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フーコーの表象論について教えてください

serpent-owlの回答

回答No.3

 少々事情があってしばらく回答が書けませんでした。すっかりお待たせしてしまって申し訳ありません。  最初のご質問から。  フーコーは「representation」を用いています。これが翻訳される際に「表象」となったり、あるいは彼の意図を汲んで「代理」と訳されたりします。「代わりに置かれるもの」のような意味合いです。  そして「像」「イメージ」と考えてよいかということですが、ここはむしろ「世界を切り分けた枠」という比喩でどうでしょう。フーコーは「タブロー(表)」という言葉を用いています。「一覧表」みたいなものです。  博物学を例にとります。「生物」という全体をまず考え、これをまず「動物」と「植物」に分けます。「動物」をさらに「脊椎動物」「節足動物」…などと分けます。「脊椎動物」をさらに「哺乳類」「爬虫類」と、「哺乳類」をさらに…こうしてやっていくと、生物全体は「種」という「枠」に切り分けられていきます。  こうした「枠」は一つ一つが部品となって「生物の分類表」という壮大なタブローを構成することになります。こういう形で、博物学は生物の世界を「切り分けて枠に整理している」のです。そしてこの「枠」の一つ一つが「表象」です。表象と表象とが支えあって世界全体を構成している「かのように見える」ようにしているもの、です。  が、いま「かのように見える」と書きましたように、その「世界の切り分け方」は他にも考えられる切り分け方の一つにすぎません。切り分け方が変われば、おのずと見え方も変わる、すなわち「表象」のありようも変わるわけです。  つまり、「表象」というのは、「あるものを見えるようにするもの」でありながら、同時に「他の見え方を隠蔽する」という作用をも発揮しているものなのです。もっと短く言うと、「見せることで隠す作用をはたすもの」、です。  前回、「見えているものが、本当に見えているとおりであるかどうか」という反省が現象学から始まったと述べましたが、フーコーの考え方も、いちおうこれを引き継いでいると言ってよいでしょう。  すると、2番目のご質問にも足がかりが得られませんでしょうか。  「絵画が表象するもの」というのは絵画の画面に見えているものを指し、「絵画によって表象されるもの」というのは画家が描こうとした対象物を指します。フランドル派みたいな写実的な絵画では、前回書いたように絵画そのものは「透明なガラス板」になることを志向します。画家は、自分が見たものと同じものを鑑賞者にも見せようとします。ここでは「絵画の中のもの」と「画家が見ているもの」とを一致させることが目標となっています。  それが19世紀には崩れてくるということでしょう。この過程は前回挙げた『闇の光』でも紹介されています。特に印象派の登場によって、絵画は「ガラス板」ではなくなって「絵画の画面そのものが自己主張を始める」ことになるのだ、と。印象派では、対象を忠実に描き取るばかりではなく、画家の「印象」も画面に投影され、ある場合はぼんやりと滲んだ画風になり、ある場合は微細な「点」に分裂・解体された画風になります。画家の印象を投下された画面(表象するもの)は、もはや「表彰されたもの」と一致しないのです。  引用されている箇所での「表象」という語の意味合いは、つまり「表わす」という程度の意味でしょう。フーコーが使っている「表象」ほど、ややこしいことはないと思います。  さて、3番目。  構造主義ですか。すると1番目に戻る部分が出てきます。  「構造主義言語学」と言えば、おそらくソシュールのものです。これをこの場で詳述するのはかなり苦しいのですが…、とりあえず必要な範囲だけ何とかやってみましょう。  1番目のフーコーの話に引きつけて言えば、「言語もまた世界を切り分けたタブローだ」ということです。これも例を挙げましょう。「虹」です。日本では七色ですね。英語圏では? 六色なんです。さらに、リベリアあたりの少数民族、バッサ族の言葉では、なんと「二色」。いいですね、おおらかで。  人間の目に見えている自然現象としての「虹」は同じものです。なのに、民族によって「色の分け方」がちがう。これは…もちろん民族ごとに目の良し悪しがあるという話ではありません。要は、「同じ現象を切り分ける、その切り分け方がちがうのだ」ということです。切り分けられて出来た一つ一つの「枠」が、フーコーの言い方で言えば「表象」ということになります。(ソシュールは「記号」「記号作用」といった言葉を使いますが、)  美学との間にどの程度の影響関係があるのか、あまり知りませんが、ソシュールの言語学は現代思想の最も重要な源泉の一つであり、最も基本的な土台になっているものですから、一度ご覧になっておかれてはいかがかと思います。丸山圭三郎さんの『ソシュールの思想』が、おすすめできます。  では、お待たせしたことにつき、重ねてお詫び申し上げます。

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