔭で国民がご飯を食べれるようになったからです 昭和11年は景気はどん底でした。翌年、日中戦争が勃発して軍服・弾丸・兵器がバンバン生産され、余剰労力は徴兵され、食料も国が買い上げてくれたのです。農家・工業・商社すべての産業が息を吹き返しました。昭和12年のヒット曲は「もしも月給が上がったら」です。国民が戦争万歳!軍部ありがとう!!!になったのです。政治家はクソの役に立ちませんでした。 最近、日本近海がきな臭くなっておりますが… もし、尖閣・竹島で小競り合いが発生し、予備自衛官の召集が決定され、弾薬その他の発注が政府より行われたら製造業は息を吹き返します。この紛争で韓国の国防力が弱まり、第二次朝鮮戦争が勃発ともなると日本が製造・物流拠点にならざるを得なくなります。尖閣奪還に失敗した中国も内戦になるかもしれません。これまた蜜の味です。 あなたの給与がこれらの戦争で5倍になるかもしれません。もしそうなったら戦争万歳!防衛省ありがとう!!!私は防衛省を応援しますになりませんか? そういうことです。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。僕が考えてもいなかった視点からのご説明で大変参考になりました。

  • Beholders
  • ベストアンサー率21% (77/364)
回答No.4

原因は明治憲法の仕組みにあります。 明治憲法では、天皇の下に軍部と政府が並列関係となっておりました。並列関係ですので政府が軍部に命令を出す権利(統帥権)はなく、また軍部も政府の命令に従う必要がありません。こうした憲法上の仕組みで軍部が政府の意向に従わずに暴走してゆくことになります。これを統帥権問題と呼びます。 暴走した軍部は勝手に外国と協定を結んだり占領したりを繰り返し、政府と国会がそれを追認していくことになりました。こうなると政府も国会も存在価値を失いますよね。国会で反対したって軍部に命令を出す権利はないのですから。 ですので議会政治が終焉したのは翼賛政治が始まった1940年以前であり、軍部が本格的に暴走を開始した満州事変から、といえるかと思います。

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

noname#229784
noname#229784
回答No.3

「統帥権干犯問題」なんていうのも理由に有りますよね。  明治政府が出来たばかりの頃は山縣有朋など、 元老と呼ばれる人たちが軍を統制できていました。 だから明治政府が軍を統制する仕組みが憲法にはなかったのです。  そして、元老クラスの人が引退していなくなると、軍が統制できなくなり、 「統帥権」を名目に軍部が暴走しました。

  • trajaa
  • ベストアンサー率22% (2662/11921)
回答No.2

まあ、安っぽい民主主義だったから 明治大正期には選挙権が制限されていたのだが、大正末に成年男子に選挙権が与えられた。 これにより、民主主義が進んだように思えたのだが、実際には買収が蔓延る結果となった。 そして政党や政治家は、金儲けや権力闘争に明け暮れることとなり民衆の困窮には目もくれなかった。 一方、軍部はそういった打算と汚職にまみれた政党政治を毛嫌いし(他にも、軍縮が行われて予算と影響力の削減が起きたことへの反感)政党政治に対して様々な妨害工作を行った。 軍部もある意味官僚機構と同じで自分達の影響力拡大と邪魔者の排除にまい進することになった。 その際に、旧軍には『統帥権の独立』というそれまで誰も持ったことの無い、絶対的な切り札があった。 その切り札を政党や政治家に対して行使しても、先にあげたような政党・政治家に対する民衆の支持が無かったので 政党や政治家には軍部に対抗する手段がなかった 転記の一つとしては、五一五事件(昭和7年)が挙げられるのではないか? 或いは、軍部大臣現役武官制(昭和11年)とも言えそう

mkfdh
質問者

お礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.1

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