• 締切済み

キリスト教の救いについて

1人で考え込んで頭が混乱しているので、乱文かもしれませんがご容赦頂きます様お願いします。 クリスチャン、もしくはキリスト信仰について肯定的に考えられる人にお伺いします。 ※品、知性、誠、その他この類いのもの、それらが何も感じられない意見はスルーしますので不毛な書き込みはお控えください。 先ず簡単に自己紹介します。 私は大分前にキリスト体験によって入信したクリスチャンです。 理屈や知識ではなく、体験によって信じるに至っているので抱えている疑問などとは別にこれからもクリスチャンであり続けるのですが、一応一通り新旧聖書を数回完読しており、もう数年読んでないので以前よりはだいぶ衰えているとは思いますが何が書いてあって何が書いてないか位は即答できるだけの知識はあると思います。 質問です。 素朴な疑問なのですが、キリスト信仰の意味は何だとお考えになりますか? 質問の趣旨は、詳しく書くと非常に長くなってしまうので、分る方には分ると受取側の汲取力に頼って先ずはごく簡単に申しますと、「聖霊を冒瀆する罪以外の罪は全て赦される」のであればキリストを信じようが信じまいが、暑い中我慢して働こうが放蕩の限りを尽くして財産を食いつぶして帰還しようが同じ。 つまりキリスト信仰の意味が分らなくなるのです。 何も「差をつけて欲しい」から信心を持っているという話しをしているのではありません。 人々の持つ世界観に歪みがあっても、全員でその歪みを共有したならば歪みが無い人の世界観こそ苦痛であり不要なものとなります。 例えその歪みが多少の苦痛でも、歪みの無いものへの移行が大変な苦痛であれば全人生をその多少の苦痛の中で過ごそうと思う気持ちは分らないではありません。 どうせ最終的には歪みがあろうが無かろうが同じなのですから。。。 とこうなってしまうのです。 皆さんはどのように信心を持っていらっしゃいますか?

noname#207138
noname#207138

みんなの回答

  • puregrape
  • ベストアンサー率25% (12/48)
回答No.5

聖経は大きく旧約と新約に分けられます。 全ての人々は罪人です。罪が無い人は一人もいません。罪がある人は楽園になる3番目の空に入ることは出来ません。 たとえ神様だとしても出来ません。 3番目の空には罪が存在しないからです。全ての人々は悪魔の支配下におり、地獄に行くようになっています。地獄に行く定めから逃れ、3番目の空に行くためには罪を無くす必用があります。 ほんの少しも罪が無い完璧な状態にならなければなりません。 罪が支払う代価は死です。 罪がある人は必ず死にます。旧約では罪人の罪を無くす為に子羊を選びました。そして、傷や斑点があるかないか詳しく調べました。傷や斑点があると他の子羊を選び、傷や斑点があるかないか詳しく調べました。そして、傷や斑点がないと罪人の罪の身代わりとして血を流すことによって罪の赦して貰いました。傷や斑点は罪の模型であり、子羊は主イエスキリストの模型です。 主イエスキリストは聖霊によって宿られたから罪が無い完璧な子羊です。 そして、主イエスキリストは私達の罪の身代わりとして十字架の上で血を流すことによって処刑されました。 主イエスキリストが私の罪の身代わりとして処刑されたから私が支払うべき罪の代価は無くなったと信じる人は救われます。 このようなキリストの御業を心かから信じる人をキリスト人だと言います。 これを信じる事が楽園に入る事ができる有一の狭き門であり、狭き道です。 悪魔は絶え間無くこのような十字架の御業を攻撃します。教会の前に十字架を立てて置いて、教会に入って来る人々に十字架の御業を教えません。洗礼を受けると救われますよと教えます。律法を守ると救われますよと教えます。 しかし、聖経は警告しておられます。十字架の御業に何かを付け加えるとそれはもはや信心ではないと言われます。 十字架に洗礼を付け加えると信心ではありません。 十字架に律法を付け加えると信心ではありません。 十字架にマリア信仰を付け加えるとそれは信心ではありません。 十字架に自分の体験を付け加えるとかなり歪んだ信仰になる危険性があります。そのような体験によって異端が産まれます。 彼等は悪魔の僕であり、偽キリスト人です。 Only Cross, No Cross,No Salvation (十字架のみ、十字架無しには救いも無し) 十字架の意味さえ知らない牧師も多いです。 カトリックが十字架の御業を説教したのはただ一回もありません。これが悪魔の御業です。 このように十字架の御業のみによって救われたと信じる人をキリスト人だと言います。そして、このように信じる人が二人以上集まると教会とよびます。もし、貴方が神様の十字架の御業のみを心から信じるならキリスト人であり、神様の子供です。旧約では模型だった子羊がこのように世の中に来られ貴方の罪を完璧に無くしました。だから、主イエスキリストは十字架の上で(全てを成し遂げた)と言われたのです。今はこれを信じ無いから罪人です。 天国という言葉はマタイ福音だけにある言葉です。天の字があるから空にある国だと錯覚しますが、イスラエル王国の意味です。旧約で来ると約束された主イエスキリストがイスラエルの王様として来られました。そして、主イエスキリストがイスラエルの王様だとのべ伝えるように弟子達に言われたのです。 (主イエスキリストがイスラエルの王様だ) これが天国福音=王国福音です。だから、天国福音は異邦人には伝えるな!!イスラエル人のみに伝えなさいと言われました。そして、主イエスキリストがイスラエルの王様であることを証明する為に聖霊の御業によって死んだ人を生き返したり、盲人の目が見えるようにされたり、します。 しかし、イスラエルの人々の中には主イエスキリストを殺そうとする人々もいました。 このように主イエスキリストを殺そうとする人々を天国を暴力によって奪おうとする人々だと言われます。 彼等は主イエスキリストが聖霊によって行われる御業ー死んだ人を生き返ったり盲人の目が見えるようにされたりーを悪霊の力を借りて行ったと罵りました。これが聖霊を冒涜する罪です。このようにイスラエルの人々は主イエスキリストをイスラエルの王様として認めず殺しました。それによってイスラエルの王国は延期さされました。それが後に来る1000年王国です。この1000年王国でも聖霊を冒涜する罪は決して赦されません。 主イエスキリストがイスラエルの王様として来られている2000年前と後に行く1000年王国は私達とはかけ離れています。 私達は決して聖霊を冒涜する罪を犯すことは出来ません。 聖経を自分なりに勝手に解釈し聖霊を冒涜したと脅かす人がいるなら彼等は悪魔の頭です。 今はただOnly Cross(十字架のみ)です。 貴方には主イエスキリストが十字架の上で(全てを成し遂げた)と言われました。 これを信じると救われます。ただ今すぐです。 {たとえ神様だとしても罪があると楽園に入ることは出来ませんと書きましたが、それだけが聖経に書かれて無い私なりの考えです。 聖経の何処に書かれてあるかわかると言いましたが、~??

noname#207138
質問者

お礼

思った事、考えた事を言い控えて質問を立てた意味がなくなってしまうのは遠慮したいので、質問を続けさせて頂きます。 多少失礼な部分もあるかもしれませんが、どうかご容赦下さいませ。 「これを信じる事が楽園に入る唯一の狭き道」 とはどこに書いてありますでしょうか。 また、「狭き道」という事であれば恐らくマタイ7章の事をさしていらっしゃるのかと思うのですが、7章全体を読んだ上で「代価はなくなったと信じる人は救われる」と仰っているのでしょうか。 「自分の支払うべき罪の代価があがなわれた」とはそれを信じている限りに於いて何をしても大丈夫という意味でしょうか。 「十字架の意味さえ知らない牧師」とありますが、十字架の意味とは何でしょうか。 「カトリック教会十字架の御業を説教した事が一度もない」意味が分かりません。 「イスラエルの王国が延期された」はじめからキリストは排斥されて死ぬ為に生まれてきた筈だと理解していますがどういう意味でしょうか。 「聖経のどこに書かれてあるかわかると言いましたが、~??」 どこに書かれているかわかるとは一言も言っていません。 この点を含め、上記聖書のご紹介や解釈にpuregrapeさんの独自理解が散見されるように思います。たったこれだけの文章の中に既にいくつもです。 殆どの場合、相手(本を含む)が何を言っているのか正確に理解して初めて正確に解釈できます。 失礼ながらpuregrapeさんには対象を正確に理解する力が十分でないように見えます。 だれも十分な人はいないのは当たり前ですが、あえて十分でないと言ったのはpuregrapeさんが断言していらっしゃるからです。 「見えてなかったのであればあなたに罪はなかった。だが今あなたは見えると言っている。それ故にあなたの罪は残る」この箇所をどう思われますでしょうか。 恐らく熱心な方なのであろう事は何となく伝わって来る気がします。 それだけ熱心だと周囲との温度差も大きく感じ、故に聖なる事について1人で考え込まなければ成らない事もあるのかもしれません。 でも、不確かな事について断言するのはあまり賢いとは言えません。 聖書はpuregrapeさんの仰る様な解釈も可能ですし、結局何をどうしようが救われないと言った様な方向に解釈する事も可能です。 puregrapeさんは部分読み過ぎませんか? 辛辣に思えるコメントかもしれません。 でも私も結構真剣に悩んでいる上での質問です。 どうかご容赦頂きます様お願い申し上げます。 よろしくお願い致します。

noname#203483
noname#203483
回答No.4

具体的には、どういう「よいことがあったか」ですか。 そうですね… これまでいろいろ失敗してきましたし、今も胸が痛むことがありますが お祈りしていると天国で神さまが調整してくださって、 「人生で7回転んでも8回起きあがれてきた」ということです。 おすすめの本は、 「キリストにならいて」

noname#207138
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 もしかしたら失礼に当たるかもしれませんが、私は私の疑問に何かしらのヒントや答えの類いを見出したい為に質問させて頂いているので、質問を続けさせて頂きます。 もし失礼でしたらどうかご容赦ください。 信心を持っていなくても七転び八起きは成立します。 気持ちが強ければ何度転んでも起き上がる事はできるでしょう。 私がお聞きしたいのは本当に最終的な所です。 よく信仰を持っていれば困難に立ち向かえるという方がいます。 その通りです。信仰は大いなる心の支え、後ろ盾、追い風になってくれるでしょう。 しかし、信心を持っていなくても普通の人生に訪れる殆どの苦難は乗り越えられます。 現に信仰を持っていない人が大多数を占めるこの国で多くのクリスチャンが経験しているよりも大きな苦難を乗り越えている信心の無い人達はいくらでもいるでしょう。 つまり気持ちが強ければそうした心の支えはあまり必要ないと言えてしまう。 そして目の前のうざったいヤツを分りやすい種類分りにくい種類を問わず暴力で蹴散らしてしまえば困難が生じる事すら回避できてしまう。 心はいくらでも鈍感にできるのです。 多少世界観が歪んでいるからって何のその。 それで迷惑がるヤツがいるなら弱いそいつが悪い。 自覚無自覚を問わず人々はこう考えていると言える。 決して認めたがらない人も沢山いるでしょうが、多数派が少数派と対峙している時にはこれが起きている。 少数派の言語抑制に成功すれば多数派は自分が暴力を振るっている事さえ意識せずに済む。 そうして力で弱い者をねじ伏せ、決して対話しようとしなくても結局最終的には信心を持っている人達持っていない人達の差はない。 そうだとしたら、気持ちが強く実際に影響力も強い人にとってキリスト信仰の意味はなんでしょう?

  • goncici
  • ベストアンサー率26% (283/1054)
回答No.3

仏教徒ですが、親戚のプロテスタントの葬式に参列しました。 その時の教師さんの言葉です。 キリストは復活された。神とキリストを信じていれば、 終末の時、信徒と一緒に復活することを約束(契約)する。 だからそれまでキリストと一緒に天国で待ちましょう。 (間違っていたらごめんなさい) どの宗教でも一緒ですが、良いことをすれば天国や極楽に行けるよ。 逆は地獄だよ。 だから良いことをしましょうね。 これにつきると思いますよ。 幼いときからの親の教えで、善悪を覚え良心を持てば、 良いことをして良い気持ちになればそれが極楽。 悪いことをして良心が痛めばそこが地獄。 私の解釈です。 でも、仏陀の悟りは「無」「空」で、地獄極楽は坊主による「方便」ですけどね。

noname#207138
質問者

お礼

私もあるレベルに於いては「いい気持ちになれば極楽、良心が傷めば地獄」についてそう思います。 ただ、私は質問文に書きました通り、キリスト体験によって入信しています。 その体験はそんなものではありませんでした。。。というよりそれがもう原型を留めていない程の昇華された状態と言えるのかもしれませんが。。。 本当に形容する言葉のない考えられない世界でした。 確かにあそこに入れる入れないの区別がついてしまうのなら、大量殺人鬼でさえ全て赦して入ってきて欲しい。入って来れなければかわいそうだと思う”様な”世界でした。 "様な"とは既に普通の感覚ではないので「入ってきて欲しい」としか思ってなかったのです。でもそれを今この世界で生活する人のマインドセットにより自然に伝えようとあえてかわいそうと付け加えました。 生身の人間の母親でさえ自分の子供が大量殺人鬼でも愛し続けるのであれば当然と言えば当然なのかもしれません。 神の愛は人間のそれに劣る訳がなく、上記はキリスト信者としてごく自然な考えと言う事ができると思います。 とするとです。 この世で多少鈍感に生きても食べたいものを食べ、欲しいものを手に入れ、その為には他人を搾取しようとゴミの様に扱おうとどれだけ傷つけようと最終的には食べたいものを我慢し、欲しいものを我慢し、他人の為に自分を犠牲にしようと変わらない。 キリスト信者として神と自分との交わりだけを得て生きるのはとても幸せな事です。 でも、キリスト信者は同時に世界への働きかけも促されており、ここで様々なすれ違いや誤解、不理解などなどが生じて問題になるのです。 神との交わりは経験しなければその良さは決して分らないでしょう。 決して分らないものへ人を移行させるのは至難の極みです。 でも、理屈に於いては前述の通りキリスト信者であっても非信者であっても大した違いがないと解釈できてしまうのです。 そこで私の信心は一旦横に置いておいて、人様の信心の持ち方をお伺い致しました。 ご回答ありがとうございます。

noname#207138
質問者

補足

私の文面に私の思考や世界観などの欠陥をお認めになりましたら、不毛な批難としてではなく、有益なご指摘として仰って下さって全く問題ありませんので、有益な対話になりますことを願っております。

回答No.2

『信ずるものは救われる』ってのが(漠然とした)答えかな? 私は仏教徒でありキリスト教信者ではありませんが 『仏神を尊し、仏神に頼まず』です。 最後に実力を出すのに必要な物は己の力。 神頼みや他力本願では最後の力が出ない。 神社参りで手を合わせるのは「自分で力が出せれるように」と自分に語りかける自己暗示的な意味。 頼れるのは自分の力のみ。 仏神は心の支えになるが、力量を示すことは無い。

noname#207138
質問者

お礼

進化論は神の創造の否定だと退けたがるクリスチャンがいる様ですが、私の考え方は違います。 進化論であろうが創造論であろうがあまり興味が無いのでこういう考えになるのかもしれませんが、「進化という過程を経て創造をしている」という受け止め方は不可能ではないと思っています。 この意味は、己の力と神の力を区別するボーダーラインの置き所は実質無いと。神は自己であり、自己は神である。 自分が何を成し遂げたとしてもそれは神の力によって成ったのだし、それは即ち自分の力という考えです。 ですから「神無しには何も出来ない」訳で、これが「"所謂"他力」に聞こえるのでしょうと。 ※もちろんキリスト教には「”所謂”他力」も存在していますので、それを否定する発言ではありません。 お答えに対する解釈があいまいになってしまうので、恐縮ながら改めてお伺いさせて頂きたいのですが、「救われる」とは具体的にどういう意味でしょうか。

noname#203483
noname#203483
回答No.1

生ける神さまとの霊のまじわりをもって、日々を生きることではないでしょうか。 (私はキリスト信者です。)

noname#207138
質問者

お礼

生ける神さまとの霊の交わりをもって日々を生きる。 しばらく十分にはしていない行為です… だからこんな質問が出てしまうのかもしれませんが… それがとても大切な事だと言う事は理解できます。 ただ、私以外の方の考えをお聞きしたいという意味であえて質問で恐縮なのですが、それによって具体的にどのような善い変化が起こるでしょうか。

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