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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:マーク試験での選択肢が同じにしか見えません。)

マーク試験での選択肢が同じにしか見えません

このQ&Aのポイント
  • 現代文が苦手で、マーク試験での選択肢が同じにしか見えない
  • 質問文章から選択肢の内容が同じように見えるが、正解は異なる
  • 質問文章での選択肢の違いが分からず、正解を見極めるのが難しい

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

文全体を読まないと正確な判断は出来ませんが、とりあえず両者の違いについて。 1. 「人間を客体として扱うことによって、人間かいきいきとした生を奪い取ってしまう」 : 客体=物と置き換えると分かりやすくなるでしょう。 人間を物扱いすることによって人間としての溌剌とした生は奪われる。 と言っています。 「自己が、奴隷的な生活をせざるをえない死骸のような生の状況に追い込まれてしまう」 : これは読んだままですが、上との違いとしては、次のような点が推測できます。 まず、「人間を(死骸というよりは)物[客体]として扱う」という要素を把握しているか否か。 または、「奪い取ってしまう」という能動性と「追い込まれてしまう」という受動性の違い。 2. 「理性には、その本質的な普遍性のゆえに、自己を問わないほど個性をも普遍的にしてしまう」 「理性的な活動は、その普遍的な原理によって必然的に一人称としての自己を消し去ってしまう」 : この場合の普遍性は共通性とでもいった意味に解釈するのが妥当なのでしょう。 前段では、「理性」と「理性的な活動」という主題の差異が目につきます。 後段は、 「個性をも普遍的にしてしまう」 と、 「一人称としての自己を消し去ってしまう」 との違いに着目するのが自然だろうと思われます。 作者が意図しているのはどちらに近いのか、ということになるのでしょう。     

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その他の回答 (3)

noname#160411
noname#160411
回答No.3

選択肢だけ見たって分かりませんよ。根本的に勘違いしているようですね。 本文と同じ内容・単純な言い換えをしているものが○で,本文と違う内容のものが×です。本文とよく照らし合わせてみることを勧めます。

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回答No.2

同じことが書いているようにしか見えないとおっしゃっていますが、 英文読解をするときのように、区切って分かりやすい表現に直しつつ 理解していけばいいのではないでしょうか。 例えば、2番目の理性についての文章ですが。 上の文章は「理性(に)は、その本質的な普遍性のゆえに」といっています。 まずこの部分を読むと「理性は本質的に普遍である。だから…」といって いることが分かりますよね。そのあと「自己を問わないほど個性をも普遍的 にしてしまう」と続いているのだから、「自己というものがどうでもよくなる ぐらい、個性というものを普遍的(どこにでもあるもの)にしてしまう」と いうことです。 一方、下の文章は「理性的な活動は、その普遍的な原理によって」といって いるのだから、「理性的な活動には普遍的な原理が存在する。その原理は…」 という感じですね。次に「必然的に一人称としての自己を消し去ってしまう」 のだから、「必然的に‘自分’という概念を消しさってしまう」といっている のですね。 2つの文章の要点をまとめて比べてみると、違うのが分かりますよね? 上の文章:理性は本質的に普遍(誰もが持っているもの)である。だから、 個性というものをありきたりにしてしまう。 下の文章:理性的な活動には普遍的な原理が存在する。その原理によって、 「自分」という概念がなくなる。 日本語でも、ややこしいときは、文の構造を考えたり、難しい文をやさしい 表現に翻訳(?)したりすると、どんなことを言っているのが把握しやすく なると思いますよ。

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  • entap
  • ベストアンサー率45% (78/172)
回答No.1

問題文を見ないとなんとも言えませんが、下の選択肢は、 「主旨は同じでも、本文中に書いていない余計なことを言っている」 文章な気がします。 Aさんは、町に新しく立った、高さ20mのビルを見た。とても高いビルだと思った。 という文章について最も適した選択肢はどれでしょうか 1.Aさんはビルを見ていない 2.Aさんはビルを見て、低い建物だと思った。 3.Aさんは非常に高いビルを見た。 4.Aさんは自分の身長に比べてとても高いビルを見た。 3ですね。 自分の身長なんかと誰も比べてません。(比べれば、そりゃ高いでしょうけど。) とても、という言葉と非常に、という言葉を同一視していいのか、という問題はありますが、4にくらべればまだ近いです。 こんな感じで、本文中に書いていない余計なことを言ってないか、という目線で見てみましょう。 ちなみに、この手の間違いは、日常の国語力にも影響しますよ。 この間違いをする人は、事実だけを報告しろと言われた時にも、勝手な憶測や余計な情報を自分の中で付加して報告したりします。 受験勉強がんばってください。

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  • 本文のどこが正解になっている??

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    悪夢の葛藤は今、君たちに何を回顧させるか? 過去からの亡霊。 Primeape 〈オコリザル〉だ。 今回は自我論に関してだよ。 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感したり、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していら。 それド同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 さて、今回はPrimeapeという8年ほど前に退会した旧IDでさんざんやっていた仏教研究を久しぶりに引っ張り出しました。自分で納得していたんでわざわざ続きをすることはなかったんだけど、まとめてみると何か研究を先に続ける意見でも集まるのではないかと思って質問しました。 学問カテゴリーの研究会として、自由にご回答ください。

  •  表示的擬人観

     難しくても何度も読んでいるうちに、なんとなくではあるけれどそのイメージが、掴めそうな気になるものですね。  今回は“意味深”な文(☆印)を取り上げてみました。  ☆ 世界萬物は普遍(すべてに共通)の相関に統一性を有し、全一体、萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず  この(☆印)一文は前々回の質問で取り上げた文《無量光寿・法身體大を明かす》の続きに含まれています。  ちょっと長いですが、この文を含む「表示的擬人観」を写してみます。  ++++++++   表示的擬人観  全宇宙を色心不二の大日と云い、神の本質を表示するに人格を以ってす。  汎神、世界は全一体、物質の萬物は普遍の相関に統一せられ、内容生活も亦(また)全一なり、精神に統一せらる。  六大は物質と意質の二質なり。此の両面は同等の位にあらず。識大は真の実在にして五大は意志に実現せられたる現象に過ぎず。識大と五大即ち色と心とは本(もと)と一体の二属性と云うべし。之を全知全能なる如来一大精神に帰せざるべからず。故に六大に全知全能、即ち絶対写象と絶対意志となり。是を統一せる精神を如来法身と云う。  汎神論に全一の如来身を論究する要点は、世界萬物は普遍の相関に統一性を有し、全一体、萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず。  全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し。汎神論の神は人格に擬するも本より人類に有する内的生活を有するに非ず。人格の自己意識なる思考及び意志の如きは、全一なる神に有りとは云うべからず。神には人の如く感情自覚等の如き個人的人格の要素にあらざること言を俟たず。  人間の不円満なる不完全なるに反し、神は完全に円満、如来を人格に擬するは、全知全能神聖等の属性なる唯、表号的の形容をなすのみ。是れ全く如来の本質を人格なりと云うに非ず。宇宙精神を人間精神に比して、神に是の如き精神有りとして写象し、最完全なる善美なる性質によりて、表号的に神を形容して人格に擬す。故に表号的擬人観とす。  密家には、即事而眞とて、宇宙現象即実在として、之を大日心王如来と号し、現象界は全く大日心王の表現にして、心王如来を離れて現象ある事なし。故に之を心王の表徳とす。宇宙本体本来大日如来、表徳光明長(とこ)しへに照らし一切処として密厳浄土の非ざるなきも、一切衆生は自から無明に翳(えい?おおう)せられて如実に法界の眞相を知見すること能わず。神の力に依りて実現せられたる相待の萬有も如来を離れたるものに非ざるも、如来の本質は絶対。かかる衆生の為には、ビルの本質を直観すること能わず。  此に於いて神の超絶論起こる。  ++++++++  この文章は私でも比較的分かりやすく感じるのですが、分かりにくい所が『萬物は内部より自発的の調和を保つものにして、外界より必然に律せられて活動するものに非ず』です。続く『全体としての萬有は外的の制裁を受けず。活動は自己の内部より自発的にして外界より世界に伝うもの無し』までが難しいです。  この宇宙のほかに別の宇宙が存在するなんてことはない。宇宙は一つだ、と云っているのでしょうか。  ご意見いただけるとありがたいのですが。  よろしくお願いいたします。