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クリスチャンに質問

cincinnatiの回答

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.7

>”赦されない”という意味は現状から罪を問われて悪い状況になるのではなく、現状に留まり聖霊の喜びにあずかれないだけ。つまり地獄と呼ばれるひどい所に置かれるのではなく、せいぜい現状程度にとどまる事であると理解している」様に見えましたが、間違いございませんでしょうか。 聖書は大前提として「神は愛である。」と述べています。その結果としての「私たちの罪は全て赦された。たとえ緋のように赤くても、雪のように白くなる。」となると書かれています。義人はいない、一人もいない。すべての人が迷い出て悪を行っていると聖書が述べていたとしましても大前提は神は愛なのです。つまり神様が問題にしているのはそのような罪人を問題視しているのではなく、そのような罪人を愛されているということを皆さんが知らないということなのです。 つまり神様のメッセージはわたしの声に耳を傾けてください。ということだと思います。もし耳を傾けないのであれば神様が与えようとしている幸いな生活ができないでしょう。だからわたしの声を聞いてください。つまり声とは聖霊が語りかける声です。聖書では幸いな生活と幸いでない生活の分岐点は神様の声を聞いて従うのか否かにかかっていると申しておりますので、従わない世界は苦しい世界だと思います。人はそれを生きたまま地獄に落ちているようだとか、目的もなく無気力になっている生活だとか、罪にまみれた生活だと述べていると思います。 ここで問題は地獄は死んだ後行くところという先入観がございませんでしょうか。たしかにその通りなんだと思いますが、上に記載しましたように神様を認めない生活が、地獄のような苦しみの世界であり、地獄といって過言でないと思うのです。従いまして、神様の声を無視することは人によっては地獄の苦しみとなる場合がありえるということです。 聖書に「「神の国は、そこにあるここにある というものではなくて、あなた方のただ中にある」」という言葉があります。言い換えますと天国はそこにあるここにあるというものではなくあなたがたの中にある。と同様に地獄はそこにあるここにあるというものではなくあなたがたの中にある。と言えると思います。 聖霊が小さな声で語りかける言葉に従って、イエスキリストを信じるならば「あなたは幸いになる。」と聖書は全編を通して述べております。私どもはあまりにも長い間、地獄のような苦しみの中におりましたので、その苦しみに慣れてしまって居ないでしょうか。赦されるという体験が全てを変えてくれると思います。そこでは日常の言葉でなく、ご質問者さんだけが解る方法で神様が語りかけます。多くの人はAM放送の電波でしか情報を受取れませんが、イエスキリストを信じるとFMでも聞くことが出来ます。FMとは聖霊の声と言えると思います。聖霊を否定するとはまるで神を否定するということと同じ結果をもたらすことがお分かりいただけましたでしょうか。

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 cincinnatiさんの仰るような「現状こそ地獄」論を唱える方々の考えは概ね承知しているつもりです。 私は殆どの場合確定しない事は断定しない方なのでそれも否定しません。 しかし、聖書に明確に書かれていない教義(一つの解釈でしかない)を強く信じている人を見る時少々の拒否感というか、警戒感は否めません。 多少の偏見が混じっているであろうかとは思いますが、現状こそ地獄、これ以上落ちる事は無い的な思想には心の弱さからくる解釈の強引な捻じ曲げの様なものを疑ってしまうからです。 たとえ罪を繰り返しても現状が最低ならまー良いじゃないかと思えますからね。 私は霊感による体験をいくらか持っており、その体験から神は愛であり、愛でしかないとは思っています。 マザーテレサも「私は神が人を裁くとは信じられない、神は愛だから」と言っていたようです。正直私も私の体験をどうとらえ方を変えて見ても信じられません。神は只管愛です。 しかし聖書にはそう書いてあるでしょうか? 私は原理主義ではありません。 どちらかというと聖書は真理の書ではあるが事実の書かどうかは解らないという考えです。神の霊感によって書かれたとは思っていますが、それでも人の手を通して書かれたものだからです。 しかし、だからと言って聖書の一句一句を軽んじて軽率に判断するつもりもありません。 今は時間の関係で割愛させて頂きますが、聖書には現状より悪い状態に陥ると解釈するのが妥当な箇所が沢山あります。 それらの箇所はご存知でしょうか。 私は聖書を3回通しで読みましたし、部分読みは数えきれません。しかし私は聖書に対する強い信念を持っている信者さんで聖書全体を読んだ事がある人にあった事が一度しかありません。因みにこの一度に対してもその人は聖書以外にも色々な偏った理解の本を読んでおり、かなり歪んだ理解だなと思っていました。 聖書に偏った理解をしている人たちの多くが聖書全体を読んだ事が無いのですが、cincinnatiさんはいかがですか? どう聖書を引用するかにもよりますが、偏った人たちは自分たちの支持する個所は断言し、声高らかに言いますがその引用の仕方は原理主義的「聖書にこう書いてある」的な言い方をする事が多いです。ではなぜ他のそれに反対するような個所に対して「聖書にはこうも書いてある」と考えないのでしょう。 それら二種類の個所を目の前に置いたとき、「一解釈でしかない」とは考えないのでしょうか。 ここで偏った見方をする人たちには前後の文脈やユダヤ習慣などを持ち出してきてここはこういう解釈になるから一見対立しているように見えても実は同じことを言っているのだよというのが常套手段のようですが、その内容も聞いててなんだかなーと思うものばかりでした。 つまり一部を強調するあまり他の個所に対する目つぶりが激しすぎるのです。 お答えを頂きながら少々失礼な応答になっているかとは存じますが、重要な事柄の話し合いには多少は仕方ないと考えております。 なにとぞ、よろしくお願い致します。

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