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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:表現の根源となる 愛情の根源についての質問)

愛情の根源とは?

noname#194996の回答

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noname#194996
noname#194996
回答No.7

ご丁寧な補足をいただきましたので、またお邪魔した次第です。 その前に前回答の文初頭での間違いをお侘びします(意義→異議) 質問者様の仰る人間社会での愛の役割を私も過小に思っているものではありません。当然ながら、素人コーラスグループなど情熱のみでしっかりと結合するべき場所での権威主義の発露ほど場違いなものはないでしょうし、そういった利益をもくろむ団体ではない人間同士の自発的な結合が理想的な社会でのすべての秩序の基礎としてもくろむことが出来れば、いかに社会は棲みやすく、快適なものになるだろうことは想像するまでもないことでしょう。前回も書きましたが、なかなか現実はそううまくいかないもののようです。 私見では、唄や踊りは本来無心に、純粋な気持ちに人間を誘導するもののようで、論語でも孔子が音曲を好む理由に挙げているほどです。音楽を愛するものによこしまな人間はいないとまで言っています。 質問者様とこのあたりでは思いが一緒なのですね。芸術はひたすらに無心をつらぬくところから生まれてくるもので、たしかに自己愛とも無関係だと思います。 ただそういった音曲を愛する心と、人間同士をつなぐ愛情とはとても同一には考えられず、美を愛する芸術家に悪人は居ないかと考えればどうもそのようでもない。また、無心と言う状態がどれほど長く続けられるものか。 人間の感情は常に揺れ続けています。一箇所にとどまっていられる時間は限られています。そんな不安定なものに多くの人間のこころというファクターを加えたらどうなるでしょう。カオス以外に考えられません。ここはやはり理性に訴えるしかないのではないかというのが私の前回の趣旨です。 ある程度の雑多な人間を統べるためにはやはり善悪とりまぜた知恵がリーダーには必要だと私は思います 感性の進化が必要だと仰る気持ちは理解できます。でも私は人間においてはそれは進化というより深化ではないかと思います。多くそれは個人のなかに入っていくよりも周囲に共鳴を促すものです。 感性(感情です)は人間的なものというよりもむしろ前人間的なもの、文化、芸術にそれらは少なからず見出せるにせよ、やはり人間の創造物は理性の産物である、理性がなければ創造は不可能であると思います。 唄や踊りを他の一部の動物もするようですが、やはり人間の踊りや唄は理性が介在しなければ鑑賞には堪えないものです。 宗教は個人の自由です。ただ、私自身は現代においては役目を終えた過去のものだと思っています。それらが文化の一つだということは確かですし、興味をもたれるのは自由ですが、内に入ってミイラになる必要はないでしょう。 すみません、的をはずしてしまったかもしれません。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 すみません。  実は「私の自我論です。 ご意見をお願いします。」という新しい質問に 次々ご回答を頂いて それに対応しているうちに、 こちらの質問がまだ締め切っていないことも 忘れてしまっていました。 こちらのご回答もとっくに 読んではいて 最初は早くお礼を書かなければと思っていたのですが、 そのうちに 忘れてしまいました。 記憶に無くなってしまったわけではなかったのですが、 なんとなく気になってはいても   なにしろ 忙しい設備業その他の合間のネット活動の一環なので、 また 哲学カテのご回答が かなり抽象的で 内容が深くてもいきなり文が飛んでいたり、読み取りにくいご回答があったり てんてこ舞いの中で  とうとう こんな形となってしまったところです。 せっかく 丁寧な 再回答までいただいていたのに 申し訳ありません。 論語に出てくる 音楽の感性に関する記述は信頼できる世界ですね。    私は 実は ほんの数年前までは 論語ってお堅い道徳論とばかり思っていたのです。 ネットでですが 論語を読む機会があり、 まったく間違ったイメージを持っていたことを知りました。 もし 今生きておられたら 是非いっしょに歌や踊りの革命をしてみたくなります。 たぶん 私一人では 心細くて こんなところで いろいろ質問も始めたのだと思います。 》ただそういった音曲を愛する心と、人間同士をつなぐ愛情とはとても同一には考えられず《 音楽に感動する心も 時により大きく変わったりしますね。 私は 子どもの頃 とあるいじめや病気などにあうことで心身廃人になりそうなところだったところを とある虚弱児施設に助けられたことがあるのですが、 そんな中でのその虚弱児施設の消灯時間に毎晩流れてきた アンダンテカンタビレーや トロイメライやユーモレスクは   子どもなのに 胸の奥の奥のひだまで その細かい音までもが 染み込んできました。 しかし同じ子どもの頃 普通の学校で オオケストラをみんなで聞きにいった時には、 はるかに音響はいい生の演奏でも 何も感じませんでした^^。    また 大人になってからも たいていそういう場では 眠くなる時が多かったです^^。 しかし、これも時と場  突然涙があふれてきて会場中が感動でゆれだしたように感じた時もあります。 確かに そのへんも なんとも不安定なところ、 こうした不安定さは私だけでないところでしょう。 しかし だからこそ 私は 踊りと歌と絵という感動そのものの表出の世界を 徹底解明しようとしてきました。 感動そのものは どのようにして人間の中から生まれてゆくものなのか? その本質と 実生活での心理とのつながりを さらに演劇の世界にも、映画のモンタージュ映像の世界にも 心を伸ばしてその関わりを追求してもきました。 演劇では 感情については 時間曲線で克明にその感情の移り行く経過まで追いかけてゆきます。 その因果の世界もよく観察されています。 何か 苦痛が未来に予想されることで「不安」や(恐怖」が起こります。  この恐怖は それが理解不能であったりすることからも 突然起こったりする感情だったりもします。 怒りは 何かをやろうとしているその方向性を 逆なでするような刺激を受けた時は 突然せき止められた時に起こります。 穏やかな人も けっこう そういう場を知らないだけだったりもします。 嫉妬とかも、こん具合に その状況下にては、 突然 えっっ自分が?と思えるような感じで 起こってしまったりもします。 でも それはある曲線を描くようにして やがて 収まってゆきます。 因果はありますが、喜びも悲しみも たしかにカオス的です。 しかし 愛という感情は それらの 因果による感情の揺れとは別に、 もし 感動が深ければ その分は その何がしかを生むというふうに私は考えていて、 だからこその 総合的な藝術の追及を志ざしたい気持になっているのです。 その時 たしかに、 感情曲線とかいった記述以上に 少し複雑な愛と感性の仕組みも  たしかに、  理性でこそもっともっと見つめられるようになるべきかと思います。 そのへんを 今度こそ しっかりとした質問文にすべく  「自我」をめぐる論理の質問文を新たにたててみたところであるわけです。 そろそろ締め切ろう と思っていたところなのですが、 もしよろしければ、 こちらの続きとしても 何かご回答お願いします。 私は この情報化社会には 新たな理想への大きな可能性があるとは思っている人間ですが、 》なかなか現実はそううまくいかないもののようです。《 》ある程度の雑多な人間を統べるためにはやはり善悪とりまぜた知恵がリーダーには必要だと私は思います《 というあたり、 しっかりと思索した上でのことかとは思います。 理想に走っても 空回りのまま 何も出来ないのでは意味ないですしね^^。 》すみません、的をはずしてしまったかもしれません《 とんでもないです。 こちらこそ 的の絞れないような質問をしてしまいました。 にもかかわらず、 注意すべき点のしっかり抑えられたご回答だと思います。 論語、もう一度 見直そうと思っています。 勇気付けられました。 ありがとうございました。

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