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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。)

イエスは自分が神であると大嘘をついた?

このQ&Aのポイント
  • イエスなる人間は自分が神であると大嘘をついた。
  • その虚構は人類史上最大の哲学となった。
  • 神であり人である人間が十字架上にはりつけとなった。

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回答No.31

こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  口幅ったい言い分になりますが ねむりねこさんのご見解は なお前史のにおいがいたします。どでげす? ~~~~~~ わたしの聖書や仏典の読み方は、自由主義神学的な立場なものなので。だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。 性分ですから、これはしょーがない。 前史、プレヒストリーですわな~。キリスト教型グノーシスの域を脱していない。 《蛇》、大好きなんです。ミルトンのサタン、大好きなんです。失楽園のサタンの中に人間を見てしまう。。。。 たぶん、悪鬼・悪霊の頭ベルゼバブのファミリーなんですよ、眠り猫は(笑い) ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  後史に入りかけている。つまり 二千年――ないし 神にとっては千年が一日なら 二日――ののち そろそろ というところではないのでしょうか? ~~~~~~ さぁ~。アガペーとエロスなんて言っている間は、まだまだなんじゃないですか。 でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。 何かの本で読んだ記憶があるのですけれども、違うのかな~。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  できれば経典の原文を添えて説明があることがのぞましいと思います。 ~~~~~~ これは、わたし独自の考えです。ブディストは、こんなことを絶対に言っていない、と思います。ただ、復活と再生(再び生まれる、再び生きる)の宗教的意味を抜きにして、現象として復活を再生ととらえれば、こうした考え方もできるということを披露したまでです。ひとつ理屈をコネてみせた。 わたし自身、これがどんなに無茶なものであるか、よく知っています。また、キリスト教の《復活》と仏教などの《再生》を同一視するつもりは毛頭ありません。 しかし《復活》という概念は明らかに《再生》という概念に含まれますよね、包含される。《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。 そこで、一つ質問。 ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか? ダニエル書では 「また地の下に眠りをる者の中 衆多くの者 目を醒まさん  その中に永生に生を得るあり  また恥辱を蒙りて限りなく恥じる者あるべし」 ダニエル書 12ー2 とあります。 「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。 ここのところはどうなっているのでしょうか。 イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった? そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう? これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。

bragelonne
質問者

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 話はさらにやはり佳境に入ってまいりました。(この時間 ちょっと昼寝をしていました)。  ご回答をありがとうございます。  (1)  ★ だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。  ☆ まったく同じ文章で同じことを わたくしも言います。そう思っています。  そしてただしその思いを突き抜ける志向性の起こることをも感じています。  そのふつうの思いだけで終えるなという心の明けを感じます。  それだけです。そういうあやういつり橋をわたっています。  それも 人間の思想の一端をになうことがありうると思ってのことです。  (2)  ★ でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。  ☆ もしアガペーを感じるかと言われれば それは たとえばいまさっき述べたように 何だか知らない心の伸びが どこかに感じられるといったこと それなのかなぁというところです。    たぶんこの志向性は――つまりあるいは 世界との関係におけるそのわが心のヱクトルのようなウゴキは―― エロスと言ってもそれほどマチガイではないように思われます。  言いたいことは たぶん 概念・イデアは わが《非思考の庭》はそれらを超えている。です。  知性や感性が 概念やイデアで《非思考の庭》を捉えるというよりは 非思考の庭のほうが 人間のふつうの生活および社会のことがらを捉える。(そのあと ふつうの世界観として 経験合理性にもとづく文章をのべなくてはいけませんが。つまり ヒラメキを解釈して定まった判断として明らかにせねばなりません)。  (3)  ★ 《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。  ☆ えっ? そんなに複雑ですか?  いえ 分かって言っているのでもなく 《ふるい人を脱ぎ あたらしい人を着る》 これだけだとも思っているのですが。  ★ その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。  ☆ いまの身と心 身体と精神 このような自然本性のヒトが すっかり《霊の身体》に成り替わる。霊の身体にも 身と心とがあるのだと思います。あたらしい自然本性としてよみがえるのだと思います。  そのとき復活・再生と言うのですから 《わたし》はそれぞれにおいて保たれる。こうも思います。  あたらしい天とあたらしい地とともに あたらしく成るのだと予感されます。  (4)  いまは 《予感》を持ったその上で 具体的に社会にあって何が出来るか。これを問い求めて行けばよい。人間観や存在論をさらにあたらしくし深めて行くこと。  そのように実際 誰もが生きているし 実践していると思います。  わづかに その《予感》の点でわたしのような風変り人間が出しゃばって 歴史の方向をああぢゃこうぢゃと言うという情況になっているのだと見ます。  (5)  ★ ~~~  そこで、一つ質問。  ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか?  ~~~~  ☆ わたしの答えは わからない です。もっと露骨に《知りません》と言いたいところです。  黙示というのは 啓示と同じことだという見方もあるようですが 必ずしも経験合理性において意味が通じるというものではない。と言うより ぜんぜん理解が出来ないか 定まらない。と思います。  ほんとうに《分からない》 これが答えなのですが?  ですから 復活については パウロに拠るべきだと考えます。  あるいは その人自身の独自のヒラメキによる解釈が これからは出されて来るのではないでしょうか。  肉の身体(身と心)があるなら 霊の身体(あたらしい身と心から成るあたらしい自然本性)もある。これだけで――この予感だけで―― いまは進んでもよいと考えます。  (6)  いちばん分かり易い考えを披露します。ずばり復活のことではないのですが それでも こうです。  いまふつう寿命は 百歳だと見るとすれば その点ではずばり再生が成るとするなら 平均寿命が二百歳になるということ。です。これも 復活の内に入るのではないかと思っています。  ズッコケますか?  それ以上は延びなくてもよい。二百年は 人間にとってもうすでに永遠です。不死です。  (7)  ★ ~~~  「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。  ここのところはどうなっているのでしょうか。  イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった?  ~~~~  ☆ エレミヤによるなら そのようにイエスの出現によって変わったとなると思います。  ★ そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう?  ☆ ここは 例の予定説にかんする扱い方を応用します。たとえ《永遠に〔恥ぢる〕》のだとしても それは 人間には分からない。誰がそうなるのかは 人間に知らされてはいない。無理である。こう言って 話を打ち切ります。  ★ これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。  ☆ そうですね。  おまえのカオスとノモスとエロスその他その他全部をひっくるめて 心の真実をのべよと言われれば    ○ 最後の審判は どうでもよい。  これです。聖書の記事を無視します。という意味です。  なぜなら 《永遠の現在》としての《非思考の庭》 これのわが動態を思うのみ。だからです。   たぶん最後の審判も このわが《永遠の今》にひっかかっていることでしょう。でも どうでもよい。心底から そう思います。

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その他の回答 (30)

noname#259625
noname#259625
回答No.10

No.9です。連投で行きます! >つまり 天使ではなく神の子である――しかも独り子である――とは どういうことか? ではないでしょうか。 ◎創世記22:2にはこうあります。「神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」 「独り子イサク」にご注目。しかし、アブラハムにはすでにイシュマエルというイサクと腹違いの兄がいました。もちろん、この時点でイシュマエルはその母ハガルと共に家を追い出されていました。さらに、その後、アブラハムは後妻を通してたくさんの子をもうけました。 このアブラハム(父)は神ご自身、そしてイサク(独り子)はイエス・キリストを予示していました。 ヨハネ第一4:8,9にはこうあります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。・・・神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。 ◎でも、なぜたくさんの天使たちがいるのに、イエスだけが「独り子」なのか? それは、イエスだけが神により最初に直接造られ、天地創造の際に用いられたからです。その後、イエスは神の指示のもとで天使たちも造りました。 コロサイ1:16にはこうあります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。 要するに、天使も人間もすべてはイエスを通して造られた、しかし、「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」ゆえに、このイエスは、神の特別な「(神による唯一直接創造の)独り子」なのです。 また、その関係は、男が女に胤を与え、女が子をはらんで出産するのと似ています。同じように、神はイエスに指示と権威を与え、イエスはそれに基づいて他のあらゆるものを創造したのです。 ◎それにしても、コロサイ1:15に「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とあり、明らかにイエスは神により造られた存在であることが確認できます。 御子が「生まれ(る)」以前、神はお独りでした。この方には始めもなく終わりもない「無限の存在者」です。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。啓示22:13。一方、御子イエスが途中から生まれたことは明らかで、全能の神とは違って限界がある「有限の存在者」です。 これらは、父と子が全く別々の存在者であることを裏付けてはいませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~  要するに、天使も人間もすべてはイエスを通して造られた、しかし、「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」ゆえに、このイエスは、神の特別な「(神による唯一直接創造の)独り子」なのです。  ~~~~~~  ☆ どこに  ★ 「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」  ☆ と書いてあるのですか?  子をつくるという表現は用いますが 《生む・生まれる》とは別の意味内容であるようです。つまり 天と地の創造などと同じ意味で《造る》と言っているようですから。どこに書いてありますか?  アブラハムとイサクとの関係を当てはめると言っても どこにその根拠があるのですか?  ★ ~~~~  ◎それにしても、コロサイ1:15に「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とあり、明らかにイエスは神により造られた存在であることが確認できます。  ~~~~~~  ☆ どうして《造る》と《生まれる》とを同じ意味だと思うのですか?  ★ 一方、御子イエスが途中から生まれたことは明らかで、全能の神とは違って限界がある「有限の存在者」です。  ☆ そう思うということでしょう?  《途中から生まれた》という問題と《有限の存在者》という問題。  どこにそう書いてありますか?  ▼ (ヨハネ福音1:1-2) ~~~~  はじめに ことばがあった。  ことばは かみと共にあった。  ことばは神であった。  ことばははじめに神とともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ちなみに 《肉となった》のですから その人間の貌としてのイエスなる人物 かれにはむろん限界があります。しかも同じイエスという存在について キリストという神の貌としては 父なる神とまた聖霊なる神とまったく同じ神であり 限界はありません。  神とは そういうものです。

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noname#259625
noname#259625
回答No.9

No.7です。 (結論)イエスは自分が神とは主張したことがない。仲介者イエスは神とは別人。天使たちはそれぞれ別々の人格を持っている。 >つまりこの件では 結論としてこうです。  イエスは 人間でも《神々の内の神》と呼ばれることはあるではないかと茶化した。むろん そうではなく ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。 なるほど。しかし、結局、イエスが自ら「私(イエス)は神だ」と主張した箇所は聖書のどこにもないということは事実だと思いますが。 >☆ 祭司は 人間です。イエスという人間の貌のことです。ところが イエスは 人間であると同時に《神の子でありみづからも神である》と言ったという意味です。神の貌をも兼ねているという意味です。何ら矛盾しないはずです。 イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。 また、イスラエル人に対して、モーセは預言者、神とイスラエル人との律法契約における仲介者でした。それと同じく、イエス・キリストもまた神と人との間を執り成す大祭司、また仲介者です。もし、神とイエスが同一人物なら、どのようにしてイエスは神に執り成しができるでしょうか。 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」テモテ第一2:5 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」ヘブライ9:15 それに、本来、罪ある人間は、聖なる神に近づくことが許されていません。近づくには犠牲よる贖罪が必要です。もし、イエスがその神の一つの側面(貌)であれば、イエスは罪ある人間の間で生活してきたのであり、罪人は聖なる神に近づけない、という概念と矛盾が生じます。しかし、やはり、イエスは神の側面(貌)の一つではなく、神から遣わされた預言者、救世主であり、神と人との仲介者、大祭司として執り成しをする方で、この点からも神とは別人だと言うことが証明できると思います。 それに、もし、神とイエスが同一人物であれば、死んだイエスを神が復活させることができたでしょうか。  >☆ おそらく天使たちも 神なる聖霊のなかにおさまるということですから ・・・ 天使たちも人間と同じく、様々な人格を持った存在です。ノアの時代に、一部の天使たちは女目当てに地上に降りてきました。彼らは神に反逆した堕落天使で、悪魔となりました。この例からも分かるように、天使たちの社会も人間の社会と同じく、個々様々な性格を持った別々の人格者たちから成っています。人間のAさん、Bさん、Cさん・・・、それぞれが全く別人であるのと同じく、聖書に出てくる、天使ミカエル、天使ガブリエル、また堕落天使である悪魔たち・・・、これらの霊者たちは、それぞれが全くの別人です。聖霊の一部というわけではありません。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  【Q‐1】 いちばんの決め手は 次の《父の独り子》だという指摘でしょうか?  ▼ (ヨハネによる福音書 1:14 ) わたしたちはその栄光を見た。それは ≫父の独り子≪ としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。  ☆ これだけでは イエスが《神の子》であるだけではなく 父や聖霊と同じ《神》であるとまでは言えませんが 《天使》ではないとははっきりしています。この点について確認を願います。  つまり 天使ではなく神の子である――しかも独り子である――とは どういうことか? ではないでしょうか。  補足として:  ★ 天使たちも人間と同じく、様々な人格を持った存在です。  ☆ その側面としての事情は いま関係ありません。イエスが神の子であり神であると書かれている(ヨハネ福音1:1)とき その《神》というのは 天使とのことだという反論があったからその筋でのみ天使のことを扱っているからです。天使がその数が複数であっていろんな天使がいるという話は 別としておくことが出来ます。  【Q‐2】 イエスはみづから自分は神の子であるだけではなく神であると言ったか?  ★ しかし、結局、イエスが自ら「私(イエス)は神だ」と主張した箇所は聖書のどこにもないということは事実だと思いますが。  ☆ けれども  ☆☆(No.7お礼欄) ~~~  ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ★★ (回答No.5) ~~~~~  ◎ 次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。  「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。  【Q‐3】 イエスは 父や聖霊と同じく神であるが 父と子と聖霊とは 位格として(ハタラキとして)はっきりと分かれています。  ★ ~~~~  イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。  ~~~~~~~  ☆ ここらへんは すべて《聖霊》の世界のもんだいです。しかも 三つの位格のそれぞれの違いにもかかわります。  たとえにおいて 子は 光源としての父から発耀として生まれますが 聖霊は父と子とから明るさや暖かさとして発出されます。むろんこれらは 経験事象としての光とは違って 時空間の無いところで――もしくは時空間があるとも無いとも人間には分からないところで――のことを言っていますから 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこには時間的なへだたりはありません。  あとは 子は経験世界に《肉(つまり身と心なる人)》となって送られたが 聖霊は そのまま霊として送られるのみという違いがあります。  だから 父と子と聖霊という――いわば物語として――説明しています。  補足‐1:  次の疑問も同じ事情にあります。  ★ イエス・キリストもまた神と人との間を執り成す大祭司、また仲介者です。もし、神とイエスが同一人物なら、どのようにしてイエスは神に執り成しができるでしょうか。  ☆ イエス・キリストは 神の独り子であり父なる神とひとしい。ただし 位格の違いがあってハタラキが違う。人間とのあいだの仲保者であるのは むろん 子なる神です。  補足‐2:  次も同じくです。  ★ それに、もし、神とイエスが同一人物であれば、死んだイエスを神が復活させることができたでしょうか。   補足‐3:  次のふたつのくだりは 《人間の貌》としてのイエスと《神の貌》としてのキリストとを述べています。同時にふたつの貌があります。  ▼ 「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。」テモテ第一2:5  ▼ 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。」ヘブライ9:15  【Q‐4】 人間イエスは 罪のない存在であるか?  ★ ~~~~~  それに、本来、罪ある人間は、聖なる神に近づくことが許されていません。近づくには犠牲よる贖罪が必要です。もし、イエスがその神の一つの側面(貌)であれば、イエスは罪ある人間の間で生活してきたのであり、罪人は聖なる神に近づけない、という概念と矛盾が生じます。しかし、やはり、イエスは神の側面(貌)の一つではなく、神から遣わされた預言者、救世主であり、神と人との仲介者、大祭司として執り成しをする方で、この点からも神とは別人だと言うことが証明できると思います。  ~~~~~~  ☆ 《神と人とのあいだで執り成しをする》には 《罪》がある人間であってもよいということでしょうか?  あったけれど 復活のあとに罪が消えたというようなことなのでしょうか?  これは それほど問題になるとは思わないのですが もしお望みなら 罪を犯さなかったその前のアダムとエワと同じく穢れなき自然本性としての存在であったとお考えください イエスについてです。  イエスの人間の貌としての人生は 言うなればどうでもよいと考えます。肉となるというそのコトじたいは はづせませんが そのあとどういう人生を送ったかは 二の次です。  神の貌として(つまりは 人間の貌とともに同時に神の貌として存在する者として) 何を言い何をおこなったか。これが 大事です。  こんなところでしょうか。

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回答No.8

イエスの成り済ましの有無は…!!!? http://www.atmarkit.co.jp/news/201210/01/ipa.html

bragelonne
質問者

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noname#259625
noname#259625
回答No.7

No.5です。聖書に関して深く考える機会となり、うれしく思っています。 (結論)子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者、神から造られた天使たちの長兄であり、神の初子というのが正確な理解です。 >☆ ヨハネ福音の冒頭は イエスの発言ではありませんが その聖書記者ヨハネによれば イエスを《神の子》として しかもみづからも《神》である存在として受け留めており そのとおりにしるしていることが知られます。 先回示した、ヨハネ10:34の「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。」。これはイエスが詩編を引用したものでした。その詩編82:6はこう書いてあります。「わたしは言う、「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。 」」(口語訳聖書) 尚、新共同訳聖書の場合は、「神」ではなく、「神々」となっていましたが。この詩編82:6で「神」と言われている者たちは、明らかに全能の神とは異なる者たちでした。もちろん、イエスでもあり得ません。ですから、聖書中で、「神」と言われているものがすべて、全能の神と同じであるとするのは早計です。 実際、例のヨハネ10:33では、ユダヤ人が「イエスが自分を神とした」と、まさしく今回のテーマと同じ主旨の非難をしているわけです。これに対して、イエスは、「(私は自分を神と主張したことはなく、)神の子であると主張したに過ぎず、それは冒涜でない」という主旨の答えをしているわけです。 ですから、ヨハネ1:3については、言葉は神(のような者[人間から見れば]、つまり天使のこと)であった、と見る方がより自然でしょう。 > さて 次のくだりについて 《神の子》であるだけかあるいは同時に《神》であるか判定するのは 微妙でしょうか?・・・ ◎「わたしは道であり、真理であり、命である。」について。 古代イスラエルの神殿では、祭司が奉仕していました。アダムの子孫は罪人ゆえに、贖罪なしで神に近づくことはできません。それを執り成すために犠牲を捧げるのが祭司の役目でした。同じように、イエスは大祭司として奉仕しており、そのことがヘブライ9:11,12にこうあります。 「しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。」 したがって、「罪人であるアダムの子孫である我々は、大祭司イエス・キリストの犠牲の血に基づく贖いによらなければ、正当に神に近づくことはできない」という意味において、「わたし(イエス)を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言い得たのです。 むしろ、古代の神殿において、神と大祭司とは別人であることは明らかです。ですから、全能の神と神の子イエス(大祭司)も全く別の人格者であると言えます。 ◎フィリポに答えた「わたしを見た者は、父を見たのだ」について。 ヘブライ1:3にはこうあります。「御子(イエス)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであ(る)」。つまり、神は父の素晴らしい特質を体得し、反映していたので、「私(イエス)を見た者は、父(神)を見たも同然である」ということを述べていたのです。イエス=神、つまり両者は同一人物という意味ではありません。 >みっつの位格(ペルソナ)について 個は各個とそれぞれひとしく 各個は全体と そして全体は各個とひとしい。これが イエス・キリストの指し示した神です。 三位一体の教理ですね。父と子と聖霊は各位が同格であり一体であるというものだと思います。要するに、神には時と場面に応じて別々の顔(側面)を示すということでしょうか?  しかし、子は父が生み出した者。結論から述べると、イエスは神の子ら、つまり天使たちの長兄であり、初めて神によって造られた天使でした。それゆえに、イエスは「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである」とコロサイ1:15で言われています。 そして、イエスは神の初子として、天地創造の業に携わりました。ですから、この宇宙は、神が設計し、そのための力を与え、イエスがその設計に基づいてすべてのものを造ったということができます。続くコロサイ1:16にはこうあります。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。 」 〇ですから、子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者、神から造られた天使たちの長兄であり、神の初子というのが正確な理解です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ですから、聖書中で、「神」と言われているものがすべて、全能の神と同じであるとするのは早計です。  ☆ そのとおりです。ヨハネ10:31-39 では 神(エローハ)ないし神々(エローヒーム)という言葉は同じなので イエスはわざと神の貌としての神ではなく――ほんとうはそうなのに そうではなく―― 人間の貌としての・タトエとしての《神》という言葉を持ち出して来て その言葉を自分に当てはめて使ってもいいではないかと ユダヤの人びとを煙に巻いただけのことです。   ▲ (詩編 82編 1節) ~~~~  【賛歌。アサフの詩。】  神(=エローヒーム:これは 神の貌そのもの)は神聖な会議の中に立ち  神々(=エローヒーム:人間の中で裁判をおこなう者たちのことを神々とたとえて言っている)の間で裁きを行われる。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この表現形式を持ち出して 無用な議論をしりぞけた。だけのことでしょう。  表現のかたちとしては 神の貌そのものとしての――つまりヤハヱーとしての――神は これも エローヒームという複数形で言われています。ただし その動詞の活用形が単数形(ニッツァブ he-standeth )であるので ヤハヱーのことだと分かります。 ちなみに 詩編82:6では 同じエローヒームという複数形が用いられていても 裁きをおこなう者が 《あなたたち アテム》と表わされていて それは人間たちだと分かり また《子どもたち ベニー》とやはり複数形で表わされています。  ▼ 「あなたがたは神だ、あなたがたは皆いと高き者の子だ。 」(口語訳聖書)  ☆ という翻訳が《子》のごとく 単数形であるにもかかわらずです。  つまりこの件では 結論としてこうです。  イエスは 人間でも《神々の内の神》と呼ばれることはあるではないかと茶化した。むろん そうではなく ほんとうの神の貌として自分が神の独り子でありみづからも神であると言っているのですから けっきょくうたがいは人びとのあいだで持ち続けられた。こういうことです。    *  ★(あらまし) イエスは自分を神と言ったのではなく 神の子だと言ったのみ。それは 天使であることを意味する。  ☆ これについては かんたんです。   ★ むしろ、古代の神殿において、神と大祭司とは別人であることは明らかです。ですから、全能の神と神の子イエス(大祭司)も全く別の人格者であると言えます。  ☆ 祭司は 人間です。イエスという人間の貌のことです。ところが イエスは 人間であると同時に《神の子でありみづからも神である》と言ったという意味です。神の貌をも兼ねているという意味です。何ら矛盾しないはずです。       *  ★ ~~~~~  ◎フィリポに答えた「わたしを見た者は、父を見たのだ」について。  ヘブライ1:3にはこうあります。  「御子(イエス)は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであ(る)」。  つまり、神は父の素晴らしい特質を体得し、反映していたので、「私(イエス)を見た者は、父(神)を見たも同然である」ということを述べていたのです。イエス=神、つまり両者は同一人物という意味ではありません。   ~~~~~~~  ☆ 《栄光の反映 / 本質の完全な現われ》は もし神の貌のことであるなら――あるのですから―― それは聖霊としてあり 一般に人間に分かるものではありません。十字架上の死とその後の復活のあと イエスは父のもとから父とともに人びとに聖霊を送った。そこでやっと人びとは 生前にイエスが《自分は神の子であり 父と同じ神である》と言っていたことに気づいたのです。人間の貌だけではなく神の貌をも現わしていたのだと。  《父の素晴らしい特質を体得し 反映していた》としても 生前には一向に弟子たちにさえ イエスがキリストであるということは分からなかった。そうはペテロも口にしていたのですが 分からなかった。その証拠に ペテロを筆頭にして 弟子たちすべては最後の土壇場でイエスを裏切った。ということであるはずです。  イエスは 人間の貌と神の貌とを現わしていた。けれども そう言葉で言われても誰ひとりとしてイエスの生前には 分からなかった。こういうことです。  ▲ 「わたしを見た者は、父を見たのだ」   ☆ そのとおりであると同時に その《父》であることは 誰にも分からなかった。聖霊が何であるかなど 誰にも分かりません。風は気ままに吹きます。     *  ★  結論から述べると、イエスは神の子ら、つまり天使たちの長兄であり、初めて神によって造られた天使でした。  ▲ (ヨハネによる福音書 1章) ~~~~  1: 1 初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。    1:14 ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは≫父の独り子≪としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように《独り子》となります。  《長子・長兄》とあるのは アブラハムを初めとする人間としての《神の子たち》(ヨハネ福音1:12)にとっての長兄となります。  ★ ですから、子は父から生まれた者。つまり、御子イエスは父なる神から生まれた者  ☆ むろん《子》というのですから 親から生まれたというかたちです。ところが 《神の貌》としては そのような《生まれる》という表現を用いたとしても そこに時間的な懸隔などはありえません。ただ人間の経験世界の言葉で仮りに表わしたものです。神は はじめから聖霊です。  天使の問題としては  ▼ (ヘブル書1:14) 天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。  ☆ おそらく天使たちも 神なる聖霊のなかにおさまるということですから そして神から《生まれた》という表現が似かよっているので 《神の独り子キリスト》との類似性が捉えられたのでしょう。アブラハムら人間としての《神の子たち》と同じように 天使たちにとっても キリスト・イエスは 長兄であると呼ばれることは それほどおかしなことではない。そういう事情にある。ということだと思われます。  どうでしょう?

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noname#174259
noname#174259
回答No.6

こんにちは 私より質問者さんや他の回答者さんのほうが詳しいように思いますが まず聖書そのものが正しいかどうかという点があります 1-聖書はイエス・キリストが書いたものではない 2-あとから付け加えられた文がある可能性がある 聖書学者によれば姦淫の女の話は、あとから付け加えられた可能性が高いと言う意見もあるようです。 3-削除された文がある可能性がある ニカイア公会議によって時の権力者によって都合の悪い部分が削除された可能性がある。 ☆また長い時間の中で文が変わったものもあるかもしれません たとえば 心の貧しい人は幸いですは、神の前において自らを低くする人は幸いですという方が正しいと書いてある本がありました。 日本語に正確に訳されてない物も多いようです またダライ・ラマとキリスト教(名前を忘れました)の人の対談では、極初期のキリスト教徒は輪廻転生を信じていたようですと言っていました。 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」 この会話から本人が罪をおかして盲人として生まれてくるとは、前世などを信じていなければおかしな内容になります。 なるべく正確なのは岩波書店の聖書だと書いてありました。 こういったことからどこまで正確に書いてあるかわからない聖書について論じても、その答え自体があまり意味のないもののような気がします。 ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~  イエスは言われた。   「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、   だれも父のもとに行くことができない。    あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに   なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 このことについては、他の箇所でイエスは自分は一人では何一つ出来ないと言っています。 神であるーまたは神と同等であるとするならば、自分では何一つ出来ないというのはおかしい気がします。 私を見たものは父を見たのだとは、何もイエスが自分は神だと言っているのではなく、今まで私がしてきた事を見てごらんーそこに父(神)は表されていると言いたかったのでは無いでしょうか? 盲人の目を開け、足の萎えた人を歩けるようにし、思い皮膚病の人を直し・・・ つまり神とは慈悲そして愛の心を持っているー神の子である自分の行動を通して、父(神)を知りなさいという事ではないでしょうか? イエスの行動の中に神を見なさいということだと思います。 >>(θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 何故こういった理論になるのか理解できません。 全ては聖書で予言されていたとおりに進んだのではないでしょうか? 死んだあとに復活して多くに人の前に現れました。 大嘘であるならば、イエスが死んだあとに復活したイエスを見た人はすべてウソつきということでしょうか? また多くの人が目撃した奇跡もその当時の人がすべて共謀してウソをついてまわったのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ねこさん0000さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ まず聖書そのものが正しいかどうかという点があります  ☆ この問題を取り上げるとするなら 同じ程度に問題となるのは 翻訳のそれです。  翻訳によって意味は変わってしまっているのではないかという問題です。  ここで質問の前提を述べますと それは単純でかんたんな内容になっています。  現状のもので考える。これです。  その現状のものが間違っていたら それはそのとき新たなただしいテクストで考える。です。  と言っても そうなると何が《ただしい》かは 分かったものではありません。  つまり 現状において所与のもので考える。こうなります。  もちろん 議論が分かれ争われている主題などについては その議論じたいを取り上げてもらってもかまわないことになります。それが 現状なのですから。  ★ なるべく正確なのは岩波書店の聖書だと書いてありました。  ☆ であれば その翻訳によって考え聖書記事を解釈した見解を明らかにするというのが この質問への回答になると考えます。ほかの翻訳の欠点をあばくというかたちでも それはそれとして 成り立つものと思います。  ★ ~~~~  「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」  この会話から本人が罪をおかして盲人として生まれてくるとは、前世などを信じていなければおかしな内容になります。  ~~~~~~  ☆ いや これは 前世とはかかわりなく 《神の栄光が表わされるため》という答えが 出され得るとは思いますが? 《生まれつき目が見えない》という時点からのことを問うわけです。  ★ ~~~~  このことについては、他の箇所でイエスは自分は一人では何一つ出来ないと言っています。  神であるーまたは神と同等であるとするならば、自分では何一つ出来ないというのはおかしい気がします。  ~~~~~~  ☆ この存在は 《イエスというふつうの人間であり それと同時にキリストと呼ばれる神の子でありみづからも神である》という存在です。  つねに 人間(または しもべ)の貌(かお)と神の貌とが 同時にあります。  つまりは 《自分では何ひとつ出来ない》というのは 人間の貌として言っています。一面を言っています。それだけだと見ますが どうでしょう?    ★ ~~~~  私を見たものは父を見たのだとは、何もイエスが自分は神だと言っているのではなく、今まで私がしてきた事を見てごらんーそこに父(神)は表されていると言いたかったのでは無いでしょうか?  ~~~~~~  ☆ 一方で確かに《わざを見てみなさい。それとして確かなわざを》ということも言っていましょうが いまは別の問題です。  すなわち いま上に触れた《神の貌》 これは じつは 無根拠です。ですからそれが何であるかワケの分からない《霊》という言葉で表わします。つまり 神の貌は 聖霊です。つねに聖霊のことを言っています。父も子も そして聖霊も 神として聖霊です。  つまり 人間イエスが おのれの内なる神の貌 すなわち 神の独り子としての存在をあなたがたが見たなら それは父を見たことになると言う。これは あくまでむろん 無根拠であり 聖霊の問題です。  (もっとも 十字架の死とその後の復活のあと 聖霊が送られて来て 人びとは そのこと――つまり神は 父も子も聖霊も 聖霊であるということ――がやっと分かった。ということだと見ます)。  次のご見解についても 上の《人間の貌 と 神の貌》という仕分けにおいて捉えるという問題があると見ます。  ★ イエスの行動の中に神を見なさいということだと思います。  ★ ~~~~  >>(θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。  何故こういった理論になるのか理解できません。  ~~~~~~  ☆ 《神の貌》は 無根拠であるからです。誰も聖霊を見た人はいません。それを 見たと言いますか その聖霊そのものであると言ったなら 経験合理性から見てそれは 大嘘だと認識されます。  合理的に考えれば 少なくとも《虚構》です。  死を死んだことは――息を引き取ったことは―― 事実という捉え方になりましょう。  ただし 復活したということは 大嘘です。つまり 神の貌のことを言おうとしているわけです。  どうでしょう?

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noname#259625
noname#259625
回答No.5

>(1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。 イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。 ◎これは、マタイ4章でイエスが悪魔に誘惑される場面。 「すると、誘惑する者(悪魔)が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 」 このように、敵対者の悪魔でさえも、イエスを神とは言わず、「神の子」と言いました。 ◎次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。 「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。 神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」 要約すると、ユダヤ人は、イエスが「自分を神とした」と非難。イエスは旧約聖書を引用し、「わたしは神の子である」と言ったことは冒涜か?と反論しています。つまり、ここでもイエスは「神」ではなく、「神の子」だと言っています。 ◎以上、他に箇所でも「イエスは神」ではなく、「イエスは神の子」とされており、イエスご自身は神のことを繰り返し、「父」と呼んでいます。これは、聖書を読めば分かることです。 ですから、イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。

bragelonne
質問者

お礼

 やんぐますくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~  ◎以上、他に箇所でも「イエスは神」ではなく、「イエスは神の子」とされており、イエスご自身は神のことを繰り返し、「父」と呼んでいます。これは、聖書を読めば分かることです。  ~~~~~~~~  ☆ というご見解だと受け取りました。  ★ イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。  ☆ ヨハネ福音の冒頭は イエスの発言ではありませんが その聖書記者ヨハネによれば イエスを《神の子》として しかもみづからも《神》である存在として受け留めており そのとおりにしるしていることが知られます。    ▲ (ヨハネによる福音書 1章) ~~~~  1: 1 初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。    1:14 ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。  ~~~~~~~~~  ★ このように、敵対者の悪魔でさえも、イエスを神とは言わず、「神の子」と言いました。  ☆ つまり《神の独り子》であると同時に みづからも《神》である。ということにはなりませんか?  つまり さらに論証されているところは   ★ ですから、イエス・キリストは自分が神とは一度も主張したことがありません。イエスは神の子、神から遣わされた預言者、救世主というのが正確な理解です。  ☆ ということのようです。  さて 次のくだりについて 《神の子》であるだけかあるいは同時に《神》であるか判定するのは 微妙でしょうか? たぶん《子の父》と《父の子》とは けっきょくともに同時に《神》であると言っていると読めると見るのですが どうでしょうか?  ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~  イエスは言われた。   「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、   だれも父のもとに行くことができない。    あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに   なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」  フィリポが   「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」  と言うと、イエスは言われた。   「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない   のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を   お示しください』と言うのか。    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない   のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな   い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う   のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな   さい。    はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、   また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから   である。    わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、   父は子によって栄光をお受けになる。    わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ   げよう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~  次の場合のイエスは すでに復活したすがたで現われて発言しています。  ▲ (ヨハネによる福音書 20:22 ) そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 ・・・  ☆ つまり この《聖霊》が神です。言いかえると 子の父も父の子も 神として 聖霊です。  イエスという人間であると同時に キリストと呼ばれるようになった神であるという存在。このとき神であるという貌(かお)は つねに聖霊です。つまり 人間には分かりません。おのおのその主観において霊感を得ることによってしか分かりません。  つまり 神も 聖霊も 無根拠ということです。  神の子も 無根拠であり聖霊であり 神です。  みっつの位格(ペルソナ)について 個は各個とそれぞれひとしく 各個は全体と そして全体は各個とひとしい。これが イエス・キリストの指し示した神です。  すでに――イエスの死と復活のあとでは―― 人びとは知る必要のない神であり(エレミヤ書31:31以降を参照) 言わば無根拠のことです。  でもそこに 核反応の炉があると言ったのだと思います。  読み込み過ぎですか? マチガイですか?

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回答No.4
bragelonne
質問者

お礼

 わたしにとっては どうでもよいお話です。あしからず。

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  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1677)
回答No.3

もともと、キリスト教というものは生前のイエスの振舞いと死後の彼の崇拝者による思想感によるものではないでしょうか。 その時代の背景には、根本に『ユダヤ教』があり、ローマ帝国という権力が存在していたのではないでしょうか。 イエス自身は、『キリスト教』を創設する事が目的ではなかったと思います。イエス自身もヨハネに影響され、権力に支配され、思想すらその影響を受け形骸化していく現実に我慢ならなかったのではないでしょうか。 そして、現状を良しとするパリサイ人の策略の前に、倒れていくのです。 ですから、イエス自身は「自分が預言者である」等とは思いもしないでしょうし、まして、『神』だなどとは考えていないでしょう。 イエス自身を神格化させたのは、崇拝者により「ヤハウェが救世主を送って、自分たちを救ってくれる」といった希望が作り出したのではないでしょうか。イエス自身は何もユダヤ教を否定したのではなく、本来の純粋なユダヤ教を取り戻す事を信念としていたのではないでしょうか。 ※西洋哲学に造詣のある質問者様は、既に回答をつかんでいらっしゃるとは思います。その上で、キリスト教だけではなく、ユダヤ教・あるいは当時のエルサレムの置かれている状況を照らし合わせて研鑽されると、キリスト教が何であるかより鮮明になるのではないでしょうか。 ご存知のように、私は法華経以外での知識はあまりありません。西洋哲学となると、詳細を回答する知識は持ち合わせておりません。是非、質問者様の研鑽により、西洋哲学からの“真理”を開示していただきたいと考えます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  歴史事実やその展開については どう言いますか 残念ながら ここではあまり関心がありません。これが 正直なところです。    ○ けっきょくイエスは 何を言ったのか?  ここに集中しています。どうでしょう?  むろん 触れていただいた事柄についてどうでもよいということではありませんが それによりますと けっきょく  ★ イエス自身は何もユダヤ教を否定したのではなく、本来の純粋なユダヤ教を取り戻す事を信念としていたのではないでしょうか。  ☆ と結論づけておられましょうか?    もしそれだと どうでしょう 《本来の純粋な》かどうかを少し別とするでしょうが だとしたら けっきょく  ★ パリサイ人の策略の前に、倒れていくのです。  ☆ というごとく パリサイ派がその時から主流となるようですから イエスはむしろ大きくはこのパリサイ派と同じ流れの中にあったということなのでしょうか?   中で次のご指摘には 異をとなえざるを得ないと思うのですが どうでしょう?  イエスは みづから自分はヤハヱーなる神の子であり 父の子は 子の父と一体であるとも言っているのではありませんか?   ▼ (マタイによる福音 16:20) ~~~  それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。     * 16:16 ペトロの言葉として《生ける神の子》があり イエスは それを《わたしの天の父が表わした》と答えている。  ▼ (ヨハネによる福音4:25-26) ~~~  〔* サマリアの〕女が言った。   「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。   その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」  イエスは言われた。   「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」  ▼ (ヨハネによる福音書 14:6-14) ~~~~  イエスは言われた。   「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、   だれも父のもとに行くことができない。    あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることに   なる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」  フィリポが   「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」  と言うと、イエスは言われた。   「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていない   のか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を   お示しください』と言うのか。    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じない   のか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではな   い。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。    わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言う   のを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じな   さい。    はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、   また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くから   である。    わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、   父は子によって栄光をお受けになる。    わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあ   げよう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これらも  ★ イエス自身を神格化させたのは、崇拝者により「ヤハウェが救世主を送って、自分たちを救ってくれる」といった希望が作り出したのではないでしょうか。  ☆ というごとくみな 聖書記者のでっち上げだというご見解でしょうか? それはそれでひとつの立ち場を形作るかと思いますが そうしますと すべては聖書やイエスを解釈する人の主観によるという情況が 文字通り 通用するというかたちになります。   すなわち言いかえるなら いまイエスはそのように何もしなかった。ただユダヤの正統派を唱え続けただけであり それはパリサイ派のウゴキにすでにかき消されたという解釈も通用するし あるいはいま趣旨説明に述べたような《イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。そしてそれによってでも 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた》という解釈も それとして成り立つと言ったことになると思われます。  みんなそれぞれ勝手にやってくれと言ったことになると思われます。  と取り敢えず こんなお応えが成り立つように考えます。さて どうでしょう?

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回答No.2

教祖達の自敬の典型…!? http://www.falcom.co.jp/ysc_psvita/

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  何が  ★ 教祖達の自敬の典型  ☆ なのですか?  それと 《自敬》の要素がもしあるとすれば それでもそのことは あくまで大きな《虚構》の中におさめられていることでしょうから その《物語》のほうに着目して問いに答えていただくとさいわいです。

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回答No.1

後世の信者達が勝手に追加した内容であって、 日本の帝とは違います。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93
bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ただしその内容は あいまいだと感じます。  ★ 後世の信者達が勝手に追加した内容  ☆ というのは 何を指していましょうか?  1. 《イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた》ということか?  2. ぎゃくに《けっして大嘘をついたのではなく 聖書の表現するとおりのこと》が なのか?  3. 参照サイトに言う《神は 三位一体である》という説が なのか?  けれども  ★ 勝手に追加する  ☆ も何も それぞれそのように解釈しているというのみなのですが そうするとその解釈することはよいとしても その内容が  ★ 日本の帝とは違います。  ☆ ということに問題がある。こういう回答内容でしょうか?  そんなことは もとより自明ではありませんか?  それとも 《日本の帝とは違う》なら それはすべてマチガイであり捨て去るべきものだとでも言うのでしょうか?  仮りにそうだとして なぜ?  きわめてあいまいな ただの落書きであると見て 補足要求します。

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     (1) イエスなる人間は 自分が神であると大嘘をついた。  (2) その虚構は 人類史上最大の哲学となった。  (3) 神であり同時に人である人間が 十字架上にはりつけとなった。  (4) ゆえにイエスは 人びとに光を見させた。  (5) 光を見させただけではなく みづからが光であることを示した。  (6) いやいや それだけにとどまらずさらには 人びとにおのおのみづからの心の燈心に火がともるようにさせた。  (7) この虚構のからくりは 次のようである。   (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその見させる光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。経験事象としての光やそれを本質的に見させる光――おおむね 理性ないし精神――であるだけで終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあてこれを照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その聖霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。    この哲学を問います。よろしくどうぞ。  そうして この質問はいちど問うています。それでもなお問いたいというそのわけは こうです。     (κ) もし虚構ではなく まさしく歴史事実であるとした場合 あるいはその史実を捉えた人間の心の真実であるとした場合 そうだとすると いづれの場合でもその事実認識や心の真実として イエス・キリストというコトが 人間の思考によって規定されてしまわないか? 神は 人間の思考によって捉えられうるか? 経験合理性の知識体系の中におさまるものであるのか?   という問いをつけ加えたいからです。よろしくどうぞ。    

  • イエスの大嘘

     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。  宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • イエスのついた大嘘

     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。   宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • 《人間イエスは神キリストなり》なるドグマについて

     1. 《ナザレのひとイエスは そのように人間であると同時に キリストと呼ばれる神の子でありかつみづからも神である》という物語――つまり 命題としては論証し得ないドグマ――について問います。  2. 前提事項として 次を確認します。たとえばこのイエス・キリストが《真理である神を指し示した》というときそれは    (あ) 神はじんるいにとって全体としてひとつであり 名は違っても同じ《非経験の場》と想定されるナゾの何ものかであるということを語った。   (い) すなわちおよそ神ならば どんな名のそれであっても 互いに分け隔てはないということ。   (う) 真理である神は 経験世界を超えており このナゾを人間がその能力と努力によって知解することは不可能である。   (え) 言いかえると 《考えるや感じる》世界を超えており それはただその神の名を心に受け容れるということをとおして抱くことになりそう成った心の動態としての信仰をとおしてのみ いわば人間がかかわることのできる存在(または 非存在)である。そのようなわが心なる《非思考の庭》が 信仰である。   (お) この信仰からヒラメキなどの直感をとおして得た思いや考え これを思想として表現することがあり得る。これは オシエであり それをすでに集団化した者たちの教義とするなら そこに《宗教》が現われる。――この組織宗教は 個人の信仰の言わば蝉の抜け殻である。   (か) こういったことを語ったと思われる。――この前提事項をもむろんご批判ください。  3. さて問題は 次です。   (き) 《人間イエスは 神キリストである》は 思想としてはいわゆるアラヒトガミのことです。   (く) ただしイエスのばあいは 神そのものが《想定》に成るものですから キリストと呼ばれるようになったことも物語であり 命題としてはドグマです。――このことは 日本における現人神が どう捉えられているか・つまりドグマなのかどうかが分からないので ひとこと触れておくという意味にもなります。   (け) 日本人のあいだのいわゆる自然宗教――つまり実際にはその集団的宗教の問題ではなく 個人一人ひとりが自然にいだくに到っているそれとしての信仰のことです。つまり これは たとえば《もののあはれを知る》といったかたちで説明されます――をもって   もういちど繰り返すなら 個人の自然にいだくおのおの自由な信仰をもって 一般に欧米のクリスチアニズムに相い対するという交通のかたちで 要は足りるか? これがひとつの問いです。   (こ) むろんこのいま言った自然信仰は じっさいに生活に生きているその動態です。ですから 経済的・政治的また文化的な活動をとおして クリスチャンたちと相い向かい対話を展開するわけですが そのとき 信仰じたいの説明はどうなっているか? という問いが向けられたときには どうするか。こういう背景です。   (さ) そのときの対話交通においては わたしたちは クリスチャン側の《イエス・キリストなるドグマ》については 話の前提としてみとめた上でということになるのではないか? それとも ドグマなのだから 認めないという判断をすでに持ってのぞむのか?   (し) なぜドグマであっても 話の前提としてみとめるほうがよいと考えるか? これは 項目を次にあらためます。  4. 話を 《闇の中にいつづけていたひとが 光を知るにはどうしたらよいか》という問いから入るかたちとします。   (す) ひとつに衆生縁の慈悲があります。人びとの思いやりです。これをとおして 光を知る入口にまでみちびかれると思います。   (せ) ひとつに科学のチカラがあります。ものごとの世界の普遍的な認識としての知性的なチカラです。目の治療を例にとっても 光が見出され得ます。   (そ) 次には 《みづからがさささやかな光となることは出来るか。成るにはどうしたらよいか》という切り口ですが ひとつには 《ひとには 神の霊がやどる》という想定を持つことです。   (た) これは 必ずしも勝手なドグマではなく 神をナゾの何ものかとして想定したとき ほとんどそのことに付随していることだとも考えられます。   (ち) その《神の霊》は ブッダター(仏性)ともアートマンともルーアハともプシュケーやプネウマともアニマやスピリトゥスとも たましいとも言われます。〔これは (あ)(い)の前提事項です〕。   (つ) 問題はここからです。《みづからが光となる》のは その心にやどるブッダターによって人間みづからがその努力(ハカラヒ)によって成すのか?    (て) 言いかえると 《人間が人間であると同時に神である》というまぼろしの想定は 要るか要らないかです。要るというのは 人間がみづからのチカラによっては 心の燈心をともすことは出来ないという人間の限界をみる見方です。   (と) 思いやりなる光のようなものは 人間がその知性などのチカラで持ち得ます。ところが 心の燈心に火をともすことは 人間に出来るか? という問いです。(言わば永遠の火ですね。ロシアでは聖火が消えたそうですが)。   (な) 出来ないという見方に立つなら キリスト神話のドグマを話の前提としてみとめて 欧米人と話をしなければならない。と考えられます。   (に) 果たしてそうかという問いからご見解をもとめます。   (ぬ) 質問者は そうである(ドグマを認めざるを得ない)という見方に立っています。人間だと限界を見てしまうことがある。からという理由です。

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?