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リチャード・ドーキンス「神は妄想である」について

リチャード・ドーキンス著「神は妄想である」を読みました。非常に論理的で説得力を持つように感じました。これだけの著書である以上,キリスト教等,神の存在を肯定する立場から、きちんとした反論があっても良いように思いますし,ぜひ,一流の神学者等の立論を聞いて(あるいは読んで)みたいと思います。そのような著書あるいは論文等は,あるのでしょうか。感情的に非難するものでなく、きちんとした理性的な反論が知りたいのです。ご存知の方は、是非ご教示ください。

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noname#141408
noname#141408
回答No.1

リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」あるいはクリストファー・ヒッチンスの「神は偉大ならず」を代表とするキリスト教・宗教批判に対して、キリスト教神学に立脚した擁護論を展開しているのは イギリスのマルクス主義者であるテリー・イーグルトンの下記の書籍です。  「宗教とは何か」 青土社   2010年出版

ikuro1954
質問者

お礼

早速に、有益なご教示をいただきまして,ありがとうございます。マルクス主義とキリスト教が個人の中で両立しうるのか不思議な感じですが(もっとも,マルクス主義は,キリスト教を現世に焼き直したものだという説がありますが),入手して読んでみようと思っています。

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その他の回答 (4)

noname#189899
noname#189899
回答No.5

リチャード・ドーキンスは読んだこともないそ、その反論に関する文献は知りませんが、、、。アメリカのキリスト教保守派は、確かに過激ですよ、、、、。進化論を否定したり、、、アメリカの軍事行動の熱烈な支持者になったりと、、、。 でも>>その過激ゆえに!!!<<、「自由主義を守る政治的な力」にはなっとるんです。 なぜなら、アメリカのキリスト教保守派の中心概念には、「神から与えられた自由」つう考えがあるから。選択の自由や機会だけは、犯そうとしない。 そして、やはり自由を重視しない政治勢力、軍事力って、やはりあるんですよ。そういう力に日本がのみこまれないほうがいいと、思います。そいういう意味では、アメリカのキリスト教保守派の存在意義もあるのかなあと。 この利点について、リチャード・ドーキンスはどう考えとんでしょ? 不勉強で、すんません、、。

ikuro1954
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 しばらく不在にしていたので、お礼が遅くなり申し訳ありませんでした。

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  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.4

私はその本を読んだことが無いのですが、 論理的であるということがある種の限界値を規定することにならないでしょうか。 井の中の蛙が論理性を発揮して、その結論として海は妄想であるとしたら蛙を責める気にはならないですが、蛙の論理性には限界があると言えるのではないでしょうか。 論理とは人間の歴史、知識、経験なのですから、それを超えたものがあるとしたら論理では測れないと言えないでしょうか。これは人が言うところの論理的な考えだと思います。 分からないもの(例えば神)は分からないと素直に言うのが論理を超えた達観というものじゃないかと思います。

ikuro1954
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 このようなお考えがあることは十分理解できます。その上で、(この本を十分読みこなしているといえない状態なので,不正確かもしれませんが)若干考えていることをコメントさせていただきます。(1)ドーキンスは,対象とする神の概念について,第1章で,明確に定義しています。彼が議論の対象にしている「神」については,彼の議論は,相当説得力を持つように思えます。(2)その点をおくとしても,キリスト教等が採用する教義の内容については、科学的に判断が可能な領域が相当含まれ,「分からないもの」とはいえない段階に至っているように感じました(古くは,天動説自体が,キリスト教的には正しいとされていたのと同じような状況が、広がっているように思えます。)。 いずれにせよ,内容的な点については,(自分自身不勉強なため)この欄では、これ以上は遠慮させていただこうと思います。 説得力を持った、ドーキンスに対する反論を展開している著書等ありましたら,ぜひご教示ください。

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noname#141408
noname#141408
回答No.3

度々失礼いたします。私は「宗教とは何か」を購入したのですが回答後に他書籍も気になって調べた結果、リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」の出版で引き起こされた論争に関して、下記の反論書籍があることがわかりました。 The Dawkins' Delusion (著者)Alister E. Mc Grath God is No Delusion (著者)Thomas Crean どちらかの書籍をamazon.comで検索して出てきた関連書籍を調べていくと、この他にもドーキンス批判とみられるようなタイトルの書籍があります。お好みの書籍を読まれてはいかがでしょうか。

ikuro1954
質問者

お礼

重ね重ね,ありがとうございます。まずは,前回ご教示いただいた本を読むことと,ドーキンスの他の代 表作を読破することを考えています。しばらく洋書も読んでいないので,今回ご教示いただいた本までたどり着くには、しばらく時間がかかりそうですが,是非,読ませていただこうと思っています。

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回答No.2

 こんにちは。  ○ 神は存在するということが 人間の経験合理性において分かるというのは 妄想です。    ○ 同じように神は存在しないということが 合理的に証明できたというのも 妄想です。  ○ なぜなら 人間に表象し得て分かった神は 神ではないからです。分かり得ないと分かったその神も 神ではないからです。  ○ 経験思考を超えているナゾでなければ 神ではないからです。  ○ 神は死んだと言いますが それは 人間のあたまの中にいだかれた観念の神のことです。観念となった時点で その神は死んでいます。偶像です。  ☆ むつかしい神学を持って来なくても 簡単に説明し解明できる問題ですよ。  【Q:神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6057191.html

ikuro1954
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。

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