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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:関ヶ原の戦いにおける伊勢街道)

関ヶ原の戦いにおける伊勢街道の謎とは?

a-koshinoの回答

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.2

(1) 西軍からみますと、伊勢方面の東軍は、決戦当日に南宮山にいた部隊によって、すでに一掃されており、伊勢街道を警戒する必要がなかったのではないでしょうか。南宮山の南は西軍にとって安全圏で、決戦前夜に関ヶ原へ安全に移動できたのも、南宮山南のルートを取ったからです。西軍の敗走時も、伊勢街道を逃げた者たちは逃げ延びています。(安国寺は京に潜伏中、捕らえられました。京までは無事だったわけです) 東軍からみますと、伊勢方面へ向かっても、大坂へは大軍の移動に不向きな伊賀越えをしなければなりません。退路を断つといっても、南宮山の西軍は大軍で、せっかく戦意を示さないのだから、逃げるに任せ、素直に東軍は、佐和山城を落としにかかるのが当然の選択であろうかと考えます。 (2) 毛利勢は大軍なので、南宮山の南側へ回るには、いったん山を降りる必要があります。もし山越えで南側へ向かったなら、軍勢はバラバラになりますから、南へ下山後、戦闘用に隊伍を立て直している途中で東軍に急襲され、壊滅するのでは?

ice0000
質問者

お礼

ありがとうございます。 布陣図に気をとられて、毛利勢が伊勢街道を制圧して進んできた合戦前の経緯など、全体が見えていませんでした。 勉強になりました。

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