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旧軍記念写真の修整

昭和12年頃に撮影されたと思われる祖母の兄の記念写真があります。 陸軍大尉を中心に少尉7人が皆軍刀を持って写っています。 ところが、襟章部分が修正して消されています。当時、家族に送った記念写真でも、所属を秘匿する必要があったのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

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  • pem42391
  • ベストアンサー率52% (70/134)
回答No.2

もう必要にして十分な回答が出てますけど、補足の意味で余計なことを書きます。 昭和12年=1937年だと陸軍の軍服はまだ立襟で、階級章は肩に付いているデザインですね。襟には前の方だけ俗に「鍬形」(くわがた)と呼ばれる、こんな形→「Σ」に先が割れた兵科章という布切がついていて、その色で赤は歩兵、黄色は砲兵・・・などと兵科がわかるわけです。そしてその上にさらに算用数字の徽章が付く場合、この数字は連隊番号を表します。だから赤い「鍬形」の上に1という数字が付いていたら歩兵第1連隊、黄色の上に10なら砲兵第10連隊と、一目見てすぐわかるわけです(白黒写真では色に関しては、ちょっとわかりづらいですけど)。 質問で書かれている写真は、その算用数字を修正で消してあるんでしょうか。目的はもちろん所属部隊の秘匿だと思いますが、私は個人の記念写真でそういう例を見たことがありません。おそらく個人の写真では少数派ではないでしょうか。新聞・雑誌などに載る報道写真の場合なら広く人の目に触れるので所属部隊のヒントになるものや、高級将校の階級章(指揮官が誰か知られるの良くないらしい)に修正が入るのは珍しい話ではありません。キーポイントは「送った」と質問文に書かれていること。郵送するのであれば写真が誰の手を通るか(誰に盗み見られるか)わからないので写真館が気を利かせたか、写っている皆さんが将校ということですから、さすがに防諜(ぼうちょう=スパイに情報が漏れるのを防ぐこと)の意識が高くてそういう注文をしたのかもしれません。もし外地で撮って送った写真なら、なおのことですね。 昭和12年といえば日中戦争が始まった年で、この年から部隊名の秘匿はとても重要になり、それまで「歩兵第15連隊、第3中隊」などと普通に言っていたのを、指揮官の名前を使って「佐藤部隊の田中隊」という風に呼ぶように変えました(師団や旅団は「兵団」、連隊と大隊は「部隊」、中隊と小隊は「隊」と呼びます)。実際に連隊の番号が無くなったわけではないですが、普段は番号を口にしないようにしたわけです。しかしながら将校の人事異動というのは昔から短期間で頻繁にあり、しかも戦争では戦死や重傷で指揮官が交代することも増え、そのたびに部隊の名前が変わっていては不便なので、戦争が進むにつれて所属部隊の大元の単位である師団(場合によっては旅団)に、第1師団は「玉」兵団、第2師団は「勇」兵団、第10師団は「鉄」兵団などと通称号をつけて、その配下の部隊に番号を割り振り、たとえば第1師団の歩兵第1連隊は「玉5914部隊」、第10師団の歩兵第39連隊は「鉄5446部隊」などという通称で呼び、わかりづらくしました。

ytrewq
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おっしゃるとおり立襟の軍服です。 鮮明な4Lくらいの大き目の写真なのに、襟章の部分が不自然に塗りつぶされている感じです。 祖母は亡くなっており、どのように受け取ったのかはわかりません。 撮影場所は不明ですが、背景に灯篭が写っていて戦地のような感じがしません。 もし内地であるなら、駐屯地の場所は明らかなので、所属を隠す必要は無いように思います。やはり外地から送ったので、所属をわからなくしたということでしょうか。 

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その他の回答 (1)

回答No.1

所属部隊は最高ランクの軍事機密でしたよ 手紙もそうですが 場所は軍事機密で明らかにできなかったので どの戦地にいるかとか書けなかったそうです

ytrewq
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

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