• ベストアンサー

平安時代末の法要(仏教儀式)

neil_2112の回答

  • ベストアンサー
  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.4

まず参考文献について。 もうご覧になったのかも知れませんが芳賀登『葬儀の歴史』、これは名著ですが、しかし包括的でカバーする範囲が広いので、ご期待される内容部分についてはあまり詳細とはいい難いと思います。むしろ、天皇と平安貴族の葬送儀礼については、新谷尚紀『日本人の葬儀』(紀伊国屋書店)、勝田至『死者たちの中世』(吉川弘文館)、水藤真『中世の葬送・墓制』(吉川弘文館)、などをご覧になるほうが具体的なイメージが掴みやすいと思います。 それぞれ重点の置き方は少しずつ違っていて、例えば新谷は11世紀初頭に没した一条天皇の例を引きながら民俗学者として現代につながる習俗の視点で分析していたり、勝田は院政~鎌倉にかけての天皇・貴族の葬送の様子を葬列や葬場の詳細をあげながら概観しているなど、少しテーマが異なりますが、およそ質問者氏の期待されるものはカバーされているのではないかと思います。 葬送についてごく簡単にアウトラインを書き出すと、以下のようになると思います(上記文献に書かれていないところは注を施しました)。 まず、貴人の病床の時点では快癒を祈って真言による加持祈祷が盛んに行われたほか、天皇の場合には大赦や造仏・造塔なども行われました。 (注:大赦は既に律令時代から行われていた歴史のある行為で、当初は一種のアニミズム的感覚にもとづくものでした。つまり死刑の執行など生命を毀損することが農作物の成長を阻害し、ひいては潤滑な国家運営に悪影響をもたらすと考えられたために、鎮護国家と不殺生が結びついて、特定の時期には刑が執行されなかったり、軽減されたりしたのです。ただ、時代が下ったこの時点での大赦は、寺の建立などと同じで権力者にとっての一種の宗教的滅罪のため、と考えたほうが良いと思われます。仏教的作善によって罪穢を落とし、病苦を除こうとしたのでしょう) 死亡が確認されると加持祈祷は終了します。死亡の判断はこの僧侶によって行われるのが専らでした。陰陽師との相談のうえ、入棺の日時や山作所(やまつくりしょ、葬場兼荼毘所のこと)など葬送の詳細が決定されました。枕直しなど一定の儀礼を経て沐浴・入棺が行われます。葬送当日は地鎮が行われ、若干の読経を経て葬列は夜間に屋敷を出発します。これにあたっても塀をこわして出るなど、近年までの民俗事例に通じる、恐らく霊の帰還を怖れたためと思われる儀礼がありました。 棺は左右に高欄を設けるなどした輿や車に乗せられ、松明や香、幡などを手にした者たちと共に、山作所へ向かい、棺を垣や幕などで隠した中で読経・呪願が行われ、荼毘に付されました。火葬にせず、玉殿と呼ばれる施設を設けてここに封印する葬法もありました。宅での読経などよりも、葬場、火葬に際しての読経真言のほうが重視されたのはひとつの特徴です。 (注:日の吉凶や山作所造営の方角の是非など、諸々の占を問うのはかなり重要なことでした。またタブー意識の極度に発達した時代ですから、誰にどの程度忌がかかる(=ケガレを被る)のか、従っていつどこでどのような禊をすべきかなど、関係者にとっては切実な問題だったようです。 喪の一報を聞くと、挙哀(ミネ)などと呼ばれる一定の儀礼が関係者個々に行われることが律令時代から一般的で、内容ははっきりしませんが、服喪の開始にあたり悲しみの儀礼的な表現を行ったようです。ミネは発哭などとも書かれますから、儒教の「礼記」に説く「哭」が形を変えて取り入れられていたのでしょう。出先で遅れて崩御の知らせを聞いたときなど、いつから発喪なのか、どうミネすればよいのかなども大問題だったようですが、既に平安後期には、遺詔によってこれを行わない場合も多かったようです。 火葬以外の葬り方は、古代の殯(モガリ)という伝統的な風葬型の貴人の葬法にならったものでしょう。喪屋を設けて舞楽や供膳などの奉仕を行うモガリは、蘇生を祈った行為、とする学説もありますがこれは実態にそぐわない解釈で、長い場合には何年にもわたりました。貴人の間で火葬が行われ始めるとすたれるのですが、平安末期でもまだその精神的伝統は残っていたと思います) 余談にそれるかも知れませんが、平安時代は「臨終」が重視されるようになった点が重要だと思います。臨終の正念が極楽往生の肝要な条件とされたために、最期まで正気を保てるよう臨終の苦痛を取り除くことが重要になり、勢いそれ以前から写経や誦経など平生の功徳が重視され、逆修(預修)と言われる生前修行が大事になっていったからです。 宗教民俗でいう擬死再生(一旦死んだことにしてそれまでの罪穢を落とす)と通じるものですが、平安時代にはもう大勢の貴族を集めて寺で48日間の講経などをした逆修法要の記録があります。「地蔵本願経」の説くところによって、死後の功徳を生前に積んでおこうとしたものですが、こういう感覚が広まったことは、結果として追善供養、つまり「他人による、死後の作善」を後押ししたことでしょう。 また、最大の功徳ある行為として、臨終の病床での出家が広まったこともとりわけ重要です。 聖武天皇などのように「三宝に帰依」し、生前に出家した天皇の先例は多いのですが、病床での剃髪授戒、つまり出家は(当初祈祷的意味もあったでしょうが)貴族も含めてこの時代にかなり一般化します。やがてこの出家が間に合わず逝去直後に行われることになるのですが、これが儀礼として根づいて「葬儀のなかでの出家」として定式化し、後の鎌倉時代以降の「葬式仏教化」の下地を準備したからです。 以下は追善供養について。 平安後期だと、天皇・貴族の間で一般的だったのは一周忌までの供養でしょう。律令の服忌令では、父母の忌は近親者にとって重服と呼ばれ1年間の服喪となります。これが元となって一周忌までが重視されました。 しかし、だいたい平安時代の中後期頃より、それまでの呪術的な慰霊や霊威への対抗儀礼から、徐々に追善儀礼としての先祖供養のウェイトが高まってきます。これに従って、平安時代もかなり末期の頃になると、いわゆる十仏事の法要が導入されて、仏教主導型の死者供養が行われ始めるようになってくるのです。 十仏事というのは、仏教の中陰(これはあまり正統な仏教思想ではないのですが、中国で確固たるものとなります)に百日目、満1年、満2年の法要を加えたものです。この十仏事は、基本的には儒教の考え方と、地蔵信仰と関係がある「十王生七経」という偽経(中国で創作された経典)に説く世界観をベースにして生まれたものです。 この経典では、冥界の亡者は死亡から七日毎に7回、さらに百日目、1周年、3回忌と合計十回の定められた場所にそれぞれ異なる王のもとに出向いてその審判を受けること、それから審判にあたっては遺族の追善の度合いも斟酌される、ということが記されていて、この経典が中国における追善思想に決定的な役割を果たしたと考えられます。 実際、儒教でも百日、満1年、2年はそれぞれ卒哭、小祥、大祥と呼ばれて重要な節目です(元もとの儒教は「いずくんぞ死を知らん」ですから現実重視でしたが、体系化されてからの儒教では亡者のための祭礼という「孝」が天地の道理と位置づけられたのです)。 その後、鎌倉時代のうちにさらに7、13、33回忌が加わって、15世紀頃には十三仏事が成立します。これが徐々に民衆にまで広まっていくのですが、その成立は、寺院側による教化的、経済的な理由による積極的な働きかけだけが理由ではなくて、むしろ民衆の側の心情によって広まった部分も大いにあります。 詳細は避けますが、結局人々が無意識に信じるところの「死霊から祖霊へと転換していくための期間」が、ちょうど33回忌にマッチするなど条件が合致したために日本では長期の死者供養が根づくことになりました。江戸時代中期までには、17回忌や25回忌も設けられ、「多すぎて負担が大変」などという反省や批判も起こりつつ、追善供養は全国の庶民にも一般化していきました。 天皇・貴族に対し、庶民の葬送儀礼は史料が少なく、不明の点も多くあります。ただ概していうと、葬儀はじめ、儀礼的なことはほとんど行われなかったでしょう。 例えば圭室諦成『日本仏教史』(法蔵館)などによれば、念仏結社であった二十五三昧講などが発展して無常講などという名前で庶民組織が生まれ、庶民の間でいわゆる互助的な葬儀が行われるようになるのがせいぜい室町初期の頃です。追って真言宗ら密教が葬儀に乗り出したとされます。 また禅宗では、私の手持ち史料では、僧でない在俗者の追善のために拈香法語(上堂という説法の際に、香を焚き法語を述べて特定の亡者を追善する)が行われるようになるのがせいぜい14世紀のことです。 現在ある寺院のおおよそが実質的には中世後期以降の成立で、惣村などという一種自立的組織の成立をまって、庶民の葬祭仏教受容が始まったといっていいわけです。従って、平安後期ではやはり僧侶がタッチする庶民の葬儀はまだ行われず、よく言われるようにあまり儀礼を伴わずに死体遺棄に近かったというのが現状でしょう。河原や山すそで、「餓鬼草子」に描かれるような一見かなり粗雑な風葬、場所によっては水葬が行われたわけです。 空也などの系列をひくような半僧半俗の遊行僧、何々聖(ヒジリ)と呼ばれたアウトサイダー的仏教者たちが、鳥辺野など都近くの葬場で供養を散発的に行っていたことは事実です。しかし庶民が仏事を強く相求めたわけではなさそうですし、いわゆる不浄の感覚から庶民の葬祭に関わる僧侶が一部蔑視されたりしたのも歴史的事実です。 (以前に、死体の扱いを含めて墓について簡単に回答していますので、宜しければご参照ください: http://www.okweb.ne.jp/kotaeru.php3?q=448694  「お墓の歴史」。また、前掲『死者たちの中世』には死骸の溢れる都市の様子、さらに後代の「坂非人」らが死体運搬など葬送に関与するようになってくることでその死骸が整理されていった、という論考もあります) 長くなったのでこの辺でもうやめておきます(笑)。仏事の歴史も体系的に理解することが大事だと思いますので、是非上記参考図書をご一読なさることをお勧めしたいと思います。

alchera
質問者

お礼

感涙、です。 まさかここまで完璧なお答えがいただけるとは思ってもみませんでした。わたしの知りたいことが全て網羅してあります。ご回答でアウトラインはばっちりです。何も不足はありません。 ご紹介いただいた参考図書が、3冊とも近所の図書館で手に入りそうなことも嬉しい限りです。泣けてきます(@_@;)。 ご回答に長い時間をかけていただいて、本当にありがとうございました。これほど感動的なご回答にめぐりあえたのは幸せです。 質問者さまがどちらの方にお住まいか存じませんが、四方に向かって感謝の合掌をさせていただきます。 ご回答本当にありがとうございました。

関連するQ&A

  • 平安時代のゴミ箱って?

    私は平安時代に興味があるのですが、この間ふと「平安時代の 家にゴミ箱ってあったのかな?」と疑問に思いました。家庭で 出たちょっとしたゴミを捨てるゴミ箱のような道具はあったの でしょうか? 平安時代はリサイクルが頻繁に行われていた事は知っていま すが、それでも再利用できないゴミもあったと思います。そ ういうゴミはどうやって処理していたのでしょうか?それとも、 今よりもずっと深いリサイクルの知識があって何でも再利用し ていたのでしょうか?どなたか分かる方がいらっしゃいました ら答えてくださるとうれしいです。

  • 仏教の法要について(日本と他の仏教国は違う?)

    人が亡くなると、通夜、葬儀、 四十九日、初盆、 一周忌、三回忌・・・・と法要が行われますが、 一周忌以降の法要の意味は?と常々疑問がありました。 もちろん、法事は身内が集まって故人を偲ぶ場、コミニケーションの場としてはいいでしょうし、 故人を偲ぶ心、先祖を思う感謝する心は大切にしたいとは考えますが、 故人と最も血の繋がりのある方が高齢で病気や障害を抱えると、結局その子供たちが大変な思いをして、遠方から同伴して来たり、故人との繋がりの濃い人は皆亡くなっている・・という様子をみると、そもそも、四十九日以降「宗教行事として」「法事を行う」「僧侶を招いてお経を唱えて頂く」という事が必要なのか?と思うのです。 そんな折、知人から「日本以外の仏教国では、法事を行うのは四十九日まで。それ以降一周忌、3回忌・・と法要を行うのは日本だけの事で、それは日本の仏教界、お寺の都合。」と聞きました。 本当のところ、実際はどうなのでしょう?  どうぞご教示よろしくお願いいたします。

  • 平安時代の自死について

    年間3万余人もの自殺者大国。この日本の平安時代の自死は一般的にどんな状況だったのかなと、 源氏物語の浮舟を読んでいて疑問に思いました。仏教の死生観の影響下、貴族階級の人は出家に走る人が多いようですが、キリスト教のように自殺は罪悪と考えられて墓に埋葬されないこともあったのかなどに関してご存知の方がございましたらお教えください。

  • 日本人の心のふるさとは平安時代なのか?

    現在折々に触れる伝統行事や事物で、一番感じる時代というのは何時代なのでしょうか?たとえば、端午の節句のよろい飾りなどは、あれはやはり平安時代の大鎧のような大げさなものが多くないでしょうか。戦国江戸の戦闘機能的なやつは、実はあまりなかったりしないでしょうか?百人一首にしても、やはり平安を懐かしむかのような装いです。伝統芸能や祭事も、やはり、江戸近世の装いというよりは、古代中世の趣を大事にしているように思われます。 こう考えると、すでに江戸時代というのは、われわれの時代と同じく、平安の昔を模範においていた、みやびの様式は今(江戸時代)でなく、7百年か前の平安朝であったということにならないでしょうか? やはり、事物装束様式すべて「絵」になる要素があります。 しかし、なぜ古代はみやびな装いや振る舞いがあったのでしょうか。普通古代より近世のほうがより豪勢になる気がするのですが(欧州王朝など) そういうわけで、よりみやびなものを感じる古代、特に平安朝辺りに、日本人は知らず知らずdnaの発祥を感じているのでしょうか、あるいは製品化伝統かされているのでしょうか?

  • 平安時代に話されていた人々の会話

    どうしても、興味本位ではありますが、平安時代や江戸時代など昔に話されていた言葉を録音したものや 昔の人々の様子を録音した映像を見たいです。 一応一通りYouTubeの方では、 調べてみました。 特に復元平安語?は感動しました笑 もっと、昔の人々の話されていた日本語を聞いてみたいです。 写真ではなく、映像もあれば、うれしいです。 是非、そのようなサイトがあれば、紹介して頂けないでしょうか? よろしくお願い申し上げます。

  • 平安時代の一般人について

    「平安時代」というと、 私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、 あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、 誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね? 平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。 いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。 平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、 特に気になるところを。 1.平民の職業ではどんなものがあったのか。   中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。 2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。 3.一般人と貴族が交流することはあったのか。   貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。   よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。 4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。 5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。 6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。 質問が多すぎてすみません。 レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、 どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

  • 仏教が好きですが、あまり経典に関心がありません。

    私はブッタのことばが好きで毎晩読書していますが、それ以外の仏教関連の本や経典、経文には全くといっていい程興味が出ません。 例え読んだとしても、読んだかどうかの記憶もありません。 信仰心は持っていると思います。 他にも儒教の本や歴史書、平安時代の古典も読みますが、そちらは記憶が早くすぐに流れを理解出来ます。 これって仏教が私にとってそんなに重要ではないからですか? なんかよくわかりません。

  • 仏教について教えて下さい。

    仏教系の本を読んでいて、「生ずれば生ず、滅すれば滅す」 というような言葉があったのですが(うろ覚えなのですが) その時は理解できず、頭の隅に置いていました。 しばらく経ってから、「あれはとても重要な言葉だ。」 と思い図書館に行ったのですが、貸し出しの履歴は無いと言われ、困っています。 ネットで調べたのですが正確には 「此れあれば彼れあり、 これ生ずれば、かれ生ず。此れなければ彼れなし、これ滅すれば、かれ滅す」 という言葉のようです。 素人が理解できるような易しい内容だったと思います。 どのような本に書いてあるか、分かる方いらっしゃいましたら教えて下さい。 宜しくお願いします。

  • 法要が済んでから訃報をきいたのですが・・

    夫の祖父が亡くなり法要(お通夜、お葬式)が済んでからメールで知らされました。 私たちは海外に住んでいるために駆けつけられません。 先ほど電話したら9日になくなったようです。 以前やはり夫の祖母が亡くなったときも同じように知らされ 私が実家に話し、実家からお香典を送りましたが義両親としてはそこまでしてくれなくても・・という感じだったようです。 義両親はあまり形にこだわる人たちではなく、もちろん法要などはしているようですが、大げさなカタチを好まないタイプです。 今回、再び訃報を聞いて私の実家から香典を送ってもらうかどうか悩んでいます。 私の実家は(夫家族から見たら、たぶん)古い考え方の家なので、形にこだわるというか、訃報を聞いたらお香典などを送ると思いますが・・ 夫実家にとって返ってメイワクだったら、どうしようか・・と思って実家(私の実家に)に話そうかどうか悩んでいます。 ちなみに夫実家は神道で私の実家は仏教なのでしきたりなどあまりわからないのですが・・・ お知恵をお貸しください、よろしくお願い致します。

  • 節句・平安時代の11月11日について

     Wikiによると、江戸時代に 「日本の宮廷において節会と呼ばれる宴会が開かれた。年間にわたり様々な節句が存在しており、そのうちの5つを江戸時代に幕府が公的な行事・祝日として定めた。それが人日の節句、上巳の節句、端午の節句、七夕の節句、重陽の節句の五節句である。」  とあります。  1月1日、年初としての元旦の行事が多すぎ、1月の節句として1月7日の人日の節句に代えたとするなら、その後の節句は、3月3日・5月5日・7月7日・9月9日となっているので、自然に思えます。  そこで質問です。  公式な節句としては定められていないものの、11月11日を節句として祭る習慣が、一部ではあった可能性があるのではと思うのですが、実際のところはどうなのでしょうか。    平安時代の慣習に詳しい方、宜しくお願いします。  また、日本にはなくても、~時代・王朝の中国では、11月11日を祭ったというような事例があれば教えてください。