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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:明治元年の行幸褒賞)

明治元年の行幸褒賞についての疑問

このQ&Aのポイント
  • 明治元年の天皇行幸に忠勤した先祖が褒賞を受けたが、古文書に「義僕 阿波屋 源兵衛」と書かれていて疑問がある。
  • 先祖は宿場町で塗師業を営み、働きぶりが評価されて「肝煎役」という役職を頂いていた。
  • さらに、問屋御用掛として諸藩の往来や荷物の逓伝などに励んでいた。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mekuriya
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回答No.1

その当時は皇族以外は誰もが天皇の家臣という位置づけです。当時は国民といわずに臣民といわれていたのです。特に明治元年は、王政復古の大号令の直後であって、国民は誰もが天皇の家臣なのだという位置づけが強調された時代なのです。明治維新を主導した薩摩藩や長州藩の藩士を除けば、義僕というのは平民に対する最大級の賛辞といってよい言葉なのです。臣民の模範という意味なのです。 現代日本人は戦後教育の害毒に侵されてすっかり歴史を忘れ去ったようですが、そもそも古文書に名前が残されているというのは大変なことなのです。明治元年はまだ農民が苗字を持っていないのです。

super1332
質問者

お礼

凄く名誉あることなのですね。 この僕は、「臣民」の意味か、それとも「使用人・奴隷」の意味のどっちかなと思いまして。 納得できました。 ありがとう、ございました。

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