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聖書の記事について質問です。

第二コリント12章の記事の内容について教えていただきたいことが、いくつかあります。 先ず冒頭で、パラダイスのことを、第三の天といっていますが、なぜ、第二の天ではなく第三の天なのでしょうか。また、この記事の証人のことを、パウロはキリストにある一人の人を知っていると紹介していますが、良く言われているのは、これは、パウロ自信の証だと聞きますが、それはなぜでしょうか。 そしてあともう一つの疑問は、パウロの肉体に与えられた一つのとげについてですが、このとげは、何かの疾患のことでしょうか、それとも別の何かでしょうか。以上です。 質問1:第三の天について。 質問2:パラダイスに引き上げられたのが、パウロといわれているのはなぜか。 質問3:肉体のとげとは何か。 宜しくお願いいたします。

  • tokkey
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noname#259625
noname#259625
回答No.2

質問1:第三の天について。 ソロモン王は神殿の奉献式の際に、こう祈りました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。 」列王第一8:27 「天の天」という言葉にご注目。ですから、第一の天とは、物質的な天、大空または宇宙。第二の天は霊的な天使たちの住む領域。そして、第三の天、つまり「天の天」とは、全能の神の王座のあるところ、ということができます。 それに対応して、神殿の中は「聖所」とその奥にある「至聖所」に分かれていました。至聖所には契約の箱が置かれ、そこが神の王座を表わしていました。詳しくは、ヘブライ9章にて。つまり、手前の聖所が第二の天、奥の至聖所が第三の天、天の天、ということになります。 さらに、エゼキエル1章の幻では、天の神の王座と天使たちの組織の様子が示されています。その1:22,26では、「生き物(ケルブ)の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。・・・生き物の頭上にある大空の上に、サファイアのように見える王座の形をしたものがあり、王座のようなものの上には高く人間のように見える姿をしたものがあった。」となっており、天使たちの領域(第二の天)と神の王座の領域(第三の天)とは仕切りがあることを示唆しています。ですから、天の天とは、天使たちの領域(第二の天)に対する天という意味となります。 ですから、使徒パウロは、第三の天、天の天、つまり、(至聖所に対応する)神の王座に関する幻を見たのでしょう。 質問2:パラダイスに引き上げられたのが、パウロといわれているのはなぜか。 No.1の回答者さんの説明でよいと思います。 質問3:肉体のとげとは何か。 それについて、パウロは「それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」と述べており、「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 」とも述べています。 つまり、イエスがマタイ4章でそうされたように、悪魔は神に仕える人々を誘惑したり、また苦しめたりすることがあります。恐らく、パウロは、サタンの使いである悪霊から、例えば、夜寝ている時などに攻撃されていたのかもしれません。 しかし、それは神とキリストの許しによりました。その目的は、パウロが幻のゆえに「思い上がることのないように」するためでした。 同じように、ヤコブ(イスラエル)も天使と格闘してついには勝ちましたが、「腿の関節、つまり腰の筋」を打たれて謙遜にさせられました。(創世記27:24-32) それに対応して、クリスチャンは悪魔(ヤコブの時の天使に対応)と格闘しなければなりません。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 」とエフェソス6:10-18にあります。 とはいえ、クリスチャンすべてが悪魔による夢などを見るということではありません。悪魔による企みはそれだけではないからです。しかし、時として、そのような攻撃を受けることもあります。しかし、それらはすべて神の手のうちにあること(計算されたもの)であり、それが結果的には神に仕える人々の益となるようにされているのです。

tokkey
質問者

お礼

お礼が遅くなり大変失礼しました。 なるほど、かなり聖書を読みこんでおられるようですね。 特に興味深いのは、質問3に対する答えです。 私自身も、パウロはきっと病のことを言っているのではないと思います。 それどころか、この箇所を読むとパウロが示されたパラダイスについての啓示が、それは、とんでもないほどのものなのだと思っています。それは、地上の私たちが理解できないような類のものではなく、誰にでもわかって、しかも、「えー、そうっだったのか、素晴らしい、やはり神様は素晴らしい。御名を讃えます!!」 と狂喜乱舞するに違いないようなことだと思います。 これからも質問しますので、どうぞ宜しくお願いたします。 有難う御座いました。

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  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.1

質問1:第三の天について。 下のURLの記載によれば神の領域つまり天国であるという記載があります。当時の知識では第1の天として空をさし、第2の天として月や星のある宇宙、そして第3の天として天国という理解だと記載されています。 http://carm.org/what-does-it-mean-when-bible-refers-third-heaven 質問2:パラダイスに引き上げられたのが、パウロといわれているのはなぜか。 第2コリントの12章を読みますと、パウロが自分の事を「第三者」の立場に置いて述べていると思います。なぜそのように書いたかは以下の言葉でわかるような気がします。 6 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 質問3:肉体のとげとは何か。 確かパウロは目の病を持っていた書いてあります。 「使徒の働き」9章18節 17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」 18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、 19 食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。 回答者はプロテスタントのクリスチャンですが、神学を系統的に学んだわけではございません。別の学説があるかもしれませんが、聖書で関連がある箇所を検索して見ましたので、参考になさってください。

tokkey
質問者

お礼

回答有難うお座います。 別に大したことではありませんが、こうして見ず知らずの主にある兄弟の親切に触れることが出来るのは、何とも心地の良いものですね。 改めて感謝です。 丁寧な解答にもお礼を申し上げます。 本当にありがとうございました。

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    キリストを 引き下ろす / 死者の中から引き上げるとは どういうことか  このところわたしは《これを人間と呼べるか》といううたがいに悩まされました。答えは出ない・出せないというこたえを いまのところ得ました。得たのですが そのことと 次のローマ書の文章が絡まっているように――たぶん 個人的なくせからのようなのですが――思われます。  まづそのパウロの言うところをだれか解釈してくれませんか。  ▲ (ローマ書 10章) ~~~~~~~~~~~  5 モーセは、律法による義について、    「掟を守る人は掟によって生きる」(レヰ゛記18:5)   と記しています。  6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。    「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」      (参照:申命記30:12)    これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。  7 また、    「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」      (参照:申命記30:13)    これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。  8 では、何と言われているのだろうか。    「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」      (申命記30:14)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ モーセの律法の義にしろ イエスのあとの信仰の義にしろ それほどむつかしいことではなく 誰もが実践できると言っているようなのですが 果たしてそうなのですか?  言いかえると 神がさづけたまうならば ただちに信仰はあたえられて心はやわらがしめられるとは思いますが 果たしてその信仰の動態として 《これでも人間と呼べるか》といううたがいが起きたときにも 実践は取り立ててむつかしいということではないと言っているのでしょうか?  答えは出ない・出せないというこたえをわたしは得たのですが それによると 実践はそこで止まってしまうというのが 実際です。果たしてそのあたりのことを交えて どのように解釈するのがよいでしょうか?  表題のことが 主題になるのではないかと思ったのですが それが定かなことだというのではありません。つまり 十字架からキリストを引き下ろす必要もなければ 死者の中から引き上げることも要らないというのであれば すべて《実践の条件》はととのっていると言われているようなのです。

  • 《すべての人に対してすべてのものになりました》とは

     《すべての人に対してすべてのものになりました》とは  たとえば無法者に対しても無法者と同じようになるということでしょうか?    無法者とは 《無条件におれの言うことに従え。さもなくば 物理的にいられなくするぞ》とまづは言って来る場合を言っています。一般的な実際としては 後半の部分は別にして前半の部分を けっきょくその行動で言っている場合です。つまりは 対話や問答において 意味のないことをもって答えとするような場合です。ナンセンスなことを言ってその勢いで 話を逸らせる。あるいは 自分の都合のわるい内容の話を終わらせる。つまり ガキ大将のような場合です。  ▲ (パウロ:コリント前書 9章) ~~~~~~~~~~~  19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、     すべての人の奴隷になりました。     できるだけ多くの人を得るためです。  20 ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。     ユダヤ人を得るためです。     律法に支配されている人に対しては、     わたし自身はそうではないのですが、     律法に支配されている人のようになりました。     律法に支配されている人を得るためです。  21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、        キリストの律法に従っているのですが、     律法を持たない人に対しては、     律法を持たない人のようになりました。     律法を持たない人を得るためです。  22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。     弱い人を得るためです。     すべての人に対してすべてのものになりました。     何とかして何人かでも救うためです。  23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。     それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いささかふるい言い回しですが まづ《自由な身でいて すべての人の奴隷になる》(19)ということは 《その人のようになる》(20ほか)ことだと考えられます。  ただし 《すべての人に対してすべてのものにな》る(22)とも表現しています。  そしてあるいは《福音のためなら、わたしはどんなことでもします》(23)という言い方も見られます。たしか同胞のためならキリストに見捨てられてもかまわないとも言っていたようです。    さてあらためて 問います。  ○ 無法者にはその人の状態と同じようになるということでしょうか?  ミラーニューロン現象として《同じようになる》といった見方を持ち出すことは出来ると思います。  問題は そのようにして同じようになったとき さてどのように振る舞うか? です。  あたかも相手の真似をして振る舞うのか?  それとも こちらの人間性をそのままにどこまでも保って 行動するのか?  もしくは 冷却期間を置くというのか?  相手が言っていることは その内容において自己矛盾をきたしている。のに 知らん顔をしている場合です。それを指摘しても・何度指摘しても 話を聞かない。・・・  おしえてください。  * なお 《人を得る / 人をすくう》というのは むろんパウロ自身にとっては間接的な活動として言っているのだと思います。人間としてのパウロがひとをすくうということではないと思われます。  高飛車で高慢ちきな言い草ですが 考えてみれば 相手から逃げないところのやはり一般的に言っても 愛――つまり 関係性としての話し合い――の務めを言っているとは思います。よろしくどうぞ。

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 英訳の質問。

    以下の英文(アメリカの新聞記事の一文です)の訳し方についての質問です。 "No sacrifice is too great, and no expenditure is too heavy when the proper training of America's children is involved." 「アメリカの子どもたちの適切な訓練が必要とされる時、犠牲はそれほど大きくなく、費用も過剰ではない。」 と訳したのですが、冒頭からwhenまでの "No ~, and no ~" の部分が自信ありません。 また、「involve」の訳し方も不安です。 どなたかお教え頂けますでしょうか。 よろしくお願い致します。