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本当に縁起説が悟りの内容なの?

今回はかなり常識に反した質問なので なに言っているんだという回答でかまいません。 ただの思いつきで質問しました。 まず、マハーヴァッガは現代日本語訳されていますか? どうやって入手できますか? 縁起説および空は本当に悟りの内容ですか? 「不死の門は開かれた」という文章が気になります。 不死はあくまで、輪廻からの解脱という意味ですか?

noname#195588
noname#195588

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回答No.4

No.3です 「不死はあくまで、輪廻からの解脱という意味ですか?」 に関して、手持ちの書籍に関連事項の記述がありました。 バウッダ(佛教)(小学館ライブラリー)著/三枝充悳 著/中村 元 http://www.shogakukan.co.jp/books/detail/_isbn_4094600809 (おなじ、中村 元、三枝充悳著の同名書籍が講談社学術文庫から出版されています) http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2919737 私の持っているのは小学館ライブラリーのものですが、そこから一部引用しておきます。 >>>p.206-209 ニルバーナ(涅槃)から抜粋(サンスクリット語等の言語部分を削除) 釈尊当時のあまたの思想家は、彼らの理想ないし目的とするところを、安穏、平安、安楽、幸福、不死・甘露、彼岸などと呼び、それに到達することを解脱と称した。 (中略) 釈尊においても、同類の表現が見られる。(中略)その境地をとくにニルヴァーナと名づける。(中略)中国ではあえて翻訳せず、(中略)涅槃の音写を当てた。 (中略) ニルヴァーナを「(炎すなわち煩悩が)すっかり消えてなくなった状態」と解する。 (中略) (以下、スッタニパータを資料としての、中村 元氏による考察) 次に「スッタニパータ」を資料として、ニルヴァーナが明確に説かれている諸詩句の内容を要約すると、(中略)ここには、否定的と肯定的の両方の表現が目立つ。(中略) ニルヴァーナはまず最初に否定ないし排除を含む消極的な在り方を示す。 そこでは、煩悩-欲望と無知とに沈む凡夫の在り方を、まず否定し、排除して、さらにはそれからの離脱へ、超越へと向かう。換言すれば、いわゆる世俗の立場に固執する限り、ニルヴァーナは成立せず、実現され得ない。(中略) しかし、釈尊は、さとり、成道したままにとどまってはいない。しばらくその寂静を楽しみ、その境に浸りきった中から、数週間に及ぶ躊躇・逡巡のあと、決断があって、広く民衆の教化に踏み切る。 (中略) 釈尊のニルヴァーナに関するこのプロセスには、略言するならば、一種の「往」と「還」とが明らかに示されている。それを、たとえば「スッタニパータ」に何度か説かれる「この世と、かの世とを、ともに捨てる」という表現に重ね合わせてみれば、「この世を捨てる」のが「往」であり、「かの世を捨てる」のが「還」であることは、とくに付言するまでもあるまい。 さらには、阿含教の散文に、たとえば「中部」のある教には、「ニルヴァーナより、ニルヴァーナを知り、ニルヴァーナを思惟せず、ニルヴァーナにおいて思惟せず、ニルヴァーナより思惟せず、このニルヴァーナが自分のものとは思惟せず、ニルヴァーナについて喜ばない」という。 (中略) ニルヴァーナに固執すること自体はすでに固執そのものとして、それからのさらなる離脱こそがニルヴァーナであるとする、いわばニルヴァーナの二重否定の方向ないし推移を、うかがい知ることができる。そして、これは、ニルヴァーナの第二の積極的な在り方を示す、と私は考える。 <<< 上述のように、「不死」という概念は、ブッダ以前からの当時一般的な「悟り」の一種として用いられていた用語だったようです。ブッダが悟りを開く過程もまた、仏典内部に入っているでしょうし、中国→日本へと仏典が入ってきた過程で、そういった過程のいずれかを「悟り」と誤認する危険性があると思います。 ご参考になれば幸いです。

noname#195588
質問者

お礼

再び回答ありがとうございます。 悟りは、どのような内容かはともかく 仏教だけのものではなかった ということになるようですね。

その他の回答 (8)

回答No.9

何の誰の悟りでしょう?。悟り、という実態、主体、がある。という意味でしょうか。 それとも、釈迦の菩提樹の下での悟り、とはなんであったのか。にたいする 思いつきの質問でしょうか。 それなら、若い頃、私も、考えた事があります。 、仏教(ブッデイズ)、なのか、縁起の理法、なのか、八正道、なのか、輪廻、か、大慈悲、か。 などと考察して見ましたが。わかりませんでした。既にない過去のとっくに死んで、今はいない人物むが 、座し何を考えついたか。など解るわけもありません。 世界が在り、人間の認識が想起し、表現をする。 存在と認識が一致する訳でも、認識と表現が一致するわけでもありませが。 表現をしたとは、その時の認識と無関係ではない。認識、思い、を一方の縁として、表現が起こる。 とすれば、菩提樹の下で思索し、悟り(自ら考え納得出来る答)を積み重ねた後の、行動、いわゆる釈迦の第一声、最初の説法、と無関係ではない、ないはずです。 そういう意味では、菩提樹の下での釈迦の悟りは、四諦の法門、とか、四諦八正道、とかいわれる。ものであり。ブッディズムで、導くもの、(ブッ、仏)を縁として、智、悟り、が起こる。 大切にすべきは、仏である。との思想を人々に教えようとの思いだったのでは?。 釈迦は29才で妻子も皇太子という地位も捨て、修行の旅に出たとされています。 学問を修めた後、40才までは結婚をしてはならない、女人と交わってはならない、という戒律の元、 修行の旅に出る事を義務づけられていた。バラモンの男子、ではない、釈迦が、何故、バラモンの真似をし、 バラモンに対抗しようとしたのか。 それは、彼には、ボラモンを超える、智的素養が自分にはある、人々を導ける思想を、会得出来る、 基本としての、考え方、をもっている、との自覚だったはずです。つまり、縁起の理法は、出家前に会得していた、悟っていた。とみるべきではないでしょうか。 それがなく、ただ、悩み苦しむ人々を救うべく道(方法)を求めて放浪に出る。 そんな、「詩人にすぎない、阿呆にすぎない(i-チェ)(婉曲に29才で十字架にかけられたキリストの事でしょうが)青年が数年後に、ブッダ(目覚めた人)と評されるような賢者に変身する。とは考え難いのでは。 また、妻子を捨てて、道を求める者が、自らの、ニルバ-ナ(静けさ、涅槃)の境地を、悟り、として追い求める訳はありません。釈迦が、これより涅槃に入る、と言ったのは、死ぬとき、だったようです。 釈迦が菩提樹の下での瞑想、思索の修行、ハンニャパラミ-タ(知恵、理法によりて見る、般若波羅密多)の後 語った。とされる言葉は何だったのか。2つあります。 ひとつは。「世界の歴史」によると。 釈迦はかって修行苦行を共にした。5人のバラモン修行者を前に。 ここに4っの真理がある。 苦と、苦の起源と、苦の滅と、苦の滅に至る道、とである。 生も苦、老いも苦、死も苦、であり。 愛する者と離別するのも苦なら、好まぬ者と結合するのも苦である。 苦の起源とは何か。喜びと貪りとを伴い、あれこれ執著する愛執である。 苦の滅とは何か。愛着の心を残りなく捨て去る事である。 苦の滅に至る道とは何か。八っの正しい道 1、正しい思惟 2,正しい見解 3,正しい言葉 4,正しい行為 5,正しい生活 6正しい努力 7、正しい思念 そして 8正しい瞑想 てある。 これが法門、言われている。仏教(釈迦の思想)の入門であり、基本、なのです。 不死の門は開かれた、? 甘露の門は開かれた。では? もう一つの釈迦の、第一声、と言われているのは。多分?を付けずとも、 ヒンズ-教の神話としての、源祖神(ブラフマン?)の6番目の転身、生まれ変わり、としての。蓮の台座に座った、お釈迦様、の伝説、ヒンズ-の教の中のブッダの神話、の経典。です。 菩提樹の下て悟りを開かれた釈迦は。 私が苦労して悟りえたこの理法は微妙であり。繊細であり、世の人々の理解するところではない。 説法をしても、理解してもらえなければ、私には徒労が残るだけである。と説法をしようとはしなかった。 それを知った、世界の王梵天は。 ああ人類は滅びる、真に悟った御方が、説法をしようとはなさらないのだ。 と、釈迦のもとに出向き。 かってマガダ国に悪い思想がひろまりました。世の中には、知的素養の優れた者たちもいます。 彼らは聞かなければそのままですが、聞けば悟る者もいるでしょう。どうか、説法を始めて下さい。 と勧請をします。 釈迦は梵天の勧めを聞き。蓮の池を悲しみの眼で見渡し。 蓮にもいろいろある。水中に生まれ水中で没するもの、水中に生まれ水面に顔を出dすもの。水中に生まれ、水面から立ち上ったもは、水に汚されることがない。などと思いをめぐらされた後、 耳ある者たちに、甘露の門は開かれた。己が信仰を捨てよ。 と言われた。 梵天勧請の説話は概略そんなものでした。 理法についても、何々を原因として、何々という結果が起こる、というような。因果律としか理解されていないようでした。 そして、マガダ国に広まった悪い思想?、また捨てよ、という、己が信仰?とは、いわゆる、小乗仏教、のことですよね。 何故、大乗仏教はそこまで、小乗仏教を否定し、排除しようとするのか?を考えてみられてはどうでしょう。鍵になるのは、バラモン階級、バラモン思想、となるのでは。釈迦の思想を理解し広めたのは、バラモン修行者達であり。仏教経典を編纂したのも、学識があり文字が書ける、元バラモン、出身者だったはずです。 しかし釈迦の思想は、階級の否定であり、神のいない哲学なのです。 しかしそれを受け入いれ、賛同した、バラモン修行者達の知的精神的高さ、驚嘆すべきものであった。とも言えるでしょうが。釈迦が死に、時が経てば。バラモンは、 司祭階級でもあり。神がいなければ、都合が悪い意味があり。またバラモン修行者は、期間限定の修行者でもあり。40才になれば。国に帰り、結婚をし。指導者として迎えられる。比して仏教修行者は帰る家もなく、一生が修行となる。 仏教に帰依したバラモン達のなかから、これでは都合が悪い。仏教に神を取り入れ、 バラモン思想=ヒンズ-教と融合しよう。というような、バラモン思想からの反抗が起こった。 それが、大乗運動、ではなかったのでしょうか。 釈迦には、バラモンによって広められた仏教はいずれバラモンによって滅ぼされる。ということは 解っていたようなふしもあるようです。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ようするに後からできた理論である 十二支縁起説などを持ち出しても ゴータマの悟りとは本当は言えないのではないか ということです。 そして、縁起に基づいた空というも 実は悟りではなくて たんにそうだと、見なしてきただけではないの? ということです。

回答No.8

 こんにちは。  ★ 縁起説および空は本当に悟りの内容ですか?  ☆ 縁起がもし 経験事象をめぐる因果関係としての人間関係やその社会的な構造のことをのみ言っているとしたなら それは《さとり》というほどのことではないでしょう。  哲学ないし科学の問題です。  空・シューナター(無・ゼロ)の概念をしのばせないなら 縁起説は ゴータマ氏の専売特許にはなりません。  と言ってもこの空観に裏打ちされた縁起説は 経験事象としての因縁起が 諸法無我ないし諸行無常の説とともに空と見られると言っているのですから そうなるとその世界観は やはりブラフマニズムの梵我一如の見方に限りなく近づくと考えられます。  いえ 近づくのではなく 類型として構図としては まったく同じものになると言わざるを得ないのではないでしょうか?  ○ 梵我一如  ・我:アートマン(われに神霊がやどる)  ・宇宙(世界)の主宰神:ブラフマン(梵・神霊)  ○ 空〈無我〉一如 または 空仏一如  ・我:アン‐アートマン(無我)(ただしのち 仏性をやどすと言う)。  ・宇宙:空(シューナター・無・ゼロ)    ということは 我としてのアートマンを アン‐インストールして アン‐アートマン(無我)と言いかえた。だけのことです。ブラフマンなる神をもしりぞけ 空を持って来た。だけのことです。  どうもゴータマ氏は へそ曲がりであって 消極的に――つまり先行する世界観に反抗するかたちでその――梵我一如説に難癖をつけただけのようです。  ★ ~~~~  「不死の門は開かれた」という文章が気になります。  不死はあくまで、輪廻からの解脱という意味ですか?  ~~~~~~  ☆ もし文字通り《不死》を言うのなら 《空》を《有》――たとえば《有りて有るもの》なる表現――として表わし その神学を打ち建てているべきだったでしょう。  もし《不死ないしアムリタ》が ただ《ありがたい》という意味であるに過ぎないならば 《人びとにはこのわたしが体得したさとりをおしえて果たして理解できるだろうか》などとふざけていないで しっかりとその中身を――縁起説や空観などをめぐってさらに言葉による表現を出来るだけ用いて――明らかにしていなければならなかった。  たとえば 《仏性・ブッダター》について 後世の人びとによっておぎなわれるというかたちになるのではなく そうではなく 自分ですすんで明らかにしているべきであった。  それにしても ゴータマ氏は みなに好かれるのでしょうか。ほとんど誰もけなす者はいないようです。  ひとつには 何ごともその世界観の途中まで説いたというあいまい路線が そのモヤモヤワールドを人びとの頭のなかに形成させて 社会のシガラミに巻き込まれくたびれた人びとにとって 恰好のオアシスとしての蜃気楼閣を得させそこで千年二千年と夢を見続けさせているのでしょうか。  後世の人びとが   一切衆生 悉有仏性  とあとづけたとき――あとづけたから―― 曲がったへそがやっと修復された。と見るべきだと考えます。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 最近、自分がこれまでもっていた 仏教の概念がどんどん崩れていますので ゴータマ非実在説すら考え始めました。

回答No.7

この回答は、縁起説、空の説明をするのではないです。 「不死の門は開かれた」の意味だけ、参考になりそうなものを、URLで。 http://mujintou.lib.net/dharma/bukkyo/sarnath.htm http://www1.kcn.ne.jp/~hk2565/kokoro-223.htm シャカが悟りを得て、 中村「~。この自分自身が味合わせているこのありがたい境地、このまま自分一人で保っていていいのかどうか。あるいは他の人も同じように苦しんだり悩んだりしているんだから共にすべきではないか、という反省もまた心のうちに起こったんじゃないでしょうか」 奈良「たしかに自分がいろいろ悩まれて、そして悟りを開かれて、いわば人生の不安、苦悩というものを克服されたわけですし、世間を見ると悩んでいる方々がたくさんいらっしゃるわけですから、何とかときっとお思いになったでございましょうね。と同時に、なかなか気付かされないものを人に気付かすということの難しさもおそらく身に沁みて釈尊はお考えになったんじゃないかと、私は実は思うんでございますが」 中村「そうだろうと思いますね。本当のこの自分の体得した境地というものを人に伝えることができるかどうかという、そういう難しい問題になるわけですが、おそらく釈尊の心の中にも一種の心理的な反省といいますか、葛藤といいますか、あったろうと思うんです。それが経典の中では、「梵天勧請の伝説」になっているんじゃないかと思うんですがね」 奈良「梵天という神さまが出てきて、どうぞお説法をしてください、と勧めたというエピソードですね」 中村「そういうわけなんです。梵天と申しますのは、ウパニシャッドで最高のものを「ブラフマン」と申します。それは神格化されてブラフマーと言い、「梵天」と訳されておりますが、宇宙を支配する最高の神さまですね。その神さまが出てきて、お釈迦様に向かって、世の人々のために説いてください。「甘露の門を開け」と、そういう詩の文句になっておりますね。「甘露(かんろ)」は元の言葉で、「アムリタ」とか「アマタ」というんですが、これはまた「不死」とも訳されるんです。つまり「不死」というのがおそらく元の含まれた意味だと思うんですが、それをまたインド一般に「甘露」という意味にも使っております。お釈迦様のお花祭の時に甘露のお茶を頂きますですね。それはそこから出ているわけですが、頂いて有り難いもの、快いものという意味です。味で賞する時には甘露と申しますが、そこへ含まれている言葉の意味は不死、つまり人間は死ぬものであり、老いるものであり、やがて消えて亡くなるものである。けれども、不死の境地というものがその中にあるんじゃないか、と。人々も考えてしまったし、お釈迦様自身もそう考えられたんでしょうね。それで梵天が出てきて、不死の門、甘露の門を開いて下さい、とお願いしたと。そこで釈尊は教えを説くほうに一歩踏み出されることになった、と。そういう伝えになっております」 ~~~~~~~~~~ 「ありがたい、心地よい」=「甘露」=「不死」を、同じ言葉(アムリタ/アタマ)で表していたということでしょう。 翻訳するときに、「ありがたい悟りを私たちにも教えてください」=「甘露を私たちにもおわけください」=「不死の門を開いてください」、『わかりました。そうします』ということなのではないですか。悟りを相手に応じて適切に説法する決心がついたということでしょう。 普通の生死の死に対する「不死」ではなくて、深甚の悟りのありがたく・快い内容(?)のことを(アムリタ/アタマ)で表していたんでしょう。 そう考えてから、[お釈迦様は「不死の門は開かれた」(マハーヴァッガ)と、永遠の命を示してくださいました]という表現を解釈すると、永遠の命=悟りとわかるし、四諦がその方法を示していることもわかるのではないでしょうか。 http://www.houkouji.or.jp/houwa_husinomon.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E8%AB%A6

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 翻訳の問題なんですね。

回答No.6

『縁起説』の本当の意味は、仏の弟子でさえ知らない人が沢山存在すると思いますが、我流の解釈ですが、『因果を晦まさない』と言う意味と思います。 人間の目の前には『二つの世界が展開しています。』その内の一つが『真実の世界』でもう一つは『仮の世界です。』 同じ目の前に展開していながら、その世界には『交点がありませんし、また交点があります。』この交点が見える場合に『因果を眩ませない見方』が出来たと表現します、言葉を替えて言うなら、『縁起説』を体得している事を意味します。 『因果を晦まさない』と言う意味は『原因と結果の間に、繋がりを見つける事が出来る。』と言う意味です。結果に対しての原因が分っている、と言う意味です。 全ての結果にはその原因が存在している事です。是は目には見え難い場合が在りますが、その目に見えない原因が、分かると言う意味です。 真実の世界が見える場合には、『我』の計らいが存在しない目で見ています。我の計らいがない場合が『空』です。『我』の計らいで見た世界が『仮の世界です。』言葉を替えて言うなら『頭の中で、自分の計らいに沿うように作り変えた世界』と言う意味です。 頭の中に作った世界は『現実にはない世界です。』ゆえに『仮の世界』と表現しています。『仮の世界』をもっと適切な表現をするなら『妄想』と言います。 原因と結果が、わからない場合では、多分に『自分の計らいが混じっています。』真実を見る目が濁っているからです。 今の教育委員会が頑張れば頑張るほど『墓穴を掘る現象に似ています。』今の政治家が、頑張れば頑張るほど『混迷したり、民意から離れてゆく』現象に似ています。 その共通点があります。『教育委員会の計らいと、教育の本質に矛盾が在るからです。』 政治に関しても同じです。民衆の望んでいる事と『政治家の計らいが矛盾しているからです。』 分りやすく言うなら『教育委員会の本来の仕事は、子供の健全な成長です。』今の教育委員会は『何事も無かったかのように、問題を隠蔽して、自分の身を守り、自分の所得を守る事にのみ腐心していることです。』そのための方法が、問題点を見え難くする事を仕事にしています。 政治家も同じです。国のためや国民のための政治が『自分達の保身のみが優先事項になっています。』自分の計らいを通すために政治家と言う立場を利用している事は、『誰の目にも明白です。』 国のためや、国民のための予算であるならば、この膨大な借金に対して、ボーナスの返上くらいでは『納得出来ない段階に来ています。』 少子高齢化が進んでゆく、近い将来に『誰が借金を返すのかを示していません』政治家が作った借金の責任は、政治家が取ると云う事がない、今の無責任政治家には『退場して頂いて』 責任が付いて回る政治にしてゆく必要があります。任期の間に作った赤字に応じて、ボーナスの返上や財産の返上をしてゆくくらいな、政治家が『今求められている。』と考えるのは、私だけでしょうか? 話が逸れましたが、「不死の門は開かれた」と言う意味は、全ての人間には、生まれた訳ではない事から滅する事がない、と言う働きを持って生まれています。 即ち『命そのものの働き』です。その働きは別な言葉で表現するなら『仏性』です。分りやすく言い表すなら『右脳の意識』です。その機能は『生命維持機能です。』 生きとし生ける者には、全て備わっている機能です。蜘蛛が蜘蛛のままで『蜘蛛として生きる機能です。』桜ならその種の花も色も匂いまでも違わずに再現する機能です。 草でも花でも、牛でも。馬でも、生まれる以前に『学校で習わなくとも、全て備わった形で生まれています。』 人間も例外ではありません、命の働きとの出会いを『悟る』と言う表現をしています。脳梁(意識の根底)で、出会う事を意味します。 『命の働きは』永遠からやって来て、また永遠に帰って行きます。『不死はあくまで』自分を働かせている意識の事を指します。 右脳と左脳は『脳梁(意識の根底)』で、絶えず情報交換し合っていますが、『没交渉』の関係です。その理由は『自我意識には、意識が無くなった事を、意識出来ないからです。』 人間は二つの意識の、交替制で、普通の暮らしがキープされています。仏性は『無意識の底に封印されたかたちで存在しています。』 仏性がどれほど人間に役に立っているのかの例を一つだけ挙げてみます。 眠る場合では『自我意識が無くなってゆきます。』完全に無くなった時『無意識の自分(仏性)が身体も心も支配しています。この事を自我意識は知り得ません。 無意識の世界の主人公が『仏性』です。身体の機能も、心の機能も、行動する機能も全て握っています。 不眠症とは『自我意識単体で』眠りに入ろうとしている事を意味します。出来ない相談です。自我意識が無くなった時に出てくれる意識が『空』と言う意味になるからです。 右脳と左脳の説明を、自分の体験から語っている、脳科学者の動画を紹介して終わりにします。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5

本当に縁起説が悟りの内容なの? ○その通りですよ。 縁起を頭で考えても何の悟りにはなりません。悟りの縁起とは、宇宙が始まる前から現在までを早送りの映像で見れば、縁起がわかるということですね。釈尊の縁起とはそのような縁起ですね。 釈尊の悟りは宇宙ボールができてからのようですから約400億年を早送りの映像で見たということですね。 地球ができてたかだか45億年程度ですから遥か昔から見たということなのです。 言いかえれば、過去現在未来を見通すと縁起がわかるのです。すべてが縁起であるということがですね。 偶然などどこにもないことがわかるということですね。 80年くらいの時間スパンで物事を見ているのではないのですね。80年程度では縁起がわかりませんね。 さて、空が悟りかと言えば、縁起を見るには空の段階が必要ということですね。だから空も悟りの段階なのです。釈迦仏教の悟りの意味は仏典の個々の言葉からわかるものではないのですね。全体を鳥観して始めてわかるものなのですよ。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 縁起と空は悟りの内容という意見ですね。

回答No.3

ブッダは「形而上学的問題について黙して語らなかった」とされています。 「縁起説」は、「輪廻する魂の同一性(生前と死後の魂が同じ)」かどうかに関しては触れていないということです。 ブッダ以前からの「輪廻する魂の同一性」については「あるのでも・ないのでもない」としているようです。 「不死の門は開かれた」に関する背景と、「縁起説および空は本当に悟りの内容ですか?」に関する、ひとつの分かりやすい解説が、下記にありました。 「不死の門は開かれた」でググるとトップにて引っかかってきます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html あと、 http://okwave.jp/qa/q6031948.html も、参考になるかも知れません。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いわゆる無記の立場も 本当にゴータマの思想だったんでしょうか。 別の人の思想だったりして。 それにしても、リンク先の質問 「仏教を捨ててこそ仏陀となれる。」 そういう意見の人もいたんですね。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.2

マハーヴァッガは、日本語だと「律蔵・大品」で探せば出てくるようです。 律蔵と大品、別々の本の場合もあるような感じでした。 いろいろあるようですので、ご自分で探してみて下さい。 悟りの「悟」は、吾心(わがこころ)ですよね。 私(自分自身)の心を深く知ることが悟りじゃないかと思います。 その時に、理(ことわり)があり、それが縁起説や空論ではないかと思います。 No.1さんが書いてあるように、法則性ですね。 不死は、自分が何らかの形でこの世に残る事だと思います。 人間としての形は留めなくとも、生きてる時に起こした波紋は広がり続けますからね。 心理的影響でも物理的影響でも、何がしかの形で生き続けることだと思います。 それを吾心で深く理解した時、死は恐れるものでもなくなりますよね。 自身が到達しないと、怖いものは怖いで終わりになりそうですが。 話しの内容に対しての、理解の深さ(自分の心をよく理解しているか)で 意味が通じる人がいるし、通じない人もいます。 「知ってる」知性より、深く響く「感性」での理解は 自身の心を深く知る必要があり、そこから見出すことは多いです。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 どうやらマハーヴァッガが重要みたいです。 探してみます。

noname#181697
noname#181697
回答No.1

縁起や空性ってのは法則や理法であって、真理そのものではありません。まあ、釈迦世尊は理法や法則を用いて「本当は何も無い」という真理を知らしめようとしたって事です。 仏教で言う不死とは、実在という嘘を看破し、非在という真理に至る事を言います。自分など居ない、即ち無我であると悟る道が、不死への道でもあるという事です。 釈迦世尊が説いたのは、真理とか、絶対の答えそのものではなくて、嘘を嘘と看破する為の理法です。法を灯明として自ら歩めと教えたのは、本当は何も無いという真実には、自力で到達しなければ意味がないからです。 本当は、あなたなど居ないし、居ない者は死ぬ事も無いし、輪廻する事も無い。嘘-嘘=真理。これが仏教です。 ・・・などと思いつきで書いてみる。

noname#195588
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 縁起や空は悟りの内容ではない という意見ですね。

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    生物は輪廻転生を繰り返すが、お釈迦様は悟りをひらくことで、その輪廻の輪から解脱したのだというよなことが、ものの本に書かれていますが、一方で、お釈迦様は呪術や神秘的なものごとを一切禁じ、形而上的な質問には答えなかったとも言われます。 お釈迦様自身が輪廻転生を肯定したり、自身がそこから解脱したことについて語った記録はあるのでしょうか?それとも弟子や後世の創作なのでしょうか?

  • 仏教・四苦について

    仏教における四苦について質問です。 四苦は確か「生老病死」だったとおもうのですが、なぜ「死」は苦しみに入るのでしょうか? もともと仏教はバラモン教が元になっていて、バラモン教の考え方は輪廻から解脱しよう、といったものだったと記憶しています。そして仏陀はその解脱するために四苦八苦を受け入れなければならない、と説いているはずです。 しかし、縁起の法を理解し四苦八苦を受け入れ中道を選んでいくと解脱できることになり、それはつまり「死=苦しみ」でなくなる、ということではないでしょうか? 長くわかりにくい文章で申し訳ないのですが、回答いただけるとありがたいです。

  • 輪廻転生について

    仏教を独学で勉強しています。まだ、初心者ですので判り易くご説明いただければと思います。 私の疑問は、輪廻転生を釈尊はどのように考えていたのかということです。 1.否定しないで悟りへの方便として利用したのか。 2.縁起の考えにより、生前の行いの結果転生すると考えたのか。 3.物質からできている肉体は滅びても分子レベルで分解され、再び他  の生物を構成する物質の一部として生まれ変わると考えたのか。 1-3とは全然違う考えなのか。  そもそも、疑問に思ったのは、「業(カルマ)によって、人は転生する事を仏教では、苦であるとする。解脱することによって輪廻転生から開放される。」と解説書に書いてあったからです。  解脱は精神作用だと思うので、輪廻転生が物理的現象であるとするならば、開放されるなんてありえないと思ったのです。

  • 無の悟りとは単純明快である。

    前回はこれ↓ 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 私にとっては中古品リサイクルショップに売り飛ばしてしましたいほど、どうでもいい論理だが一部の人はこんなもんをいまだにありがたがるようだね。 言葉を整えてみたので、思考可能なつわものから意見が聞きたい。 お釈迦様は昔々のインド社会で、突如信仰に目覚めた。 その内訳は、信仰心こそが我が心そのものだと言う確信であった。 すなわちお釈迦様は神を受け入れたのだ。 信仰心に目覚める事も無いくせに信仰に思慮を巡らせる者どもはとかく噂話が好きだ。 そんなうわさ話に、「信仰心とはそうではない」すなわち君達は信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 そして、自らの信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 そしてどの道無だから一切が無と言う説明のみが信仰に関しては成り立つ。 自らの信仰の道を歩むにあたって、その人生をこのような処世術で終始した。 ただそれだけの事だが、「有りを隠し無と語る」これと「まるっきりそんなもんありゃしねー」この二つが有無の分別となり交錯するのが、釈迦の悟った無の哲学の真骨頂だ。 2500年前の人類の歴史が創造されようとするころ、信仰のみに生きた釈迦の志は画期的であろう。 そのような哲学は十分現代でも通用するが、肝心の彼の言葉お受け継ぐ仏教徒たちは、所詮お釈迦様が「そんなもんありゃしねー」と言っただけの迷信にしがみつき、無と言わしめた本来の、「自らの信仰」これをおろそかにしているのではないか。 お釈迦様自らの信仰では「私は涅槃に赴く」そして君達のそんなもんありゃしねーは「六道輪廻に落ちる」そう言っているのだよ。 すなわち、私こと釈迦の信仰心は、君達にとって受け入れがたい無であると言った。 君達のそんなもんありゃしねーは、要するに当時のインドの土着習慣では輪廻がある。 お釈迦様が語った宗教観は彼に問いかける人々への洞察であり、当時のインド社会での神に対する煩悩や迷いを説明したものである。 すなわち現代日本において仏教的世界観とは、遠い過去の遠い外国の迷信が主体であり、自らの信仰とは違う、それを理解すると仏道とはただ通り抜けるだけの、遊園地のお化け屋敷のようなモノで、自らの信仰心に目覚めたなら捨て去るだけである。 そうして捨て去る迷信が、仏教であり、解脱、悟れば何も語らない、こういう現象となる。 自信満々に言うがね、伝承上の弥勒菩薩たる実力を私は備えておるよ。 しかしそれはくだらないことだ。

  • 縁起からでる意味と陰陽5行

    こんばんはー。 ちょっと質問をー。 以下は、アウトラインとしてですが ぼくらは意味の世界に生きています。それはニヒリズムを考えれば確かだと思うのですが。つまり意味を失っては生きていけません。 物質は物質という意味があります、それは明確に「意識」の外部への投影だと思ってます。それらがただの電子雲だ、と思ってはいません。 で、その意味というものは、矛盾から発生している、のではないか、と思いました。 というより、意味=矛盾、そのものだと思います。 (もう少しベタな言い方だと、「え? なんで?」、という意味のわからなさ、意味わからへん! なんでなの? と思わず叫びたくなる、そういう経験が、まさに意味を作り出している、という) 意味は、矛盾から生まれて、そして、意味はその自己矛盾故に、必ず消えていく、と思うんです。 つまり、意味を、正しいものとして、ぼくが勘違いしている間だけ、意味は成立している、と思います。 意味は、業や、巡りやカルマ、などと言われるように、ネガティブなものと、必ずセットで成立しています。それは切っても切り離せない、というか、マイナスがあるからプラスがある、という意味です。 意味は、理解できなさ、矛盾を、把握して理解しようとした、まさにその瞬間発生する、と感じました。 それは、人の脳の把握能力による、「無」の分裂、と個人的に思っています。 意味が起こる仕組みそのものは、陰陽5行説が僕はかなり正しい、と感じました。 つまり何もないものが、陰陽2つに分裂する、ということですが。 具体的に、縁起によって、矛盾した意味が作成されるところの仕組みを、陰陽5行説は説明している、と思います。 つまり、現実問題、基本的概念は常にペアでしか存在できない、という事実と、あらゆる概念はこのたくさんあるペアの組み合わせによってできてる、というのは、たぶん・・だいたいは、正しいような気もしますが・・・ ちなみにこの概念の現実的に組み合わさり方は、数学の考え方である、複雑系の状態を取っている、と思っています。樹形図的なイメージです。 意味は矛盾そのもの、というのは、別に現世否定とかではありません。 純粋に、意味のメカニズムとしてお伺いします。 縁起などの言葉の意味は、言葉、概念としては少し知ってるつもりです。 縁起はこの世を空だといってます。つまり、意味は「意味がない」といってるとも解釈できます。この世の意味は本質的な意味がないからこその、空じゃないでしょうか? つまり意味のできる仕組みを解くことは、縁起を実感すること、と思ってます。 縁起、と言うような上から俯瞰した視線ではなく、 まさにこの世に、今ダイレクトに生きる人間の視点から、分析したいなーと思ってます。そうでないと実生活でこの概念は使えないなーと思うので。 上のように感じながらも、まだ色々実感するには分からないところがあります。 これが分からないんだ、ということができないのがもどかしいんですが。 理屈が日常生活にまで降りてきてくれない! 何か論理に欠けているところがあります。 イメージとしては、概念としての把握じゃなく、感情や衝動や、そういうものが、理由なく生まれるところかな?? 感情は、無が時間的に分裂した現れ。人格は空間的に分裂した現れだ、と今のところ把握してるのですが、どう思われますか? つまり、現世とは、時間と空間に分裂したものであり、その時空間の性質に沿って、感情と人格、という概念が表れてる、と思ってるんですが、今のところは。 いろんな精神病の事例を見ても、それはかなり当てはまっている、と感じるので。 それらは単に「ない」でも、まあいいのですが・・・ 多分それは、意味の矛盾を感じてるのは、ぼくだけではなく、だれでも70億人みんなそうなんだ、と言うところが実感としてないような気もします。 つまり普遍的な、意味の作成の仕組みが極めて抽象的故に、具体的な外的事柄に依存しない、だれにでも当てはまるメカニズムなんだ、というところかなと。 上の話をふまえて、加えることや、あるいは間違っている所など、あったらと思いました。 まとまりなくてごめんなさい、というかまとめられないので質問してるんですが・・ 自分でも色々勘違いしていることは間違いないんですが、客観的な意見が伺いたいです。仏教的のみの切り口に限らず、ちょっと視野を広げたいなーと。 よろしくお願いします。

  • 無の悟り、無の境地を説明するとこういう事だ

    やあ皆さん、私がいつも言っている事の最新版への更新だよ。 これは私の行っている哲学研究の一部で、質問と言うより研究として意見が聞きたい。 まあ読みやすいかどうかとか簡単な読書感想文でいいよ。 自らの信仰に到達する事は、おおむねどこの社会でも尊敬され、聖人として尊敬されることで古代インドではそれを仏陀と言っていた。 その中で、釈迦という古代の仏陀は無の悟りとその教えという特異な伝承を残している。 この内訳を考察するにあたって、仏陀と承認されるもっともな特徴が信仰への到達である事が重要である。これは西洋の神学や哲学すらも聖人と認める人類的共通項だ。 釈迦の結論はこうだ。 信仰とはわが心そのものであり、それを他者に語る言葉はない。 すなわち無だ。 神学の創立と文明の勃興の熱気あふれる古代インドで、多くを論じるバラモンを指して、彼らの語る言葉には内容がない。 すなわち無だ。 したがって無が結論である。 これを教える事が彼の人生であり、哲学として無の論理から多くの覚者を産んではいただろう。 それは2500年ほど前、文字もなく人類の文明がまだ幼かったころの話だ。 仏教の経典の最も古い物は2000年ほど前の編纂だ。 その間500年の口伝による伝承が有った。 この間、釈迦の教えはインドの風土で変化し、無の悟りの内訳を理解する事は困難になっていた。 その口伝500年の結論で新たに浮上したのが「空」の言う宗教的概念だ。 もはや源流の途絶えた無の概念は判らなくても、私の心は信仰で潤っている。 これは、そのまま信仰の自覚であり無に代わる仏教における到達点だ。 そのほかに輪廻転生説とは、釈迦の生きた時代以前より脈々と受け継がれるインドの信仰の源流であり、口伝500年を釈迦の教えが伝承されるにあたって、語り継ぐ古代インド人にとって、論理の整合性を保つため、無の教えとインドの伝統とで接点が必要になったため、主に後世で補足されたことであろう。 自らが涅槃に立脚した釈迦自身は、輪廻の伝承と異質の独自の信仰心を持っていた。 生前に何らかを語った事はあったかもしれないが、伝承されるにあたって、釈迦の言葉や行いよりも、語り継ぐ者たちにとってこそ輪廻の教えが必要だった。 そこで伝説化されているのが、 私は涅槃に行き二度と生まれかららない。 君達は何度も生まれては死ぬ。 それは哀れな事だ。 こうした慈悲の行いである。 さて、君たちが賛同するかどうかはともかく、この無の悟りへの独自見解は実に論理的でいままでになかったものだろう。 私はこれをまとめて本にでもするつもりで研究を続けているんだ。 研究ノートはもう本一冊分を超えるほど君達の協力で集まっているが、私はこの時間酒に酔っ払って、君達をオカマバーのホステス扱いして哲学しているんだ。 この姿勢、闇の仏陀黒き明星では、ご存じのとおり面白い読み物にはなっても、喜んで心が潤う良著とはならないだろう。 黒き明星の癖は私にとって深刻でね、気楽で書きやすい文章がアニキなツンデレだ。 まあ、それをぼちぼち改めていこうかと作文の練習だ。 色々と相談に乗ってくれ。

  • 還暦からの悟りについて

    「われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか」 フランス人画家ポール・ゴーギャン そして、 「般若心経を日本語にした解説」 般若心経 初音ミク(インターナット検索) さらに、 「カルシュウム・カリウム・ナトリュウム・水道水を混ぜた水槽で、海水魚も淡水魚も 共存できる。又、抗病性もある。好適環境水の論文を発表」 山梨大学生命環境学部生命工学科 若山照彦教授 「水道水には、上記のほかマグネシウムや硬度・塩素(カルキ臭)等さまざまな成分 が含まれている。」 以上を根拠(参考)として、私論を述べました。 生物について。 1 自分はどこから来たのか、について。   地球が誕生し、海や陸地に細菌(プランクトン)が溢れた。   細菌は地球から栄養分を吸収し、海の魚・陸地の動物・空を飛ぶ鳥に変化し、   肉体のない植物(草・花・木)も繁った。                   時を経て、   肉体を持った生物は物事を考えたり、必要な物・声・記号を作ったりする知識を   身に付けた。他に黴菌も進化しています。 2 自分は何者なのか、について。   細菌が長い年月を経て進化し、肉体と知識を持つことができた生物、   人間も「好適環境水と空気」だけで生き延びられる日が来るかもしれない。   この世の全ては、人間の意識が創った錯覚なのか。   人間は便利な物を作り運動もしなくなり、将来は退化し脳だけの物体へと変わ   りゆくのだろうか。 3 般若心経からの悟り、について。(生・老・病・死)   「諸行無常の習わしは、秒と粍とが繋ぎなる。過ぎし日は夢の又夢、我が身は    空に無心なり」ならば人生(自分の趣味等を記入)笑うのもいいじゃないか。   「善悪強弱は我が心に有り、愛を守る責任から欲へ、欲の未練が悩み苦しみへ。」 4 自分はどこへ行くのか、について。   やがて肉体を持った生物も肉体のない植物も老朽化して、この世に必要とされなく   なれば、死を迎えるであろう。肉体は土葬・火葬・海葬いずれにしても海に陸地に帰   り、細菌となって新たな生物と生まれ変わり輪廻転生される。細菌(細胞)が、この次   は何になるのであろう。                                  以上   この私論について、違う説があれば知りたいです。