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小早川秀秋は日和見主義の裏切り者?
小早川秀秋は西軍に所属していたにも関わらず銃声に驚いて東軍に寝返った裏切り者として後世にまで悪名が残されています。 ですが、最近では本当に裏切り者だったのか?少なくとも本当に日和見主義だったのかという説が浮上しています。 元々秀秋は秀吉にも三成にも恨みがあり、家康には恩がある立場でしたからね。 それに関する質問が複数あります。 (1)秀秋は三成から関白にさせる事を条件に西軍に誘われたと伝えられています。その事が記された書状も残っているそうですが、それに対して西軍につくと秀秋がはっきりと意志を示した返事の書状は残されているのですか?いくら三成が関白にするから西軍についてといっても秀秋がそれを信用しなければ意味がありませんし、返事がないのに勝手に西軍に加わったと思いこまれても秀秋の方が困るだけですからね。 そもそも関白にするつもりなのに西軍の総大将にもなれず西軍の指揮権もなく、これで後から関白にするといわれても秀秋は信用するのでしょうか? (2)秀秋は最初に東軍である鳥居元忠のいる伏見城を攻め落としていますが、後に家康にこんなつもりではなかったと謝罪しているそうです。そもそも秀秋が伏見城を攻めたのは元忠に入城を拒否されたからと聞きました。実際に島津義弘も拒否されましたからね。 入城を拒否されたから城を攻めたものの後に謝罪をしている。これは本当なのでしょうか?私はあくまで人づてに聞いただけであって肝心の資料がないのでこれが本当に正しいかどうかわかりません。 というか、秀秋は伏見城を西軍の宇喜多秀家と共に攻めてるわけですからね。この時点では西軍として行動していたようにも思えます。ただ、伏見を攻めていたらたまたま秀家と行動を共にし、そのせいで勝手に西軍に組み込まれた可能性もありますが・・・何とも言えません。 この質問に対しては出来る限り情報源をお願いします。 (3)秀秋は松尾山に布陣し、東軍の威嚇射撃に驚いて寝返ったとされていますが、松尾山の秀秋の陣からは地形上東軍本陣を攻める事ができないと聞きました。 そして、これは結構有名だそうですが、当時の銃の性能や地形、戦場という喧しい場所では銃声は聞こえないし、聞こえたとしても東軍からの威嚇射撃だとはわからないとも聞きました。 これって本当なのですか?秀秋は元から東軍を攻める事のできない場所に布陣して、威嚇射撃で寝返ったという話は嘘っぱちなのですか? 私がこういう風に秀秋裏切り説を疑問視するのは、最初にも書いたように秀秋が秀吉や三成に恨みを持っていたという事なんですよね。 養子にされていたはずが別の家に飛ばされ、活躍したにも関わらず告げ口のせいで所領を減らされる。このような事があるのなら彼の心が最初から東軍にあったとしてもおかしくはありません。少なくとも『日和見主義』という言い方には疑問があるのです。
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確かに、小早川秀秋の裏切りが決定打!みたいな言い方が大きいですが、実際のところ毛利の部隊が動かなかった要素が大きいですからね。関ヶ原の布陣だって毛利が動けば簡単に東軍を攻撃できるようになってるのも、やはり毛利が事前に内応していたからでしょう。