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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:イエスという人間は 自分が神であると大嘘をついた。)

イエスは自分が神であると大嘘をついた?

このQ&Aのポイント
  • イエスなる人間は自分が神であると大嘘をついた。
  • その虚構は人類史上最大の哲学となった。
  • 神であり人である人間が十字架上にはりつけとなった。

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回答No.31

こんにちはです。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  口幅ったい言い分になりますが ねむりねこさんのご見解は なお前史のにおいがいたします。どでげす? ~~~~~~ わたしの聖書や仏典の読み方は、自由主義神学的な立場なものなので。だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。 性分ですから、これはしょーがない。 前史、プレヒストリーですわな~。キリスト教型グノーシスの域を脱していない。 《蛇》、大好きなんです。ミルトンのサタン、大好きなんです。失楽園のサタンの中に人間を見てしまう。。。。 たぶん、悪鬼・悪霊の頭ベルゼバブのファミリーなんですよ、眠り猫は(笑い) ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  後史に入りかけている。つまり 二千年――ないし 神にとっては千年が一日なら 二日――ののち そろそろ というところではないのでしょうか? ~~~~~~ さぁ~。アガペーとエロスなんて言っている間は、まだまだなんじゃないですか。 でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。 何かの本で読んだ記憶があるのですけれども、違うのかな~。 ☆☆☆☆☆☆ ~~~~~~  できれば経典の原文を添えて説明があることがのぞましいと思います。 ~~~~~~ これは、わたし独自の考えです。ブディストは、こんなことを絶対に言っていない、と思います。ただ、復活と再生(再び生まれる、再び生きる)の宗教的意味を抜きにして、現象として復活を再生ととらえれば、こうした考え方もできるということを披露したまでです。ひとつ理屈をコネてみせた。 わたし自身、これがどんなに無茶なものであるか、よく知っています。また、キリスト教の《復活》と仏教などの《再生》を同一視するつもりは毛頭ありません。 しかし《復活》という概念は明らかに《再生》という概念に含まれますよね、包含される。《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。 そこで、一つ質問。 ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか? ダニエル書では 「また地の下に眠りをる者の中 衆多くの者 目を醒まさん  その中に永生に生を得るあり  また恥辱を蒙りて限りなく恥じる者あるべし」 ダニエル書 12ー2 とあります。 「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。 ここのところはどうなっているのでしょうか。 イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった? そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう? これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。

bragelonne
質問者

お礼

 話はさらにやはり佳境に入ってまいりました。(この時間 ちょっと昼寝をしていました)。  ご回答をありがとうございます。  (1)  ★ だからと言ってイエスの復活を否定するつもりはありませんけれど、人間の肉体を持ったイエスの復活はどーしても素直に受け容れることができない。新約聖書でイエスのなした奇蹟を、そんなことある分けねぇだろうと、寓意としてしか読むことができない。  ☆ まったく同じ文章で同じことを わたくしも言います。そう思っています。  そしてただしその思いを突き抜ける志向性の起こることをも感じています。  そのふつうの思いだけで終えるなという心の明けを感じます。  それだけです。そういうあやういつり橋をわたっています。  それも 人間の思想の一端をになうことがありうると思ってのことです。  (2)  ★ でも、アガペーとエロスの二極構造で愛をとらえるという解釈、キリスト教にありませんでしたっけ。それが今回の着想のヒントだったのですけれども。  ☆ もしアガペーを感じるかと言われれば それは たとえばいまさっき述べたように 何だか知らない心の伸びが どこかに感じられるといったこと それなのかなぁというところです。    たぶんこの志向性は――つまりあるいは 世界との関係におけるそのわが心のヱクトルのようなウゴキは―― エロスと言ってもそれほどマチガイではないように思われます。  言いたいことは たぶん 概念・イデアは わが《非思考の庭》はそれらを超えている。です。  知性や感性が 概念やイデアで《非思考の庭》を捉えるというよりは 非思考の庭のほうが 人間のふつうの生活および社会のことがらを捉える。(そのあと ふつうの世界観として 経験合理性にもとづく文章をのべなくてはいけませんが。つまり ヒラメキを解釈して定まった判断として明らかにせねばなりません)。  (3)  ★ 《復活》は《再生》の特殊な形態にすぎないのもまた事実。  ☆ えっ? そんなに複雑ですか?  いえ 分かって言っているのでもなく 《ふるい人を脱ぎ あたらしい人を着る》 これだけだとも思っているのですが。  ★ その違いを明確にした上でなら、キリスト者とブディストはお互いに歩みより、話しあえる余地は十分にあると思っています。また、お互いをよく知る上で、そして、信仰を深める上で、論じ合うべきと考えています。  ☆ いまの身と心 身体と精神 このような自然本性のヒトが すっかり《霊の身体》に成り替わる。霊の身体にも 身と心とがあるのだと思います。あたらしい自然本性としてよみがえるのだと思います。  そのとき復活・再生と言うのですから 《わたし》はそれぞれにおいて保たれる。こうも思います。  あたらしい天とあたらしい地とともに あたらしく成るのだと予感されます。  (4)  いまは 《予感》を持ったその上で 具体的に社会にあって何が出来るか。これを問い求めて行けばよい。人間観や存在論をさらにあたらしくし深めて行くこと。  そのように実際 誰もが生きているし 実践していると思います。  わづかに その《予感》の点でわたしのような風変り人間が出しゃばって 歴史の方向をああぢゃこうぢゃと言うという情況になっているのだと見ます。  (5)  ★ ~~~  そこで、一つ質問。  ダニエル書の復活とヨハネの黙示録の復活とは、同じものなのでしょうか?  ~~~~  ☆ わたしの答えは わからない です。もっと露骨に《知りません》と言いたいところです。  黙示というのは 啓示と同じことだという見方もあるようですが 必ずしも経験合理性において意味が通じるというものではない。と言うより ぜんぜん理解が出来ないか 定まらない。と思います。  ほんとうに《分からない》 これが答えなのですが?  ですから 復活については パウロに拠るべきだと考えます。  あるいは その人自身の独自のヒラメキによる解釈が これからは出されて来るのではないでしょうか。  肉の身体(身と心)があるなら 霊の身体(あたらしい身と心から成るあたらしい自然本性)もある。これだけで――この予感だけで―― いまは進んでもよいと考えます。  (6)  いちばん分かり易い考えを披露します。ずばり復活のことではないのですが それでも こうです。  いまふつう寿命は 百歳だと見るとすれば その点ではずばり再生が成るとするなら 平均寿命が二百歳になるということ。です。これも 復活の内に入るのではないかと思っています。  ズッコケますか?  それ以上は延びなくてもよい。二百年は 人間にとってもうすでに永遠です。不死です。  (7)  ★ ~~~  「衆多く」で「すべて」とはなっていない。つまり、目を醒まさない者がいると読みかえることができる。  ここのところはどうなっているのでしょうか。  イエスの出現によって「衆多く」が「すべて」に変わった?  ~~~~  ☆ エレミヤによるなら そのようにイエスの出現によって変わったとなると思います。  ★ そして、「限りなく」は「永遠に」、「絶えることなく・いつも」、「非常に」の意味どっちなんでしょう。ここは、どうなっているんでしょう?  ☆ ここは 例の予定説にかんする扱い方を応用します。たとえ《永遠に〔恥ぢる〕》のだとしても それは 人間には分からない。誰がそうなるのかは 人間に知らされてはいない。無理である。こう言って 話を打ち切ります。  ★ これによって、復活後の最後の審判の意味が変わってくると思うので、ヨロシクです。  ☆ そうですね。  おまえのカオスとノモスとエロスその他その他全部をひっくるめて 心の真実をのべよと言われれば    ○ 最後の審判は どうでもよい。  これです。聖書の記事を無視します。という意味です。  なぜなら 《永遠の現在》としての《非思考の庭》 これのわが動態を思うのみ。だからです。   たぶん最後の審判も このわが《永遠の今》にひっかかっていることでしょう。でも どうでもよい。心底から そう思います。

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その他の回答 (30)

noname#259625
noname#259625
回答No.20

No.18です。 イエスの受難の意義など、その他の論題については、別途回答します。 >☆ もしこれだと エレミヤ預言とは矛盾します。・・・ (結論)「罪はない、罪はなくなった」という考えは聖書の教えではない。      神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。 ヘブライ人への手紙の文脈を是非追っていってみてください。12:1には結論として、こうあります。 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、」 使徒たちも依然として「罪」と闘っていました。それは使徒パウロもそうでした。 「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ローマ7:14-25 ですから、キリストの贖罪によって、罪人が神に近づくことができるようにはなりましたが、その贖罪によって完全な人間、罪のない人間になったのではありません。例えれば、贖罪によってようやく「神の学校」に入学できるようになった、という状態、しかし、まだ卒業は先である、ということです。完全な人間になるには、神からの訓練、再教育が必要なのです。 「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。 ・・・およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 」ヘブライ11:4-11 このように、使徒たちもまた、それ以降の多くのクリスチャンも、「罪はない」とか「贖罪によって罪はなくなった」とは考えてきませんでした。そのような見解は聖書の教えに基づくものではありません。 エレミヤ31章で預言されているような、完全で罪のない状態は、贖罪だけで、自動的に得られるものではありません。むしろ、神からの訓練に応じ、忍耐し、その過程を全うした者だけが報いとして得られるものです。 では、エレミヤ31章はいつ成就するのでしょうか? その点は、啓示20章に示されています。その前の19:11-21はハルマゲドンの様子を示しています。そしてその後、20:1-3によると、悪魔が千年のあいだ縛られます。さらに、20:4-6によると、殉教したものの復活させられた選ばれたクリスチャンがキリストと共に千年間支配するとあります。これを「千年王国」とか「千年統治」と言います。その後、20:7-10によると、悪魔が再び解き放たれます。 要するに、今後、人類の世がハルマゲドンで裁かれた後、キリストの千年統治が始まり、その期間中に過去に死んでいった人々は復活させられ、再教育を受けます。そして、千年後、悪魔が解き放たれる時に、人類は最終試験を受けることになり、それを通過した者のみが完全な神の子として、永遠の命を受け継ぐことになるのです。その時、エレミヤ31章は「完全に」成就するでしょう。しかし、その「道筋」は使徒たちの時代に「開かれた」のであり、それに向けて奮闘するべきことを、使徒パウロはヘブライ8章で力説していたのです。 このように、簡単に、概略だけ述べましたが、神の再教育に関するご計画ははっきりと聖書に示されています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1) 罪の問題  ★ ~~~~   (結論)「罪はない、罪はなくなった」という考えは聖書の教えではない。      神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。  ~~~~~  ☆ 論点をきちんと把握しましょう。  ★ 「罪はない、罪はなくなった」という考えは  ☆ どこにも言っていません。神は 人びとの罪について もう覚えることはないと言ったと言っています。罪が無くなったとはひとことも言っていません。  ただしそのとき  ★ 神からの再教育を受け、それを全うした者のみが、完全になれる。  ☆ というふうにも エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)は 言っていません。  (2) 引きつづき 罪の有る無し  ★ 〔* ヘブル書12:1に関連して〕 使徒たちも依然として「罪」と闘っていました。それは使徒パウロもそうでした。  ☆ 罪が無くなるとは言っていないからには それはあり 現実にそれをどう扱うか このことも起こりうることでしょう。  ただし そのことと すでにすべての人にとって和解が成りましたよと 神が言っていることとは 矛盾することなく両立します。イエスのあとの歴史においてのことです。  (3) 罪との葛藤の問題  ★ ~~~~~   ▼ (ローマ7:14-25)「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」ローマ7:14-25  ~~~~~~~~  ☆ ですが このときパウロは さらにどう言っていますか?  ▼ (ローマ書7:24-25) ~~~~~   わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。  わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ▼ (7:25) わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。  ☆ と書いてあるではありませんか。すでに キリスト・イエスの登場のあととしてパウロは これを書いています。すなわち――分かりやすく言えば 理論じょうは―― エレミヤの預言が成就した。こう言っているわけです。  (4) 《罪のない人間》  ☆ これに・つまりこのむしろ概念としてのことばあるいはイデアとしての観念に こだわっているのは そちらのほうです。  たしかにパウロも 自分と同じように《完全な人間になりなさい》と言っているところもありますが もう一方では《わたしがすでに完全であるという意味ではない》ともことわっています。それは 総じて言って表現の問題です。また 人間が生身のすがたで 完全な存在になるなどとは考えられていない。この前提は 分かり切ったことです。  それなのに わざわざ  ★ ですから、キリストの贖罪によって、罪人が神に近づくことができるようにはなりましたが、その贖罪によって完全な人間、罪のない人間になったのではありません。  ☆ というような発想をすること これが エレミヤ預言に違(たが)うことになりましょう。根本的にマチガイです。預言の内容は受け取らないわ 人間が完全ではないという前提をわざわざ持ち出して来るわで 話をすすめようとしていない。こういう意味で マチガイです。  (5) 重ねて罪の問題  ★ エレミヤ31章で預言されているような、完全で罪のない状態は  ☆ この認識が間違っています。勘違いでしょう。人間を何だと思っているのですか? 何で《完全で罪のない状態》などということを論点とするのですか? アダムとエワの昔から 自由意志はあやまちうると分かっています。あやまつなら われ有りとさえ 居直ります われわれ人間は。それは ゆるされているという意味です。    もともとそうでしたが 創世記にアダムとエワの話としてヘビのことに触れたからには その筋の結末をもイエスのときにはっきりさせた。つまり いわゆる原罪は――個々の罪とはちがって―― イエスのときにチャラになった。こういう意味です。  (モーセのときに 青銅のヘビの話があります。挙げられるということの類似として 十字架にはりつけにされたイエスが このモーセのエピソードにおけるヘビの退治に相当するようです)。  (6) エレミヤ預言  ★ では、エレミヤ31章はいつ成就するのでしょうか? その点は、啓示20章に示されています。  ☆ 千年王国とそのあと悪魔が解き放たれるとのこと。では 現代・現在は どういう位置にあるか? ここまで示すべきでしょう。  けれども エレミヤは 《あたらしい契約》と言ってもいます。このことについては どう説明しますか? ヨハネ黙示録に出ていますか?  そういう問題がなお残ります。

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回答No.19

下記のページの通りの技術さえをも備えていないのに、 イエス達は庶民から『尊崇』されていたのですね。 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121005-00000013-mai-soci http://thinkit.co.jp/article/120/4/

bragelonne
質問者

お礼

 尊崇は どうでもよいことです。  もしくは どのようにかが問題です。  けれども イエスの生前には そのどのようにかをただしく知っていた人間は ひとりもいません。  そういう問題について問うています。

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noname#259625
noname#259625
回答No.18

No.16です。 > それとも 捕縛されるのも 処刑されるのも そのこと自体が 父なる神の意志であって そのユダヤ人にとっての犯罪行為というその中身は どうでもよかったという解釈ですか?   イエスならこう言うでしょう。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 ルカ24:25,26 さらに、使徒ペテロならこう言うでしょう。「ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、この/ようにして実現なさったのです。」使徒3:17,18 具体的に、メシアが苦しみを受けることになることに関する預言として、例えば、イザヤ53章などがあります。 >そうでなければ それは 神ではありません。 「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。 もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?   >もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。 使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10 >エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。 これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。ヨハネ第一の手紙は、キリストの昇天の後、数十年後に書かれたわけですが、キリストの贖罪後も、依然として、人間は罪人のままでした。それは現代も同じです。ただ、キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。 それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。「神と和解してください」。コリント第二5:20

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1) イエスの受難  ということは――ご回答内容の引用を端折りますが―― 受難だけが神の計画にあったという意味でしょうか?  その受難の原因や理由については 問わない。こういうことでしょうか?    と言っても すでに前回にこの問いは述べています。  つまり 一向に問いに答えておられない。このことを意味します。  どうですか?  (2) 同じくイエスの受難  理由がどうでもよいというのならば たとえ冤罪であっても死刑にまでされれば――木(十字架)に懸けられる者は呪われているというように―― 失態なのです。  それでよろしいか? んなわけはないと知るべきです。  (3) 《神》とは何か? あるいは むしろ何でないか?  ★ ~~~~   >そうでなければ それは 神ではありません。  「イエスは神」という前提でbragelonneさんの論理は展開し、その結論として「イエスはやはり神である」としているかと。さもなければ、上の一節は出てこないでしょう。  ~~~~~  ☆ これは 子なる神として《父から生まれた》と説明されることについて明らかにしているところです。  むろんすでに三位一体説にもとづいて説明しています。  ただし 《イエスは自分が神であると言った》という命題を直接に証明しようとするのではなく もし神であるならば その中身は――少なくとも想定において――どうであるか? これを互いに共通の了解のもとに置こうというためのものです。  (4) つづき  イエスが(またはキリストが)父から生まれたことと 天使が神によって造られたこととは はっきりと別のことである。その意味は 神であることの内容と 神ではないことの内容とが どう違うか。このことを明らかにしたものです。  天使を造ることに 《ことば》としての子なる神は与かっているのですから そこにおのづから上の区別は明らかであるとしめして――最後には――《イエスが自分を神だと言った》ことの証明にみちびこうとはしています。  すなわち《生まれた》と《造られた》との表現上の異同にかんしてははっきりしないとしても やはり《ことばがはじめにあった》こととそのあと《万物がつくられた》こととには はっきりした違いがあるということです。それなのにこの《ことば》も あなたは天使だと言っているわけです。明らかな矛盾ですよという意味ですが それは 受け容れられないとの表明を 何の根拠も反論もなく 別の話を持ち出して来てそらそうとすることにおいておこなっている。このことが見て取れます。受け容れられない理由が あきらかではありません。  (5) では 神の内 子なる神とは何か?  ★ ~~~~~  もし、「経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません」なら、その「御子が生まれた」とはどんな意味があったのでしょうか? まっすぐに、それ以前には御子は存在していなかった、ととらえてはならない根拠がありますか?  ~~~~~~~  ☆ 今回で意味のある文章は ここくらいです。つまり これ以外は すでに問い終えていることについてただほかのことを持ち出して来て話をそらそうとしている文章だという意味です。  (6) つづき    さて けれどもこの問いにもすでに答えています。  ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~   【Q‐3】 イエスは 父や聖霊と同じく神であるが 父と子と聖霊とは 位格として(ハタラキとして)はっきりと分かれています。   ★ ~~~~~~~~   イエスは人間としてではなく、復活して(霊者、天使となって)から天に戻り、それから、神の王座のあるところ(至聖所によって予示されている)に大祭司として入りました。全能の神と、霊者として復活した大祭司イエス・キリストは別人であり、大祭司イエスは執り成しのための犠牲の血を神に捧げることができました。   ~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ここらへんは すべて《聖霊》の世界のもんだいです。しかも 三つの位格のそれぞれの違いにもかかわります。   たとえにおいて 子は 光源としての父から発耀として生まれますが 聖霊は父と子とから明るさや暖かさとして発出されます。むろんこれらは 経験事象としての光とは違って 時空間の無いところで――もしくは時空間があるとも無いとも人間には分からないところで――のことを言っていますから 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこには時間的なへだたりはありません。   あとは 子は経験世界に《肉(つまり身と心なる人)》となって送られたが 聖霊は そのまま霊として送られるのみという違いがあります。   だから 父と子と聖霊という――いわば物語として――説明しています。  ~~~~~~~~~~~~  (7) さらにつづき  子なる神は 肉となって送られた。聖霊なる神は 父と子とからその霊のまま送られる。この違いを表わすために わざわざ三位一体の説明を持つようになった。子と聖霊との違いを見るためには 忘れてならないのは 父が存在するということです。それが 三つの位格が一体だという意味になります。  そうして このことは すでに初めから述べて来たように 《はじめにことばがあった》ことと《そのあと万物が造られた》こととは はっきりと一線を画するということに明確です。あるいは そのようなかたちで明確だと捉えるとよいという意味です。  (8) へび=悪魔または原罪のこと  ★ ~~~~   >もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。  使徒ヨハネならこう言うでしょう。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。・・・罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。」ヨハネ第一1:8,10  ~~~~~~~  ☆ だから エレミヤ書31:31(=ヘブル書8章)の記事は どう見たのですか? というひとことを問えば おしまいです。  罪をおぼえることはないと神が言っています。また もう神の名を知れと言って人びとにおしえることもないと神が言っていると。  あとは 人間の経験世界における言語慣習として《罪》なら罪ということばが用いられている。ということのみです。それだけのことです。  ことばに応じたそれとしての(うつろいゆく経験事象としての)内実も人びとの心にあるし起こっているのでしょう。そしてそれだけのことです。  もしエレミヤと上のヨハネとで 神のことばの内容が違っているとしたら それを考えるのは あなたです。それをないがしろにして どうして議論をまともにおこなっていると言えましょう。  つまり こちらからの問いに対して そのことをもないがしろにしていることを意味します。  むろん 敗北宣言と受け取っていますが。  (9) エレミヤ書について  ★ ~~~~   >エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。  これも、上のヨハネ第一1:8,10から分かるでしょう。・・・  ~~~~~  ☆ これについてもすでに答えています。時間表が 《宣教の時代》と《罪が覚えられず神を知れともおしえられないこと》とは 一時期としては錯綜するのだと。  イエスの十字架上の死と復活のあと 聖霊が送られたとき すでにエレミヤの預言は成就しました。それが 現実になるには けっきょく宣教の時代を持たなければならなかったことも然ることながら 単純に言って民主制社会の到来を俟ちつつ たとえば二千年かかりました。そういう問題です。  (10) 同じく  ★ ~~~~~  キリストの贖罪が成し遂げたのは、エデンからの追放以降生じた神と人間との絶縁状態が緩和され、仲介者イエス・キリストによって、望む人は神と和解するための道(機会)が開かれたということでした。  ~~~~~~  ☆ もしこれだと エレミヤ預言とは矛盾します。そうすると エレミヤ預言についての今後の時間表を明らかにすべきであると すでに問うています。これも 無視しましたね。とうぜん答えられないからです。ご自身の仮説が崩壊したとみとめたからでしょう。  神は すでにすべての人が 和解が出来ていると知りなさいと言っていましょう。

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回答No.17

根幹が損なわれますと、修繕の際には、…!? http://okwave.jp/qa/q7730762.html

bragelonne
質問者

お礼

 何だってゆうの?

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noname#259625
noname#259625
回答No.16

>だったら 十字架にはりつけになることはなかった。冤罪と言えばそうなのかも知れませんが そんな失態を演じたということにしかならない。話にならないでしょう? イエスが処刑されたのは、イエスが犯罪者・冒とく者だったからではないことは明らかです。それは、ユダヤ人の指導者たちによる自らの指導権が奪われないための措置だったに過ぎません。さらに、それはイエスにそのような措置を防ぐ力がなかったからでもありません。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」とマタイ26:53でも述べているとおりです。 続く聖句はこうなっています。「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。・・・このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」マタイ26:54,56。ですから、イエスが捕縛され、処刑されたのは、「失態」などではありませんでした。それは聖書の預言の成就でした。捕縛される際、イエスは「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とヨハネ18:11で言いました。イエスは神からの「杯」、つまりそのご意志に従ったのです。 >§ 2 《造る》と《生まれる》は 語法として同じか? >推測としては キリストは子なる神として父から《生まれた》とは言えても 父によって《造られた》とはまづ言わないということでしょう。 御子が生まれる以前には、御子は存在していましたか、存在していませんでしたか? もし、存在していなかったとすれば、どのように存在するようになったのでしょうか? それを考えれば、自ずと答えは出るような気がしますが。 >しかも キリスト・イエスが出たあとでは もう神のことを 人びとに 知りなさいと言っておしえることもありません。罪が神によっておぼえられているということもありません。(⇒エレミヤ書31:31以降)。  神はすでにしりぞいて――言うなれば聖霊の時代にあって―― 人びとは経験思想ないし経験科学によって〔ただし 一人ひとりは信仰のもとにヒラメキを得つつ〕社会をいとなんで行く。 >そういうことになっています。 イエスが世に来ることによって成し遂げたことの一つは「贖罪」です。それは罪を無効にし、神に近づくことができるようにする取り決めです。しかし、その贖罪によって罪人が罪人ではなくなったということではありません。依然として罪人のままなのです。ご指摘のエレミヤ31:31以降の事柄は確かに将来成就するでしょう。しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。 それについて、エフェソス4:11-13にこうあります。「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」 「全き人」、完全な人間になるためには、キリストの弟子となり、神の元で再教育されるのでなければ、人間が独力で達成することはとてもできません。以前にも増して、罪人である私たちは、御子イエスによる救いと教育(手引き)を必要としているのです。 他の点はまた次回以降で・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    (1)  ★ ・・・イエスは神からの「杯」、つまりそのご意志に従ったのです。  ☆ ですから その神の意志というのは せいぜいが《天使》という意味での神と自称したから ほんとうの神を冒涜したとユダヤ人からその咎を責められたのですか? と訊いています。  それくらいなら 死刑になることもなかろうし 死刑になったのなら失態の部類に入ると言っています。    父なる神とまったく同じ神であると自称したから 罪を言い渡されたのではないか?  それとも 捕縛されるのも 処刑されるのも そのこと自体が 父なる神の意志であって そのユダヤ人にとっての犯罪行為というその中身は どうでもよかったという解釈ですか?   (2) 神は――父なる神と子なる神と聖霊なる神とは―― 時間の始まる前から存在したのだから 《造られた》とは言われず 《子が父から生まれた》という仮りの説明表現を用いたとしても その経験的な意味での時間過程としての《生まれる》という意味ではありません。    ★ 御子が生まれる以前には、御子は存在していましたか、存在していませんでしたか? もし、存在していなかったとすれば、どのように存在するようになったのでしょうか?  ☆ 子なる神は 父なる神とともに はじめにあった。のです。その《はじめ》というのは 《終わり》とのかかわりで言っているのではなく この宇宙つまり世界つまり時空間の始まる前という意味です。とうぜんです。この経験世界を超えているのですから。   《父から生まれた》と表現したとしても  ★ 存在するようになった  ☆ のではありません。永遠・無限・絶対・非経験は はじめから存在するのです。《存在》そのものです。  ただ三つの位格を説明するために 父と子と聖霊と言い 子は父から生まれたとし 聖霊は父と子との両者から発出するという表現を用いる。それだけのことです。そこには 時間は流れていません。そうでなければ それは 神ではありません。  (3) 罪をあがなうとは どういうことか?  ★ イエスが世に来ることによって成し遂げたことの一つは「贖罪」です。それは罪を無効にし、神に近づくことができるようにする取り決めです。   ☆ もともとヘビなる悪魔も原罪もありません。物語として脚色しただけのものです。一たんアダムとエワの話に 罪や悪魔を添えたからには そのあとイエスのときに その十字架上の死と復活によって あがなわれた。というかたちにしただけのことです。それは エレミヤ書31:31以降のくだりが――ヘブル書8章でしたかに取り上げられており――物語っているはずです。  それほど人びとのあいだでは 自由意志の弱さがいやというほど思い知らされていた。その情況を創世記・エデンの園の話に反映させた。これだけのことです。  (4) エレミヤ書31:31以降(ヘブル書8章)  ★ ご指摘のエレミヤ31:31以降の事柄は確かに将来成就するでしょう。しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。  ☆ 《将来》というだけでは 意味がありません。仮りに《将来 つまり イエスのあともまだ待つ》ということであれば その時間表を聖書の中から見つけ出さねばなりませんし そうして人は説明しなければなりません。聖句を無視するわけには行かないからです。  ★ しかし、その過程で、人々は神とキリストから再教育を受けなければなりません。その教育システムがキリスト以降のクリスチャン会衆なのです。  ☆ これも 《将来》とはいつのことか? その説明を俟たねば・つまりその将来の時間表を明らかにしなければ 言ってはいけない言葉です。すでにイエスが登場し その《とき》は来たという解釈も成り立つわけですから そのことにも触れる必要がありましょう。つまり すでに時が来たとなれば このような《教育》は要りません。エレミヤはそう書いています。  (5) ★ それについて、エフェソス4:11-13にこうあります。  ☆ この記事は 時間表が錯綜しているというだけの話です。  《宣教という愚かな手段》によって イエス・キリストの名を知らせる。このつとめが果たされ広まってから たしかに《神の名を知れ》とは言わなくなるし 《罪ももう覚えられていない》となります。つまりそのように時間過程が錯綜している。だけの話です。      (6) ★ ~~~~  「全き人」、完全な人間になるためには、キリストの弟子となり、神の元で再教育されるのでなければ、人間が独力で達成することはとてもできません。以前にも増して、罪人である私たちは、御子イエスによる救いと教育(手引き)を必要としているのです。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから エレミヤ書31:31(ヘブル書8章)との兼ね合いをきちんとつけてから こういう話は述べるように求められています。あまりにも 不用意です。

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回答No.15
bragelonne
質問者

お礼

 メシアは もともと王のことです。  転用されました。キリストのことです。

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noname#259625
noname#259625
回答No.14

No.13です。一つずつ回答します。 > 【Q‐2】・・・☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。 「間接的には」ということは、「直接」、そのように言ったことがないということではないでしょうか?  しかし、ユダヤ人が「彼は自分を神とした」と解釈し、憤慨していたことは事実でしょう。しかし、自分が主張したこともないことを、「彼はこう主張した」と一方的に曲解され、非難されることが時にあるものです。今回の場合も、「神の子」とは言ったものの、イエスが直接、「私は神だ」とは一言も言っていないことは事実ではないでしょうか?  >《天と地》は 《うまれた》のですか? >疑問その一:神は万物を《生んだ》のですか? 「生まれた=造られた」が妥当かどうかは聖書の用法に従うべきでしょう。 創世記などを記したモーセによる詩編90:2にはこうあります。「山々が生まれる前から/大地が、人の世が、生み出される前から/世々とこしえに、あなたは神。 」 >疑問その二:一方で 父なる神が《ロゴス》と呼ばれた子なる神によって万物を造ったことと 他方で 《神が天と地を造った》ことと これらがは互いに同じでなくてはおかしいとすれば・・・ 前者、つまり御子が万物を造ったというのは、私の個人的な見解ではなく、聖書に書かれていることです。コロサイ1:16では、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」となっていました。 しかし、この聖句と創世記1:1は矛盾してはいません。御子は神の指示のもとで万物を造ったからです。天地創造のための設計、エネルギーなどはすべて神からのものでした。ゆえに、天地創造の誉れは創造者なる神(御父)に帰せられるのは当然です。 同じようなことが、人間の間でも言われることがあります。例えば、古代のエルサレムの神殿を造ったのはソロモン王だと普通言います。しかし、実際に、神殿をとんかちとんかち現場で造ったのはソロモンではないでしょう。同じように、御子が万物を造りましたが、それは神の指示のもとで行われたゆえに、神が天と地を創造したと言い得るのです。 >☆ (疑問その三) 《生まれる》と《造られる》とを 根拠もなく同じことだと決めつけていはしまいか? これは、上記の詩編91:2から分かりますね。 >(疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか? 「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。 しかし、この「言葉」とはどういう役割を意味していますか。彼は神の代弁者、伝令官、スポークスマンであったいうことです。彼は神の言葉、指示、命令、教えを他の大勢の天使たちに伝える「神の言葉」なのです。 ゆえに、イエスは天使たちの頭、長とみなされ、それは大天使ミカエルと同一人物であると考えられます。ユダ9には、「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時・・・」とあります。 さらに、ダニエル12:1,10:21には、「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く/国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が」とあり、さらに、「わたし(天使)を助けて、彼らと戦う者は、あなたがたの君ミカエルのほかにはありません。 」ともあります。 ですから、神の民のために戦いの先頭に立つ大天使長ミカエルとは、天使形態のイエスのことにほかなりません。イエスについては、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と使徒4:12で明言されており、前述のダニエルの聖句と考え合わせると、「神の民の苦難の時に立ち上がり、救いをもたらす者は、大天使長ミカエル=救世主イエス・キリスト以外にはない」と結論できるのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  § 1 イエスは《自分が神である》とみづから言ったか?  ★ ~~~~~  しかし、ユダヤ人が「彼は自分を神とした」と解釈し、憤慨していたことは事実でしょう。しかし、自分が主張したこともないことを、「彼はこう主張した」と一方的に曲解され、非難されることが時にあるものです。今回の場合も、「神の子」とは言ったものの、イエスが直接、「私は神だ」とは一言も言っていないことは事実ではないでしょうか?   ~~~~~~~  ☆ これは異なことをおっしゃる。  だったら 十字架にはりつけになることはなかった。冤罪と言えばそうなのかも知れませんが そんな失態を演じたということにしかならない。話にならないでしょう?  § 2 《造る》と《生まれる》は 語法として同じか?  ★ 「生まれた=造られた」が妥当かどうかは聖書の用法に従うべきでしょう。  ☆ 以下のごとく少ししらべましたが 必ずしも明らかになるようでもありません。  ▼ (創世記1:1) 初めに、神は天地を創造された(バーラー √BR' / エポイエーセン)。  ▼ (詩編90:2) 山々が生まれる(ユラドゥー √YLD / ゲネーテーナイ)前から/大地が、人の世が、生み出される(テホーレル √HWL / プラステーナイ)前から/世々とこしえに、あなたは神。  ▼ (ヨハネ福音1:3) 万物は言によって成った(出来た・造った。エゲネト // ニブラー√BR'・ニフヤー √HYH)。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。  ☆ 考えてみれば イエス・キリストは《神の独り子》と書いてあっても 父なる神から生まれたとは書いてないかも知れません。最後までしらべたわけではありませんが 知るすべはないかも分かりません。    § 2-1 ただ 次のような表現は 参考になるかも知れない。  ▼ (ヨハネ福音8:58) イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる(ノーラド √YLD・ハヨート √HYH)前から、『わたしは ある(フー√HYH)。』」  ☆ つまり 《独り子》なら 親から《生まれた》という説明表現になりますが それはあくまで仮りの説明であって もともとは初めから父とともに神であるというわけです。あるいは モーセに語った《わたしはある。それが わたしである》といった表現になってもおかしくありません。  《天使》については そんな言い方はついぞ出来ません。  というところまでは はっきりしていましょう。  ですから 推測としては キリストは子なる神として父から《生まれた》とは言えても 父によって《造られた》とはまづ言わないということでしょう。《天使》は もしそうであるなら 造られたのです。《造られた万物》に天使は入るけれども 子なる神は入らない。なぜなら その万物を造るチカラなのだから。  § 2-2 さらにですが あまり決め手にはならないようです:  ★ コロサイ1:16では、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた(エクティステー < クティゾー)からです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました(同上)」となっていました。  ☆ これは 建築・建設といった意味合いがあるらしいですが。  § 2-3 細かいことですが 《ことば=ロゴスによって神が万物を造った》(ヨハネ福音)ことと《父なる神が子なる神に指示したとか 力をあたえたとか説明すること》(やんぐますく説)とは 別です。    ★ しかし、この聖句と創世記1:1は矛盾してはいません。御子は神の指示のもとで万物を造ったからです。天地創造のための設計、エネルギーなどはすべて神からのものでした。ゆえに、天地創造の誉れは創造者なる神(御父)に帰せられるのは当然です。  ☆ いちど ひとこと触れておきます。これは 推測に過ぎないということです。  (§ 2-1でのわたしの推測は 子なる神と天使とが区別されるという明らかな前提に立った推測です)。  (たとえば 子なる神は ロゴスとして万物の自然本性にそのそれとしての秩序をあたえるというそのような要因を特には言おうとしているのかも知れないという意味です。父なる神のほかに創造者ないし建築者がいるというような・そしてそれが 子なる神だというような意味に解するいわれは まづないでしょう。ともに一体として創造しているのです)。  § 3 イエス・キリストは 天使か?  ★ ~~~~  >(疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?  「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。  しかし、この「言葉」とはどういう役割を意味していますか。彼は神の代弁者、伝令官、スポークスマンであったいうことです。彼は神の言葉、指示、命令、教えを他の大勢の天使たちに伝える「神の言葉」なのです。  ・・・(引用を省略します)・・・  ~~~~~~~~~~  ☆ これは ただの物語です。ただでさえおとぎ話であるのに こんな子供だましの話にととのえることは ありえません。  すべては 神の恩恵のもとにあります。天使も救世主もありません。ただただ 神なる聖霊のハタラキがあるかどうかです。  そのことを アブラハムから始まって イエスに来てやっと指し示し知らせることが出来たのです。  その《知らせ》が成ったなら あとは――天使がどうであろうと何という名前の天使であろうと―― どうでもよいのです。   しかも キリスト・イエスが出たあとでは もう神のことを 人びとに 知りなさいと言っておしえることもありません。罪が神によっておぼえられているということもありません。(⇒エレミヤ書31:31以降)。  神はすでにしりぞいて――言うなれば聖霊の時代にあって―― 人びとは経験思想ないし経験科学によって〔ただし 一人ひとりは信仰のもとにヒラメキを得つつ〕社会をいとなんで行く。そういうことになっています。  ★ 「言葉は神であった」というのが、ヨハネ1:1でしたね。その「神」が必ずしも全能の神とは限らないことは以前説明しました。これは天使たちにも当てはまります。  ☆ 《限らない》ということは 《限る》場合もあるということです。天使とは別だという場合です。そこのところを考慮からはづすのは いただけません。  ★ 「神の民の苦難の時に立ち上がり、救いをもたらす者は、大天使長ミカエル=救世主イエス・キリスト以外にはない」  ☆ こんな子供だましなことを まだ言っているのですか? これは ただの観念です。持つのも自由ですが それだけの話です。何の意味もありません。もし意味があるのなら いつになったら その意味が人びとに分かるようになるのか? これを説明してからのことです。 

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noname#259625
noname#259625
回答No.13

No.10です。 > ☆ どこに > ★ 「イエスご自身に関しては神自らが直接造った」 > ☆ と書いてあるのですか? コロサイ1:15は「御子は、・・・すべての造られたものに先だって生れたかたである」でしたね。「生まれた」という表現はそれ以前には存在していなかったということを示しています。 さて、「すべての造られたもの」、そして、御子さえも生まれていない、それ以前の時、神以外には何も存在していませんでした。ですから、すべてのものに「先立って」つまり、一番最初に造られた御子を造ったのは、神ご自身にほかなりません。 さらに、その後、先回述べたように、神の指示のもとで、御子が他の天使や人間や他の物事を造りました。(神による直接創造ではないということ)。これを上記の点と考え合わせると、神ご自身が直接創造したのは、御子イエスだけであり、それゆえにイエスは天使の一人ではあるが、神の特別な「独り子」であるとも言えるのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ積み残しの荷をふたたび掲げます。  ☆☆(No.9お礼欄) ~~~~  【Q‐2】 イエスはみづから自分は神の子であるだけではなく神であると言ったか?  ・・・  ☆ すなわち  ★★ (回答No.5) ~~~~~~~  ◎ 次は、神殿でイエスとユダヤ人が問答している場面。ヨハネ10:31-39。  「ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり間接的には イエスは自分が神だと言ったことになります。しかも そうでなければ死刑になることはないでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~  さて今回の論点は 《天使を含めてものごとや存在者を造る》のと《神の子が生まれる》のとでは 同じことか? です。  ★ ~~~~~~~~~~~  さて、「すべての造られたもの」、そして、御子さえも生まれていない、それ以前の時、神以外には何も存在していませんでした。ですから、すべてのものに「先立って」つまり、一番最初に造られた御子を造ったのは、神ご自身にほかなりません。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 後半つまり二つ目の文では 《神の子が生まれる》ではなく《造られる》というふうに変わっています。何故か? 同じ意味なのか?  その意味は そうすると  ○ すべてのものが 神の独り子たる《ことば》によって――〔父なる神のもとに〕造られたと書かれているところを――《生まれた》と言ってよいのか?   という問いにもなります。  《天と地》は 《うまれた》のですか?  しかもその創世記の冒頭には 《神が天と地を創造した(造った)》であるとか あるいは《神は〈光あれ〉と言った。こうして 光があった》のごとく書かれています。  つまり これは ヨハネ福音の冒頭では こう書かれています。神(=つまり特には 父なる神)は 《ことば》として呼ばれた《神の独り子》によって《すべてのものを造った》と。  疑問その一:神は万物を《生んだ》のですか?  疑問その二:一方で 父なる神が《ロゴス》と呼ばれた子なる神によって万物を造ったことと 他方で 《神が天と地を造った》ことと これらがは互いに同じでなくてはおかしいとすれば 後者の創世記の記述における《神》は 《父なる神 および 子なる神〔さらにそれらと一体なるものとして 聖霊なる神〕》のことを言っていると受け取らねばおかしい。ではないか?  つまり  ★ コロサイ1:15は「御子は、・・・すべての造られたものに先だって生れたかたである」でしたね。  ☆ ですね?  すなわちこのふたつの疑問は 次の見解に対するものです。   ★ 神ご自身が直接創造したのは、御子イエスだけであり、それゆえにイエスは天使の一人ではあるが、神の特別な「独り子」であるとも言えるのです。  ☆ (疑問その三) 《生まれる》と《造られる》とを 根拠もなく同じことだと決めつけていはしまいか?  (疑問その四) 《ロゴス》が どこに《天使》のことだと書いてありますか?

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回答No.12

真のキリスト性は経験され得るのでしょうか? http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121001-35022449-cnn-int

bragelonne
質問者

お礼

 どうお考えですか?  というよりも  ★ キリスト性  ☆ って何だとお思いですか?

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回答No.11
bragelonne
質問者

お礼

 【Q:イエスが なぜキリストか。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7651567.html

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     イエス・キリストの大嘘について どう思いますか?  (あ) ナザレのひと・イエスは ヨセフという父親とマリアという母親とから――むろんその交渉をつうじて――生まれたふつうの一人の人間であったわけですが 自身はそうであると同時に(つまり 人間であると同時に) 神の子でありみづからも神であると言ったのです。――これが ひとつのウソです。  (い) もっともこのウソのからくりについて 人びとが納得の行くように説明することも出来ます。  つまりは 何のことはない 例のブッダター(仏性)というあれです。アートマン(霊我)でもよいわけです。この神の霊が 人間にはやどっているといった・人びとの常識にまで成った想定の話を少し拡大して イエスは 《わたしが その神の霊である。つまり ブッダターである。つまり アートマンである》と言ったわけです。  (う) すなわち ふつうは人は 神の霊であるアートマンやブッダターなる霊を わが身と心とにやどす・つまりそれは 分有するということなのですが イエスの場合は 分有ではなく 自分がその神の霊そのものであると言ったのです。  (え) すなわち イエスはふつうの人間であると同時に その身と心〔と非思考の庭〕とで百パーセントが神の霊であると言いました。――これが 第一のウソです。  (お)第二のウソは 神は どんな名であろうと全体として ただひとつであると言いました。それには ひとつの手法として 十字架にハリツケになって そのまま去って行くというかたちを採った。これによって 神という神は すべてひとつであることが 確認された。  (か) なぜなら 神である(=キリストである)イエスが その十字架上から もしおまえが神の子なら降りて来いとなじられても 降りて行かなかった。降りて行ったなら それは おまえが神であるから出来たことだ 神の奇蹟などは おれたちにはお呼びではないと人びとは思い言い合って おしまいになる。ゆえに 奇蹟を起こさなかった。  (き) またもしただ人間としてハリツケに遭って死んだというだけなら それは せいぜいよくやったな がんばったぢゃないか おまえのことは覚えておいてやるから 往生しーやと言われておしまいである。そうではなく 神がハリツケにされたのである。と語ったわけである。これが 第二のウソだ。  (く) このウソによれば 人びとは 笑おうが泣こうが とにもかくにも 元気が出る。ハリツケのイエス・キリストを見れば ひとは元気を取り戻す。ということになっちゃった。――これがウソの効用。  (け) しかも やがては 名の違う神どうしのケンカは もう用無しとなるはずである。そのために 大嘘をついた。イエスという男。   宗教のオシエは どうでもよい。のです。

  • 《人間イエスは神キリストなり》なるドグマについて

     1. 《ナザレのひとイエスは そのように人間であると同時に キリストと呼ばれる神の子でありかつみづからも神である》という物語――つまり 命題としては論証し得ないドグマ――について問います。  2. 前提事項として 次を確認します。たとえばこのイエス・キリストが《真理である神を指し示した》というときそれは    (あ) 神はじんるいにとって全体としてひとつであり 名は違っても同じ《非経験の場》と想定されるナゾの何ものかであるということを語った。   (い) すなわちおよそ神ならば どんな名のそれであっても 互いに分け隔てはないということ。   (う) 真理である神は 経験世界を超えており このナゾを人間がその能力と努力によって知解することは不可能である。   (え) 言いかえると 《考えるや感じる》世界を超えており それはただその神の名を心に受け容れるということをとおして抱くことになりそう成った心の動態としての信仰をとおしてのみ いわば人間がかかわることのできる存在(または 非存在)である。そのようなわが心なる《非思考の庭》が 信仰である。   (お) この信仰からヒラメキなどの直感をとおして得た思いや考え これを思想として表現することがあり得る。これは オシエであり それをすでに集団化した者たちの教義とするなら そこに《宗教》が現われる。――この組織宗教は 個人の信仰の言わば蝉の抜け殻である。   (か) こういったことを語ったと思われる。――この前提事項をもむろんご批判ください。  3. さて問題は 次です。   (き) 《人間イエスは 神キリストである》は 思想としてはいわゆるアラヒトガミのことです。   (く) ただしイエスのばあいは 神そのものが《想定》に成るものですから キリストと呼ばれるようになったことも物語であり 命題としてはドグマです。――このことは 日本における現人神が どう捉えられているか・つまりドグマなのかどうかが分からないので ひとこと触れておくという意味にもなります。   (け) 日本人のあいだのいわゆる自然宗教――つまり実際にはその集団的宗教の問題ではなく 個人一人ひとりが自然にいだくに到っているそれとしての信仰のことです。つまり これは たとえば《もののあはれを知る》といったかたちで説明されます――をもって   もういちど繰り返すなら 個人の自然にいだくおのおの自由な信仰をもって 一般に欧米のクリスチアニズムに相い対するという交通のかたちで 要は足りるか? これがひとつの問いです。   (こ) むろんこのいま言った自然信仰は じっさいに生活に生きているその動態です。ですから 経済的・政治的また文化的な活動をとおして クリスチャンたちと相い向かい対話を展開するわけですが そのとき 信仰じたいの説明はどうなっているか? という問いが向けられたときには どうするか。こういう背景です。   (さ) そのときの対話交通においては わたしたちは クリスチャン側の《イエス・キリストなるドグマ》については 話の前提としてみとめた上でということになるのではないか? それとも ドグマなのだから 認めないという判断をすでに持ってのぞむのか?   (し) なぜドグマであっても 話の前提としてみとめるほうがよいと考えるか? これは 項目を次にあらためます。  4. 話を 《闇の中にいつづけていたひとが 光を知るにはどうしたらよいか》という問いから入るかたちとします。   (す) ひとつに衆生縁の慈悲があります。人びとの思いやりです。これをとおして 光を知る入口にまでみちびかれると思います。   (せ) ひとつに科学のチカラがあります。ものごとの世界の普遍的な認識としての知性的なチカラです。目の治療を例にとっても 光が見出され得ます。   (そ) 次には 《みづからがさささやかな光となることは出来るか。成るにはどうしたらよいか》という切り口ですが ひとつには 《ひとには 神の霊がやどる》という想定を持つことです。   (た) これは 必ずしも勝手なドグマではなく 神をナゾの何ものかとして想定したとき ほとんどそのことに付随していることだとも考えられます。   (ち) その《神の霊》は ブッダター(仏性)ともアートマンともルーアハともプシュケーやプネウマともアニマやスピリトゥスとも たましいとも言われます。〔これは (あ)(い)の前提事項です〕。   (つ) 問題はここからです。《みづからが光となる》のは その心にやどるブッダターによって人間みづからがその努力(ハカラヒ)によって成すのか?    (て) 言いかえると 《人間が人間であると同時に神である》というまぼろしの想定は 要るか要らないかです。要るというのは 人間がみづからのチカラによっては 心の燈心をともすことは出来ないという人間の限界をみる見方です。   (と) 思いやりなる光のようなものは 人間がその知性などのチカラで持ち得ます。ところが 心の燈心に火をともすことは 人間に出来るか? という問いです。(言わば永遠の火ですね。ロシアでは聖火が消えたそうですが)。   (な) 出来ないという見方に立つなら キリスト神話のドグマを話の前提としてみとめて 欧米人と話をしなければならない。と考えられます。   (に) 果たしてそうかという問いからご見解をもとめます。   (ぬ) 質問者は そうである(ドグマを認めざるを得ない)という見方に立っています。人間だと限界を見てしまうことがある。からという理由です。

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味ではないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰を わが心なる《非思考の庭》として現わした。    という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交えての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ここで神はそれを想定するというものですが この主題(ひとつの回答)についてあらためてその当否を問います。  この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方を斥け受けつけないという意味ではないということです。ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 息を引き取ったということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上でたとえば奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについても人びとは あきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間イエスとしてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその自然本性にそなわった能力やそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 非知であり非経験の場である。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 世界を認識したそのとき ほんのちょっとそこではヘソを曲げスケベ心を出して何者の下にも自分は立つまいと心に決めてしまっていたので 陰を自分のものとして伴なっておりやがてシガラミの芋づる式に人びとのあいだにやはり闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。    そうでなければ 闇は もともと 人びとのあいだに無かった。  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。  という哲学を問います。よろしくどうぞ。  

  • 闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?

     まづ これは――哲学ですが――たとえを交じえての議論です。  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として――ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として――去っていくこと。だったのではないか。  ☆ このひとつの答えをめぐって 以下に説明をつけますので ご見解をお寄せください。  (β) ここで神というのは それをいま単純にこの(α)のごとく想定するというものです。   (γ) この命題は まづ論理を問題にしていると言わねばなりません。  その意味は 別の見方をしりぞけるものではなく 受けつけないという意味でもないということです。  ほかの見方による批判を歓迎するのはむろんのこと またほかの見解そのものについても 受けつけたいと思います。おそわりたいと思います。――その意味で (α)は単純にそういう想定だということになると思います。  (δ) さて 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後にはペテロを初めとして全員イエスを裏切って逃げたという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死を死んだということなどです。  (ε) 《人間として》でなければ――つまり もし神ならそこから降りて来いとローマ兵士たちにからかわれて 神として十字架上から降りて行き奇蹟を起こしたなら あぁ それは神だから出来る われわれ人間にはお呼びではないことだと見なされて 話はおしまいになるということですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の努力が 到底 最終の目的に達して完成することなど出来っこないとわたしたちが思ってしまう。あきらめてしまう。  重ねて述べれば キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ われわれ人間には到底無理だと思い何ごとにつけても人びとは あきらめてしまう。  (ζ)  しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――つまり神の子キリストがやって来たのではなく 単なる人間イエスとしてだけであったのでは―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術や科学の光だけになってしまう。  (η) 逆に言いかえると 神は 人間の《身と心》やその自然本性にそなわった能力なのではなくまたそれを発揮した成果なのではないと人びとが知る必要があった。神は 人間がこしらえたものではなく 非知であり非経験の場である。  (θ) 人間の能力としての啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。闇を晴らす光を見たと言えるようには まだならない。  (ι) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から闇を晴らす光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神をユダヤ民族だけのではなく普遍神として指し示した。普遍神と人間たるわれとの関係 すなわち 信仰一般を わが心なる《非思考の庭》として現わした。  (κ) ところが 人びとの中には この世に闇はあってもらわなくては困ると説く人がいる。闇を晴らしてもらっては困ると言う人がいる。のではないだろうか? 懐中電灯――にんげんの科学と芸術――があれば充分という主張である。これについて どう考えますか?

  • 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

    闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには  (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。  この主題について問います。  (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。  (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。  (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。  (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。  (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。  この哲学を問います。よろしくどうぞ。

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?