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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:表現の根源となる 愛情の根源についての質問)

愛情の根源とは?

NURU_osanの回答

  • NURU_osan
  • ベストアンサー率50% (297/593)
回答No.3

 混同されておられるようですが、「愛」と「愛情」は異なるものです。「愛情」はその対象に対する独占欲を含み、純然たる「愛」と比較すると既に歪です。  宗教で述べられているような無償かつ無限の愛というものは、残念ながら現実世界では存在し得ません。誰もが肉体的にも精神的にも限界を持っている以上、愛だけが特別無限である事はあり得ません。  自分に対して危害を加えるモノや愛を注ぐに値しない対象を愛し続けることは不可能です。愛の象徴たる自己犠牲には少なからず愛している自分に対する自己愛…つまりナルシシズム…が混在しており、過度な愛の事例が偽りの無い愛や不自然ではない愛の例になるとは考えにくいものがあります。  愛情が独占欲を含むものである以上、愛情もまた利害関係を生みだす一つの要素です。状況によっては「愛」を否定しかねないのが愛情です。  この世は有限の世界ですから、必ず持てる者と持たざる者が生じ、利害関係が生じます。利害関係がある以上、無償かつ無限の愛などというものが生じる事はあり得ず、自分に危害を加える相手を愛し続ける事が出来ない以上、全ての人に対して愛を注ぐ事は絶対に不可能であることがわかります。  リーダーが権力を持って人々を統率し指導するのは、そしてそれが支持され歓迎されるのは、利害関係による対立を許容範囲に収めるためであり、それは利益を制限し害悪を極限することによって行われます。つまりリーダーの役割とは与える事によってではなく、抑制することによって成し遂げられるのです。  これは所謂宗教で述べられているような根源的な愛とは根本的に異なることです。  逆にリーダーが愛によって役割を果たそうとしたならば、それはむしろ批判の対象にしかならないでしょう。そのリーダーは間違いなく無能の烙印を捺されることになります。  人間が人間として信頼し合う社会は、愛によって育まれるものではありません。愛情によってでもありません。  音楽に限らず芸術が表現することを目指したのは愛や愛情ではありません。それらは芸術が表現しようとした対象の一つに過ぎず、決して全てではありません。  芸術を現在あるような高みに消化させたものは、言ってみれば芸術を庇護する権力者たちの欲望であり、芸術の歴史の中における愛はその権力者の欲望を満たす芸術が表現に用いた一つの道具でしかありません。  愛を表現することだけが目的であれば、芸術は現在のように昇華する事なく、どこにでもあるような民俗芸能であり続けたでしょう。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 お礼その他遅くなりました。  Ano1の方にも書きましたが 忙しい身の中、 音楽カテの方から 先にお礼その他書かせていただいていたのです。 抽象的に霧のかかったような質問文にもかかわらず、丁寧な御回答ありがとうございます。 愛についても この質問では このような論議を根源から一つ一つ深めたくて 一番にはそれが目的での哲学カテでの質問でした。 ですので さっそく補足質問をさせていただきます。 よろしくお願いいたします。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

ありがとうございます。 さっそく補足質問させていただきたいのですが、 よろしければ際回答おねがいいたします。 まず「愛」と「愛情」という言葉の使い分けが出来ていない点についてなのですが、 これこそ、私の質問が 大きな雲の上から眺めたような大きな抽象的表現展開をいきな求めすぎた現れなのでしょう。 抽象的表現は 物事を大きく俯瞰して捕まえることで もしそれが正確な曇りなき俯瞰であれば、そのまま大きな正しい目標へのパワーとなります。 しかし、 高いところからのその眺めは 具体的な事例までは見えないような 視界が曇り 霧にまで覆われた憶測である場合も 同じ様に 一見力強い大きな展望に見えますので 注意が必要なところでしょう。 なるほど 例えば家族愛にしても 家族を愛するあまり そのために 一生懸命になって働いている中  働きもせず公園などで なにもかも意欲を失い希望も失っている人も含め 働かないで生活保護を受けたりしている人たちを はげしく嫌う感情になる人もいます。 家族への愛情は せつせつと伝わってくるような人が? と思うと これを簡単に 不平等観とは言えません。 しかし これで さらに経済の二重構造は 進展していったりするわけですよね。   このへんも混迷を極める世界であるように思えます。 私はこれを 《ほんとうの教育機会均等》の不在 あるいはその努力の足りなさが 最大因だと考えていますが、 この現実の前に それが家族愛と対立することがあることは 今現在事実であり現実です。 また ふつう愛情という時には 確か男女間の愛情を示すことも多いわけです。 家族愛の意味でも 子どもへの愛情とか いろいろ使いますが、 この男女間の愛情のことをさす場合がほとんどかもしれません。 「君が大好きなこの気持は 物を所有するような気持とは全くことなる」というのが 恋をしていたりする時の感情ではあるのでしょうが、 結婚してずっとその恋人だけと死ぬまで暮らしたいという時の感情には 本人たち気が付かないかもしれなくても 確かに所有したいという気持ではあるわけです。 例えば たの女性がその男性を誰よりも好きで いっしょにいたいと思っていても  その男性がその女性でない女性に恋をしていれば、その女性のその男性への恋は見捨てられてしまいます。 そして それは まるで公然と 「愛情」の名のもとに肯定されてしまっていたりします。 そして それらの家族愛や 恋愛感情も たしかに 偽りの無い 不自然でない「愛情」の一つでしょう。 また その限り 愛と愛情とは対立するという見方のあたりは、なるほど、鋭い現実観察によるものだと思います。 また 宗教で言われるような無償の愛、「愛」についての観察眼にも深いものがあると思います。 とくに 》愛の象徴たる自己犠牲には少なからず愛している自分に対する自己愛…つまりナルシシズム…が混在しており、過度な愛の事例が偽りの無い愛や不自然ではない愛の例になるとは考えにくいものがあります。《 のあたりは、名文ですらあると思います。 しかし、こんへんが クリアーされていないと 結局「愛」はこの世には存在しないとなり 《歌と「愛」の関係》以前の問題となってしまうわけです。 まず、ここまでを一区切りとして 補足質問させていただきます。 家族愛 恋愛ともに、 現代では 本能を離れた、また自然の中の無心な家族愛や恋愛の世界を離れた 複雑すぎる心理世界となっていると思うのですが、 その中で家族愛については、 ここでは どのように考えたらいいか私も解らないでいたりしますので(現実問題としてです) (家族病理とかの中での所有欲の問題については詳しいつもりでも それは その一端でしかないとも思っています) ここでは略させていただきます。 男女の愛情についてクリアーできれば ある程度は 何かが見えてくル世界ではあるかと思われますし、 男女間の問題について先に書かせていただきます。 私が体験した 恋のいくつかは まさに目の醒めるような衝撃的な感情でした。  ただそばにいるだけで 激しい感情が 嗚咽を生み出してしまうような、 それがまた相手にも通じるような そんな体験も あったりしました。 しかし それとても 後から考えてみれば 私の場合は 結婚とかは誰ともしていませんが  結婚したかった気持においては所有したかった気持には変わりありません。 ただ、 恋の深い感情の世界が 純粋に 感性を深める大きなパワーではあることも確かです。 だからこそ その部分を拡大して 歌を歌う時の情感のイメージを膨らますことが出来 またプロは本来 その情感を通して聞く人の感性をも高めるところまで その表現を磨いてゆくべきところと言えたりします。 歌や踊りの文化においては 例えばまず その恋なら恋の深さ(あるいはそのイメージの深さ)が先に必要であり  その上での表現の深さなのだから  上手い下手を越えて まずそのイメージを先に指導できるようになる必要があるという考えなのですが、 恋という突然やってくる いつ起こるかわからない感情の世界はそれ自体が不安定ですし   実は そこでも それによって感性が深まり ほんとうに優しい気持になってくれば、 その愛情は そのままでは矛盾におちいり、 純粋な表現の世界を曇らせてしまいます。 いろんな矛盾 優しさこそが男女関係を深めるのに その優しさが それ以外の場で人を傷つけても無視されてしまったりする世界  これが 深くなるほど そこに矛盾が生まれ  誠実な表現者はそこで足踏みしてしまいます。 私自身は、これは 東洋医学の原点から生まれた経絡の知識による、全く新しい気によるセックス論が生まれるしかないなと根本的には思うのです。 セックス無にも 恋の高みに、 呼吸と呼吸で男女が通じ合いエクスタシーに達してしまうような文化です。  呼吸法などの修行が必要ですが不可能ではないです。 すみません、 ここまでで すでにかなりの紙数となってしまいました。 今回は 以下2点に絞らせていただきますが、 (1)「愛」が「愛情」と 絶対的に重なるなどというのはありえないでしょうが、 「愛情」の世界と「愛」とが 相対的には かなりいろいろな面で繋がってはいる点は  ヌル王さん^^は どう思われますか? (2)又、私は 無限の愛というものを 無限の感性の可能性から考えて 無限に豊かな通じ合いの可能性がこの大地にはあるというふういはとらえています。 しかし これ そちらの言われるように 同時に生物としての限界を持っていて その限り 有限であり相対的なものでしかありません。 しかし 相対的な世界には価値はないとおかんがえでしょうか?  たしかに 戦争などの極限状態にては、 どんなに虫も殺せない神経の人でも 神経がまるで変わってしまうものです。 実際のその当事者からリアルなお話を伺っています)  私も人殺しに簡単になってしまうでしょう。 しかし それもまた 極限状況における心理です。  あくまで 相対的な中に 私たちの幸せへの道筋があると思います。 小さな価値をつみかさねてゆく価値の世界。 その向こうに 確かに 現実世界にも「愛」が見えてくる気がするのですが。

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