リアリズム+非合理的なものとは?

このQ&Aのポイント
  • 社会科学はリアリズムを通して世界を捉えるが、非合理的な要素も必要だと主張されている。
  • 人間は理性的な次元だけでは充実した生を営むことはできず、非合理的な要素が補充の営みとなる。
  • 社会科学における機能主義は安定した世界の秩序を分析し、影の部分との対話を試みることで統一を保つ。
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リアリズム+非合理的なもの

今回も不正解でした。 問:次の文の趣旨として妥当なのはどれか。    20世紀の知の里程標は、19世紀末に支配的になった経験主義と実証主義の遺産を発展させた形で植え込まれていた。芸術の世界ではダダ・シュアールレアリスム・未来派、表現主義など、リアリズムの伝統に対する反撃が繰り返されているのに、社会科学は基本的には、リアリズムを通して世界を捉える。そして、その分析の対象を経験的に捉えることができ、量に還元することができる実証主義の方法に依拠していた。この方法は、世界は不動の単位からなっており、因果性と予測可能性を秩序の基礎として成立しているという立場に固執する。そのため多義的なものを排除して一義的な事象を分析の基礎とする。社会科学における機能主義は、そうした単位としての部分と全体の調和の上に世界は成立しているとする立場である。したがって安定した世界の秩序に寄与する部分のみを分析の対象に取り上げる傾向が支配的であった。この立場は人間が単一の現実の中に生きていると確信できる限り破綻をきたさない。破綻をきたしそうな部分は「非合理」といって抑圧すれば、それで事足りる。ところが夢・無意識・祭り・極限状況、芸能・神話といったいくつかの人間的経験の枠組みを通して見てもわかるように、人間は因果的につじつまのあう方向だけに沿って生きているわけではない。こうした様々の要素は一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない人間の、表面的な生への補充の営みになる。仮にこうした一見でたらめと見える部分が影の部分であるとすると、人間はこうしや影の部分とのひそやかな対話を試みないで、深い意味での統一を保つことはできない。 1.「社会科学」は人間の合理的な面を表現し、芸術は非合理的な面を表現している。←この本文は、社会科学の特徴について述べているので×。 2.「社会科学」を科学たらしめているのは、基本的にリアリズムを通して世界をとらえている点にかかわっている。←本文ではリアリズム+非合理的なものも必要だと、述べられているので×。 3.「社会科学」は理性的な次元に、人間の一見非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する性質がる。←本文ではリアリズム+非合理的なものも必要だと、述べられているので○。…と考えましたがこれは×だそうです。 4.「社会科学」によって世界の秩序を維持してゆくためには、その対象として人間の影の部分を理性的に説明してゆく必要がある。←必要なのは対話をすることであって、他人に説明するということではないので×。 5.「社会科学」は理性で説明できる面で構築されており、非合理な部分は排除しているため人間の現実の姿全体を反映しいぇいない。←表面的な生への補充の営みには、非合理的なものが必要だと述べているので、×。…と思ったら○だそうです。 しかし、本当に5が正解なのであれば、本文中にある「こうした様々の要素は一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない人間の、表面的な生への補充の営みになる。仮にこうした一見でたらめと見える部分が影の部分であるとすると、人間はこうしや影の部分とのひそやかな対話を試みないで、深い意味での統一を保つことはできない。」という主張はどこに行ってしまったのでしょうか。 」

noname#92953
noname#92953

質問者が選んだベストアンサー

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  • staratras
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回答No.5

No.2です。だんだんお互いの考え方が分かってきましたね。さらに補足します。 >本文の最後で述べていることは、「社会科学にはこの2つの要素が必要だ」と言っているのではないのですか?僕は自分の勝手な憶測でそう判断したのではなく、本文の最後でキチンとそう述べられているから「筆者はそう主張している」と考えたのですが・・・。 筆者が「社会科学にはこの2つの要素が必要だ」と主張していると理解しても、それは3の選択肢が正しい根拠にはなりません。質問者様が今も釈然としないのはこの部分だと思いますので少し詳しく説明します。まず質問者様が理解された筆者の主張の流れは「社会科学は人間の一見非合理的に見える部分を排除している」→「だから限界があって人間の現実の姿全体を反映し得ない」→「だから社会科学には非合理的に見える部分も取り入れる必要がある」ということですね。 上の構図でいえば筆者の主張は「社会科学は人間の一見非合理的に見える部分を排除するから不十分で、非合理的に見える部分も取り入れるべきだ」なのに、3では「社会科学は人間の一見非合理的に見える部分を取り入れながら発展する性質がある」と言っています。この両者は意味が違うばかりか大きな矛盾を抱えています。 つまり「社会科学は人間の一見非合理的に見える部分を排除するから不十分だ」、あるいは「非合理的に見える部分も取り入れるべきだ」という主張は、「社会科学は…を取り入れていない」から成り立つのであり、「社会科学に…を取り入れながら発展する性質がある」(取り入れている)のだったら何も問題はないことになってしまう、ということです。3が正しいとすれば、筆者の主張はその根底から成り立たなくなってしまいます。3の選択肢が不適切である理由は、そのようなことは問題文中のどこにも書かれていないうえに(質問者様がNo.3の方の回答へのお礼で挙げられた部分は、社会科学に一見非合理的に見える部分を「取り入れる必要がある」理由にはなっても、「取り入れながら発展する性質がある」ことの根拠にはなりません)、上に示したように筆者の主張の中心部分と明らかに矛盾するからです。質問者様は「取り入れる必要がある」ということと「取り入れながら発展する性質がある」ということを同じ意味だと考えられたのでしょうか。

noname#92953
質問者

お礼

ありがとうございます。 「社会科学は人間の一見非合理的に見える部分を排除するから不十分で、非合理的に見える部分も取り入れるべきだ」 「社会科学は人間の一見非合理的に見える部分を取り入れながら発展する性質がある」 この2つの矛盾するというポイントが何なのか、やっとわかりました。(^^;。改めてじっくり問題文を読んでみたのですが、今回は、ちゃんと理解できたと思います。 ☆★☆理解度の確認☆★☆ 3の選択肢が、例えば 「社会科学には理性的な次元に、人間の一見非合理的にみえる部分を取り入れていく必要がある」 という感じでしたら、正解になっていたということでしょうか。

その他の回答 (5)

noname#160411
noname#160411
回答No.6

No.1です。 >僕は、3のほうが適切である、と考え問題を解きました。しかし、実際は5が正解だったわけですが、なぜ5が正解で3が不正解なのかがわからない、というのが僕の質問なのです。 大変失礼な言い方をしてしまいました。失礼しました。 補足します。 本文の概要をまとめると、 1、社会科学はリアリズム・実証主義に依拠する。 2、しかし、人間の生には非合理な部分もある。 3、だから、理性的な次元だけでは人間の全体像をとらえることはできない。 となると思いますが、ここまではよろしいですか? すると、論理的帰結として「『社会科学は人間の姿全体を反映しえない』と作者は批判している」となると思いますが、よろしいですか? すると、上記に当たる正答は5となると思われませんか? 前回の私の逆質問(これも本当は失礼なことなのですが)に対して質問者様が挙げた >人間は因果的につじつまのあう方向だけに沿って生きているわけではない。こうした様々の要素は一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない人間の、表面的な生への補充の営みになる。仮にこうした一見でたらめと見える部分が影の部分であるとすると、人間はこうしや影の部分とのひそやかな対話を試みないで、深い意味での統一を保つことはできない。 の主語は「人間」です。 私の質問は >「(社会科学は)非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する」に当たる本文中の記述はどれですか? です。社会科学を主語として「非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する」と書いてある記述を探してください。

noname#92953
質問者

お礼

1、社会科学はリアリズム・実証主義に依拠する。 2、しかし、人間の生には非合理な部分もある。 3、だから、理性的な次元だけでは人間の全体像をとらえることはできない。 『社会科学は人間の姿全体を反映しえない』と作者は批判している 主語は「人間」です。 おふた方が言わんとしていることが、やっとわかりました。この問題は、ごっちゃになってしまい、難しいですね!!以前掲載した、URL先の問題では、「書いていないことでも推測して結論をだせ」的なアドバイスがあったので、余計混乱してしまいました。 やっとスッキリしました。ありがとうございました。

  • staratras
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回答No.4

No.2です。少し補足します。 >リアリズム+非合理なものが必要だ、と述べているということは、社会科学にはこの2つの要素が必要だ、と述べているのと同じではないのですか? 3の選択肢をよく読んでください。「『社会科学』は理性的な次元に、人間の一見非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する性質がある。」と書かれています。筆者は、そのようなことは主張していません。考えてみてください、もし社会科学に「非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する性質がある」のだとすれば、この問題文で筆者が「社会科学」について批判している理屈が土台から崩れてしまいます。一口で言えば「社会科学」が人間の一見非合理に見える部分を切り捨ててきたから「社会科学」には限界があるというのが筆者の主張です。「筆者の考え方からすれば『社会科学』にはこの2つの要素が必要なんだな」と質問者様が思うのは自由ですが、それは3を正しいとする根拠にはなりません。 問題文の中で筆者が主張していることと合う選択肢を選ぶということは、もちろん正解の選択肢は問題文そのままの表現で書かれているという意味ではありません。そのような(親切な?)選択肢だったらほとんどの人が正解となって差がつかないでしょう。ただし、表現は違っていても問題文の中で筆者が主張している範囲でなければだめです。「一歩踏み込む」のはともかく、土俵の外にまで足を踏み出してはいけません。

noname#92953
質問者

お礼

ありがとうございます。 >一口で言えば「社会科学」が人間の一見非合理に見える部分を切り捨ててきたから「社会科学」には限界があるというのが筆者の主張です ここは理解できます。そして本文では、単に限界があるよで終わらせているだけでなく、その上さらに、「一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない人間の、表面的な生への補充の営みになる。仮にこうした一見でたらめと見える部分が影の部分であるとすると、人間はこうしや影の部分とのひそやかな対話を試みないで、深い意味での統一を保つことはできない。 」と記してあります。 >「筆者の考え方からすれば『社会科学』にはこの2つの要素が必要なんだな」と質問者様が思うのは自由ですが 本文の最後で述べていることは、「社会科学にはこの2つの要素が必要だ」と言っているのではないのですか?僕は自分の勝手な憶測でそう判断したのではなく、本文の最後でキチンとそう述べられているから「筆者はそう主張している」と考えたのですが・・・。

noname#160411
noname#160411
回答No.3

No.1です。 >つまり、合理的なもの+非合理的に見るもの、この2つの要素が必要だと、主張しています。この両方が必要だとキチンと内容に盛り込まれている3が正解ではないのですか? うーむ、困りましたね。 正答は5が○となっていたのでしょう?私もNo.2の方も「5が○」と思って説明しているのですが、それでも「3が正解」に固執されるのであるなら、「ではそう思っていらしてください」としかいいようがありませんし、そもそもここで何が質問なさりたいのか、「そうそう、あなたの言う通り、3が正解ですよ、5なんて間違いですよ。」と言ってほしいだけなのか。でもそれでは得点力の伸びは期待できません。 とにかく、センターの国語に関しては、「思い込み」は避けてください。あくまでも機械的に「本文にあれば○、本文にないか、本文の内容に反していれば×」です。 上記の「合理的なもの+非合理的に見るもの、この2つの要素が必要だと、主張しています。」は、作者の意見と合っています。でも、3の選択肢の内容とは違います。 作者は「社会科学は非合理なものを排除する」から「社会科学は人間の総体をとらえることはできない」と批判しているのであって、「だから社会科学は非合理を取り入れる」とは一言も言っていません。 逆に質問ですが、3の「(社会科学は)非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する」に当たる本文中の記述はどれですか? >>作者が「社会科学」に対して批判的なのは読み取れますよね? >…そーなんですか?(^^;。そんな風に感じたことはありませんでしたが…。 例えば「芸術の世界ではダダ・シュアールレアリスム・未来派、表現主義など、リアリズムの伝統に対する反撃が繰り返されている『のに』、社会科学は基本的には、リアリズムを通して世界を捉える。」から読み取っていただきたいところです。 もう一度言います。本文は虚心坦懐に読んでください。また、前回と今回の私の回答、No.2の方の回答も、思い込みを捨てて読んでください。

noname#92953
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「5が○」と思って説明しているのですが、それでも「3が正解」に固執されるのであるなら >そもそもここで何が質問なさりたいのか 僕は、3のほうが適切である、と考え問題を解きました。しかし、実際は5が正解だったわけですが、なぜ5が正解で3が不正解なのかがわからない、というのが僕の質問なのです。 >逆に質問ですが、3の「(社会科学は)非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する」に当たる本文中の記述はどれですか? 人間は因果的につじつまのあう方向だけに沿って生きているわけではない。こうした様々の要素は一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない人間の、表面的な生への補充の営みになる。仮にこうした一見でたらめと見える部分が影の部分であるとすると、人間はこうしや影の部分とのひそやかな対話を試みないで、深い意味での統一を保つことはできない。 です。だから、なぜ3が不正解なのかがわからないからその理由を知りたい、というのが僕の質問です。

  • staratras
  • ベストアンサー率40% (1438/3508)
回答No.2

こうした「文章の趣旨として妥当なもの」を選ぶ問題では、あくまでも「その文章の中で筆者が書いていること(主張していること)と合うのはどれか」を選ぶことが重要だと思います。ところが質問者様は「その文章からわかる筆者が考えている(と思われる)ことと最も合致するものはどれか」を選んでいるように思われます。この両者は似てはいますが実は別ものです。それは例えば、選択肢5について次の疑問をお持ちのことからもわかります。 >本当に5が正解なのであれば、本文中にある「こうした様々の要素は一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない人間の、表面的な生への補充の営みになる。仮にこうした一見でたらめと見える部分が影の部分であるとすると、人間はこうした影の部分とのひそやかな対話を試みないで、深い意味での統一を保つことはできない。」という主張はどこに行ってしまったのでしょうか。 5は筆者が問題文で書いていること(主張)の要約に近いので、この5つの選択肢の中から選ぶなら○です。筆者は問題文の前半で「社会科学とはこんなものだ」と書いていますが、「それでよい」と言いたいわけではなく、文章の後半で「それでは不十分だ」と批判しているわけです。ところが質問者様はさらに一歩進めて、筆者の考え方からすれば「社会科学は本来かくあるべきだ」と考えて、それを基準に判断しているように感じます。これは相撲で言えば「勇み足」です。「それでは不十分だ」と批判しているからといって、「社会科学とはこんなものだ」と筆者が書いていることを勝手に変えて考えるわけにはいきません。 そのことが影響していると思われるのが3についてです。 3は「社会科学は人間の一見非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する性質がある。」などとは書かれておらず、逆に「破綻をきたしそうな部分は「非合理」といって抑圧すれば、それで事足りる」とあるので×です。しかしこれについて、>本文ではリアリズム+非合理的なものも必要だと、述べられているので○。…と考えたとしたら、この問題文から質問者様は「筆者の考え方からすれば社会科学は非合理的なものも取り入れて発展するべきだ」と考えられたのではありませんか。「」内そのものは間違いとは思いませんが、「…非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する性質がある」とは問題文のどこにも書かれていません。

noname#92953
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「社会科学とはこんなものだ」と筆者が書いていることを勝手に変えて考えるわけにはいきません とありますが、リアリズム+非合理なものが必要だ、と述べているということは、社会科学にはこの2つの要素が必要だ、と述べているのと同じではないのですか? >「筆者の考え方からすれば社会科学は非合理的なものも取り入れて発展するべきだ」と考えられたのではありませんか。 とありますが、筆者はそう考えているからこそ、合理的なものだけでなく、非合理的なものが必要だ、と本文で述べたのではないのですか。 ちなみに、以前現代文の問題で質問した時は、たとえ本文に書かれていなくても、文章中で何かを批判していれば、さらに1歩踏み込んだ筆者の主張を読み取れと教わったのですが…。 http://okwave.jp/qa3927300.html

noname#160411
noname#160411
回答No.1

文字言語だけでどれだけ説明できるか、はなはだ心もとないのですが…。 問題本文は、前半が「『社会科学』の説明」、後半が「作者の主張」です。「ところが」からが後半です。失礼ながら、質問者様はこの二つを区別していないように思われます。設問は「趣旨として妥当なもの」を選ぶのですから、当然後半からの表現が正解となります。また、作者が「社会科学」に対して批判的なのは読み取れますよね? 1、については質問者様のおっしゃる通り。 2、は「社会科学」の説明であって、作者の主張ではないので×。 3、は「人間の一見非合理的にみえる部分を取り入れながら発展する」が本文中の「破綻をきたしそうな部分は「非合理」といって抑圧すれば、それで事足りる」に反するので×。 4、は「『社会科学』によって世界の秩序を維持してゆく」という論旨が本文にないので×。 5、は本文後半の作者の主張のまとめとなっており、「社会科学」への批判となっているので○。 となります。

noname#92953
質問者

お礼

ありがとうございます。 >作者が「社会科学」に対して批判的なのは読み取れますよね? …そーなんですか?(^^;。そんな風に感じたことはありませんでしたが…。本文をまとめると、 社会科学=リアリズム=多義的なものを排除して一義的な事象を分析の基礎 ↓ 安定した世界の秩序に寄与する部分のみを分析の対象に取り上げる傾向が支配的=破綻をきたしそうな部分は「非合理」といって抑圧 と・こ・ろ・が… 一見非合理的に見えるが、理性的な次元だけでは充実した全体的な生を営むことはできない つまり、合理的なもの+非合理的に見るもの、この2つの要素が必要だと、主張しています。この両方が必要だとキチンと内容に盛り込まれている3が正解ではないのですか?

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