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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「敵がいる!」←火縄銃ですぐ撃つ?)

敵がいる!? 戦中の火縄銃での戦い方を調査

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代末期の戦い方を想定し、火縄銃で侵入者を撃つ方法はあったのか?
  • 大坂の陣以降の戦いでは敵を見つけたら即攻撃するのではなく、列を組み指示があってから撃つ戦い方だった可能性がある。
  • ケガをして図書館に行けない状況で、戦中の火縄銃の戦い方についての情報を求めて困っている。

質問者が選んだベストアンサー

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  • k16399638
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回答No.9

自分の陣営が数人の敵兵侵入によって危なくなっているような戦況では、逃げるを選択するべきです。発砲により自分の位置を敵に暴露するのは、懸命とは言えません。 また、陣営には指揮官がいるはずですが、指揮官の許可なく弾をこめることは御法度です。それ以前に、火縄の火口に点火する命令がでていないといけません。 この火口の維持が当時は大変で、鉄砲は天候に左右される兵器でした。なので、物見が火口が点火され、弾丸が込められた鉄砲を手にしている、という条件が整っていないと、発砲そのものが成立しません。 とっさに発砲しても、命中するのは一人です。残りの敵兵がこっちに来ます。弾を込めるのには熟練者でも15秒かかります。当然敵兵は、発射された鉄砲の再装填に時間がかかることを知っています。 当時あったかといえば、ありました。断言しましょう。 火縄銃が日の本に世界一存在した時代です。そして戦はそこら中でやっているわけですから、ないほうがおかしいです。 列をくんで指揮官の号令で発砲というのもありますし、スナイパーもいました。ただし、刀や槍とちがって準備が必要なので、とっさに発砲は極めてレアなケースだと言えます。 当時の鉄砲が威力ないというのはまちがいです。これは断言します。発射手段の進化はありましたが、織田信長の使った鉄砲と、ナポレオン・ボナパルトの軍隊が使った鉄砲、さらにリンカーンの北軍が使った鉄砲の、発射された弾丸の威力・性能は基本的に同じです。 当時の弾丸は今と違って鉛そのままだったので、命中すると変形するので、殺傷力が非常に高いものです。今日でも変形する弾丸はありますが、アメリカですら一般には販売していません。 というか、ここで50メートル先の南蛮甲冑を本当に撃っているので見てください。 http://www.xn--u9j370humdba539qcybpym.jp/archives/82 私は個人的にここ知っていましたが、知らないなら検索位してから回答するべきであると思います。

iwan2no
質問者

お礼

とっさに発砲、は当時の日本における戦での火縄銃普及の状況から考えると無くは無い、だが非常に稀なケースであり、やはり指揮官の指示なくしては発砲はご法度だろう、ということですね。 そうなのだろうなあとは思いつつ、大坂夏の陣は特に混乱を極めた戦とありまして、敵味方が非常に混戦しただけでなく、味方軍だけで込み合ってしまい前に進めなくなるほどだったそうなので、そんな時にきちんと整列して攻撃できたのだろうか?と不安になっておりました。 少し自信を頂きました^^ 当時の火縄銃の威力が実はけっこう殺傷能力があったというのは伺い聞いておりましたが、命中すると変形とは…イタそうですね、恐ろしい…; ご回答ありがとうございました。

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その他の回答 (10)

  • k16399638
  • ベストアンサー率33% (342/1035)
回答No.11

9番です。連打失敬。 火縄銃には非常に大きな欠点があります。火縄の火口を維持していると、その焦げる匂いで自軍の位置が露呈することです。 当時は木綿か竹の筋で火縄を作っていました。竹は濡れると乾きにくいのですが、安いという利点があり広く使われていました。木綿常備は雑賀衆のような鉄砲に特化した一部の集団です。 行軍中に火口を維持して、遭遇した敵に咄嗟発砲も考えにくいことです。書いたように火口を維持して行軍することは鉄砲がくることを知らしめて移動しているようなものであり、自軍に対抗手段がない場合、鉄砲の届かない位置に移動するのが普通です。当時は塹壕という概念と、伏せるという概念もないからです。 あと、咄嗟射撃ができない理由があります。火縄銃は火縄の火口を火皿の火薬に接触させ、火皿の火薬が導火し内部の発射薬に点火、発砲となりますが、撃つためには火皿を覆っている火蓋を開けなければなりません。つまり、敵発見、火蓋をあける、照準、トリガー・プル、発射となるわけですが、咄嗟にこれだけやってかつ効果のある射撃、つまり効力射にできるのは、もう雑賀衆しかいないとおもいます。 火縄銃は装填した状態が非常に不安定です。まず、初心者が弾を込めた場合、銃身から転がりこと多々ありです。また、火皿に火薬を盛るのにもコツが必要で、その火皿の火薬が落ちたら発砲できません。それを防ぐための火蓋ですが、落ちそうな火皿の火薬を押さえつけているので、開けるとき、グリッ、という感じです。なので、 火蓋を切れ という指揮官の命令で、普通は大勢でつかうこと奨励の兵器なのです。で、「火蓋を切った」ら、決着つくまで引っ込みがつかないのが、当時の火縄銃つかった戦です。引っ込んだら騎馬か槍を持った敵兵がつっこんでくるからです。 このサイトもわかりやすいです。個人の速射も咄嗟射撃も、できなくはないが、やらない方がいいんです。 http://miraikoro.3.pro.tok2.com/study/mekarauroko/jyuhou_to_rekishi01.htm 戦国末期の日本の戦は、参加兵士の鉄砲所持率が異常に高い、世界史のなかでも特殊な状況です。そうなると、どこかでだれかが常に発砲している状況になります。 どれほど日本人が鉄砲になれていたかというと、秀吉の朝鮮出兵で中国(明国)側が鉄砲で大損害を出し、それを教訓に鉄砲を日本から輸入し日本式の訓練をしたほどです(早合の使用など)。 中国の昔話に「日本製の鉄砲をもった若者」という言い回しがこのころから使われ始めます。ちょっと金持ちで新しいもの(流行)にのった若者の代名詞です。 以下脱線 ガッチリ隊列くんで撃つ、とやったのはナポレオン・ボナパルトのころからで、特に兵士が少ないけど工業が発達した英国の陸軍が得意でした。様々な隊列を組むことが訓練の中心で、何歩移動、ということが盛んに言われるようになります。フランス軍は基本的に集中させた砲兵で敵を撃ち(ナポレオンは砲兵出身です)、密集隊形の歩兵が大集団で歩いて敵に向かい、敵がひるんだら騎兵がつっこむ、というのが定番でした。密集隊形の歩兵は寄せ集めの徴兵が中心ですが、陣形の左右を古参兵で固めます。パニックおこしてにげるやつは、古参兵がサーベルで「処理」してかまわない世界でした。太鼓とかたたいて進軍するのは、歩調をあわせるためです。あわせないと隊列がくずれて危険です。 そのようなフランス軍にたいして英国の鉄砲が一番ものをいったのが、1815年6月18日の午後、ワーテルローでのことでした。朝から戦ってどっちもグダグダの18時ごろ、英国側中央の一部がくずれたので、ナポレオンは最精鋭の老親衛隊をその中央に投入します。が、密集隊形で中央へ歩くナポレオン最強の部隊は、周囲の英国近衛師団から一方的に撃たれて崩壊しました。 バッキンガム宮殿の英国近衛兵は黒くて背の高い熊の毛でできた帽子かぶっていますが、その起こりはこのとき撃ちたおした老親衛隊から記念に分捕ってかぶったことからです。このときの鉄砲は火打ち石で火花を飛ばして発砲する方式で、フリント・ロック式といいます。ジッポとか100円ライター思い浮かべていただければいいと思います。 兵士の死傷率が一番高かったのが、このナポレオン時代から南北戦争までで、損耗率は30%を軽くこえていました。塹壕が一般的になるのが南北戦争末期です。南北戦争のときには雷管を使っています。キャップ・アンド・ボール方式といいます。この時代でようやく発射が安定しますが、それつまり弾丸の発射も安定することなので、戦死者は増えるばかりでした。 鎖国していた日本人はこの密集隊形で敵に向かう、を経験しないで、いきなり幕末に新型の銃で戦争をすることになります。しかし、独自に鉄砲兵学を発展させ、また太平とはいえ武士という戦専門職がいたので、西南戦争などでは欧米軍よりはるかにまともに、損害をだしたら移動、そして機動・包囲と行っています。どれほど鉄砲を撃ったかというと、田原坂だけで40万発撃っています。 かち合い玉、という、空中で弾同志がぶつかって固まったものが、今でも出土するといいます。 火縄銃は昭和のはじめまでマタギの人が使っていて、職人もいました。美術品、骨董品として所持する場合、今日では警察の許可が必要です。蔵からでた、なんてときは所管にとどけないと叱られます。 大脱線 味方が渋滞して進軍できないのは非常によろしくないです。先頭だけ戦っていて、後ろが遊兵になることを意味し、それは戦力が前から減っていくことだからです。 ナチス・ドイツの軍隊の最後の大攻勢、ラインの護り作戦、つまり西部戦線でのバルジ大作戦、のとき、攻勢に出たドイツ軍が渋滞ですすまなくなるという事態に陥りました。悪天候のうちに前進することが最大の目的だったのですが、肝心の道路が積雪と計画の不手際で押し合いへし合いに。 戦車と突撃法、ハーフ・トラックがゴールデン・ウィークのように渋滞している笑えない写真があります。その中には、指揮トラックのボンネットに立って背伸びし前をみている将官がいます。 結果をしっている我々にとって、彼の姿は考えさせられるものがあります。

iwan2no
質問者

お礼

こちらこそたびたび恐縮です、 資料を手に出来ない分、サイトのご紹介までありがたいです。 ますます個人プレーは難しいというか、やるべきではなく、まずほぼ起こりえないという結論に落ち着きそうです。 こちらも脱線なうえに個人的な気持ちですが、 >戦国末期の日本の戦は、参加兵士の鉄砲所持率が異常に高い、世界史のなかでも特殊な状況です。そうなると、どこかでだれかが常に発砲している状況になります。 と仰られているように戦国末期あたりだとあんな戦い方やこんな戦い方をした武士や隊がいたんじゃないかとつい夢みてしまうのですよね; しかし回答者様や他の回答者様から火縄銃の工夫、これまでの戦中のケースや軍事知識などを伺えば伺うほど、夢みていたもの以上に面白く想像できました。(主旨が違う話ですが戦争自体は忌むべきものと考えております、当事の人ってこんな風に工夫したり行動してたんだろうなあ、と考えると面白いという意味です)先人の残した資料は大事ですね・・・ 脱線などと、興味深いお話を伺えて大変感謝です。 味方が渋滞して…というのは幕府側の大名達の軍だったのですが、やはり徳川方の、数も勝負も豊臣方に勝れど情けない戦いぶりだったというエピソードの一つだったことからもよろしくない事態だったと伺い知れます。ドイツさんもやってしまわれたのですね; たびたびのご回答ありがとうございました。

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  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3033)
回答No.10

「敵がいる!」←火縄銃ですぐ撃つ? 陣営の中に入り込んだ敵を打つというケースはほとんどありえないでしょう。 ただ敵地行軍中、あるいは掃討中の場合は十分ありえます。 索敵射撃と言って、敵が茂みの中にいる・いそうな状況の場合は、とりあえずそのあたりの茂みを打ってみると言うのがお手軽です。だいたい敵は慌てて撃ち返す・あるいは逃げ出すという反応をするので、敵が居るのがわかります。 鉄砲が無い場合・十分な火薬弾薬が無い場合は、いちいち茂みに兵士が入り、見聞するなり槍でつっつくなりする必要が理ます。それよりは索敵射撃のほうが安全で手早いですね。

iwan2no
質問者

お礼

なるほど、掃討中というのは考えておりませんでした、 この状況はかなりありえそうですね。 当時の生の資料が少ない分、実際こういう状況からならありえたのではないかとか、当時ではないけど今までの軍事史の中にはこういうケースがあったよ等という方向から考察してみるとかえってリアルな情景が浮かんでくるものなのですね。 ご回答ありがとうございました。

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  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11114)
回答No.8

戦っている最中、ということですから他の方が想定しているように休憩中のようなシチュエーションではないということですよね。 ちょっと意地悪な書き方ですが、当時そんなことがあったかどうかについては見た人は誰もいないので「絶対にない」とはいえません。そういう状況のことがあったかもしれません。 ただし、当時の戦闘というのは集団戦です。集団と集団がぶつかる戦い方です。「ふと見ると敵兵が何人か・・・」という状況そのものがそんなにあるわけではなかったと思われます。 兵士それぞれがある程度の距離を取り合って広がる戦い方を散兵戦といいます。今の戦争は兵隊さん同士は真横にいないである程度距離をとって展開しています。人類がそんな戦い方をするようになったのはここ150年くらいです。ナポレオンより後の話です。戦国時代は、ナポレオンよりずっと昔です。 ではなぜ兵士が散開するようになったのかというと、大砲が発達してぶどう弾が発明されたからです。ショットガンみたいに細かい弾がぶわーっと撃たれるのです。集団に向けてこれを撃つと効果抜群なのは想像できますよね。これで、「みんなが固まっていると危ない」という時代になりました。でも、ナポレオン時代もぶどう弾はあったのにみんな集団で固まって戦っていました。なぜかというと、散開するのってものすごく勇気がいるからです。みんな集団で固まっているとなんとなく安心ですよね。つまり集団戦というのは士気と練度が低い軍隊でも戦うことができるのですが、散開戦をしようとすると兵士ひとりひとりが士気が高くかつ練度が高くないといけないのです。ナポレオンの時代以降に革命によって人々に「国民」「愛国」という思想が広まって「国のために戦う」という人たちがでてきました。でも、それ以前の人々にとって兵士として戦うということは「他に仕事がないから」あるいは「なかば無理やり連れてこられたから」だったのです。 ぶどう弾の後、砲弾が爆発する炸裂弾が発明され、さらに機関銃が発明されるに至って兵士が集団で戦うことは自殺行為になっていきます。 ところで、こういうときの例にふさわしくないかもしれませんが、サバイバルゲームというエアガンで撃ち合う戦争ごっこがあります。今のエアガンは機関銃になっているのでみんなが固まっていると危ないのですが、初心者や士気の低い人(つまり怖がりな人)って固まるのですよ。みんなで身を寄せ合っていると人間心理として安心するんですね。本当は固まっていると見つかりやすい上に一気にやられちゃうかもしれないからかえって危ないんですけどね。 これは戦国時代の足軽も同じです。武士はまだ「自分の(家の)生活(と名誉)のため」というのがありますが、農民出身の足軽にとっては「ギャラがもらえるから戦う」にすぎません。負け戦になるとギャラはもらえませんし、ましてや自分が死んだら一文にもなりません。だから「負けそうだ」となったら「カネにならん上に死んだら元も子もない」となるので「早く逃げよう」となるのです。 金で雇われた足軽が中心だった織田軍が弱兵と呼ばれたのはそういうわけです。しょせんみんなアルバイトですからね。 だらだらと関係なさそうなことを書いてきましたが、つまり、足軽はアルバイトにすぎず鉄砲というのは足軽の武器です。使い方さえ覚えれば誰でも簡単に扱えるので鉄砲は足軽の武器にもってこいなのです。ついでに敵に近づく必要もないので士気が低い足軽向きなんですね。織田軍が積極的に鉄砲を採用したのはこういう事情もあったわけです。 さて、現代でもアルバイトが自分で考えてスタンドプレーをするかというと、ほとんどの企業ではアルバイトはいわれた以上の仕事はしないですし、勝手に仕事を進めれば仮にそれがよかれと思ってやったことでも誰がお前にそこまでやれといったと怒られるでしょう。足軽を指揮する武士の腰には刀があるんですからね。いうことを聞かずに勝手に戦争する奴は黙らせておかないとみんなが勝手に戦争をし始めたら秩序っつーものが保てません。 ところで、戦国時代当時は、足軽よりもちょっとやる気のある「フリーの武士」という人たちがいて、「この槍一本で出世してやるぜ」と思いながら合戦に参加していました。宮本武蔵がそうでした。彼らはそういう意味では士気が高いので集団でひとまとめにする必要がないというか、そもそもが「俺の立身出世」にだけしか興味がないので、スタンドプレーの塊なわけです。スタンドプレーでも活躍すればそれで報奨金がもらえたりどこかの家で採用されるかもしれません。 だから、合戦の最中でそういうスタンドプレーに走った敵方のフリー武士が単独で侵入してくるということはあったでしょうが、彼らの目的は「敵方の名のある武士を打ち取ること」ですから鉄砲足軽なんかに興味はありません。そんなの何人斬ってもギャラになんないですからね。 んで、そういう奴の相手は名のある武士が正々堂々戦って返り討ちにしてもいいし、あるいはこっち側のフリー武士が相手してみんなの見ている前で返り討ちにすればその武士が目立てます。というわけで、そういう奴はそれ用の方々に相手してもらえばいいわけです、鉄砲足軽からすればね。どうせ放っておいてもこっちが襲われるわけではないですから。 ここから先はあくまで私個人の意見ですが、一般的に戦争をすると戦死者の2倍から3倍の負傷兵が出ます。当時は医療技術が発達していませんでしたから、ちょっとした戦傷から破傷風などにかかって死んでしまうことはよくあったと思います。つまり負傷者の戦死率はとても高かったと思うのです。足や腕をケガして後遺症になり戦えなくなった人も多かったと思います。 戦国時代の人口は、1000万人くらいではなかったかといわれています。現代の1/10以下です。全国で1000万人くらいしかいないのに毎日合戦して真面目に殺しあっていたらあっという間に人がいなくなってしまうと思います。だから、私は当時の合戦というのは思ったほど戦死者は出なかったのではないかと思っています。

iwan2no
質問者

お礼

おお、まるで当時の様子が目に浮かぶようなご説明、ありがたいです。 例としてふさわしくないとご自身が仰られているサバイバルゲームですが、実はまさにこれが自分が想定した状況でして、質問も本当は「サバイバルゲームみたいに、あ!敵が陣地内に走りこんできた!ズドン!なんて状況は当時あったのでしょうか」と書きたかったくらいです。 仰られるとおり、戦国時代ではちょっとやる気のある「フリーの武士」がいて、ただそういう武士達であってもご回答にあるように基本集団戦で指揮官の支持の元動いてたんだろうなあと思います。 特に大坂の陣では豊臣方の牢人達はやる気のあるというか、自ら進んで戦に赴き家康ほか重要人物の首を狙う、という意思の強い武士が圧倒的に多かっただろうと思い(逆に幕府方の大名の軍にはそういう武士は少なかったのか、「この戦はつきあいで参加するのだからあまり意気込みすぎて兵を無駄に損なうな」という武士がいたり、「あまり戦わずに済みますように」と祈願してる大名が何人かいたそうですね)、そうなると集団戦に参加しつつちょっとチャンスが訪れると少し外れてターゲットを狙う、なんてことがあったのではと思い、質問させて頂いた次第でした。 スタンドプレーは無くはなかっただろうけど功名を狙っての稀な場合であり、やはり当時は集団戦で、お互い距離をとりながら戦っていただろうということですね。 ご回答ありがとうございました。

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回答No.7

>その場合、とっさに火縄銃で侵入者を撃つ…ということは当時あったのでしょうか? ないだろう。 冷静に考えてみれば、味方を撃ちかねないのである 現代の火器は高い精度であるが、当時の火器の精度を考えれば、同士討ちの危険性が多いに懸念される 戦国時代末期の鉄砲兵は専門兵ではないのだから、尚更である なお、小生が知る世界史上の文献でもそのような事例は知らない。もっとも知っているのは、西欧・中国だけであるが・・・ >列を組み、撃てといわれたら撃つ、という戦い方だったのでしょうか。 史料が見当たらないのでなんとも言えないが 基本的に民兵である鉄砲兵が自律的判断で行動することは簡単にはありえない もっとも、傭兵であれば別だが・・・ 以上、あまり根拠のない回答だが

iwan2no
質問者

お礼

そうですよね、味方を撃ちかねないんですよね。 そういう懸念もありつつ、大坂の陣は非常に混乱を極めた戦いで誤って味方を攻撃してしまったということもあったそうですからきちんと列を組んで順番に攻撃などできたのか?と不安になっていたところですが、いずれにしろ自律的な判断で敵を攻めるという状況は容易には起こらないということですね。 なんにせよ「味方を撃ちかねない」ということで納得しました。 ご回答ありがとうございます。

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  • Verhalten
  • ベストアンサー率17% (36/201)
回答No.6

視力2.0の穴吹は敵機を見つけると 7ミリ機銃を「ガガガガガ」と撃って隊長機に知らせたそうです。 電話式無線はもちろんありました。(九九式飛三号など) なので 倒す他に知らせる事も考えなければなりません。(集団戦闘)

iwan2no
質問者

お礼

そうですね、まず味方や自分の指揮官に知らせないとですよね。 そんな音がしたらまず味方がびっくりしますし。 いきなり発砲、はまずありえないということで、ご回答ありがとうございました。

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  • SU-PE
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.5

火繩銃はちょっと離れると(10~20m位)殺傷能力が無いそうです。ちょっと痛い位だそうですよ。そんなので戦えるとは思いませんよね。 銃を何千丁も仕入れて交互に打つと言う話も全部嘘では無いけど、かなり脚色された話だそうです。 これは自分で調べた話ではなく、テレビで専門家の方から調査した話なので本当だと思います。 そう考えるとロマンも何も無くなりますよね。

iwan2no
質問者

お礼

命中率に関しては少々難があった、というのは聞いたことがあるのでうんと遠いところに敵の影が見えた場合、「あっ敵がいる!ドン!」とは簡単にはいかなかっただろう、ということですね。 確かにロマンはなくなるけれども、ご回答してくださったような当時の現実の様子がわかってくると、ロマンとはまた別の熱い気持ちが湧き上がってきます。 ご回答ありがとうございました。

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noname#177763
noname#177763
回答No.4

火縄銃は奇襲には不向きでしょうね。 火縄銃は縄に火を付け、火薬と玉を詰めて初めて使えます。 火薬と玉を一緒にし、紙に包み少しでも早く打てるよう 工夫はされましたが、それでも奇襲や雨には不向きでしょうね。

iwan2no
質問者

お礼

作業工程に手間がかかる、というのは決定的でしょうね。 その工夫のことは知りませんでした、しかしそれでも奇襲には向かなかったということなのですね。 ご回答ありがとうございました。

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回答No.3

火縄銃って撃つまでに時間がかかりますね。しかも単発です。それに音も大きい。 威嚇で相手が逃げてくれる状態ならば使えますが、こちらが不利な場合は 味方部隊を崩壊させるきっかけにすらなりかねない。質問者も分かっていると思いますが、 とっさに撃つなんてできないでしょう。少人数の迎撃ならば、即座に使えて静音性の高い 飛び道具を選ぶでしょう。もしくは、接近して刃物で各個撃破でしょう。 考えれば分かると思いますが・・・。

iwan2no
質問者

お礼

そうですね、他の飛び道具というとやはり弓矢でしょうか。 弓矢はかなり後の時代になっても使われたという話は聞きます。 ご回答ありがとうございました。

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回答No.2

読んで字の如くです。 「火縄銃」から弾を発射するには、まず「銃口」の中に火薬を入れます、次に火薬がある程度固まるまで銃口から棒を入れ押し固めます。次に製造方法が簡単な「鉛弾」を入れます。 次に「火縄」に火を着けトリガーを引くと「火」が火薬に着火してシリンダー内の火薬に引火して爆発して「弾」が発射されます。 この工程作業に時間が掛るので 交互に弾詰め作業をしながら「発射」「弾詰め」「発射」を繰り返し連射に近い物にしていました。 徳川の大政奉還まで 火縄銃のスタイルは変わっていません

iwan2no
質問者

お礼

やはり工程作業がかかるというのがありますよね。 これが決定的で、故にとっさの攻撃には向かないということで納得です、 ご回答ありがとうございました。

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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

隊列の話で言うと 散兵方式は 幕末の長州藩が日本における最初だったかと。 とか言いながら、日本が散兵方式で遅れていたかというと 「歩兵が戦闘隊形を組むことは自殺行為となり、散兵戦術が主流となった。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%8F%B2 というのは、南北戦争の頃で、日本の幕末の頃なんです。

iwan2no
質問者

お礼

幕末の頃に(世界的に見ても)やっとなんですね。 きちんと隊列を組んで攻撃していたのはよくテレビでも見られるのでそうなんだろうなあと思いつつ、大坂の陣が非常に混乱を極めた戦いで、味方軍ですら誤射が起きたり、前の軍が混雑して先に進めなかったというのを聞き、そんな時にきちんと整列して順番に攻撃なんて出来たのだろうか?と不安になっておりました。 他の方のご回答からも、とっさの攻撃やスタンドプレーをする武士は戦国時代にはいただろうとはいえ、やはり集団戦で指揮官の指示のもと動いていたとお伺いし、回答者様も仰られるように歴史的に見ても散兵方式はずっと後だということで納得しました。 ご回答ありがとうございます。

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