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戦死と結核

ご先祖様の事で質問です。 若くして戦争で亡くなった方がいると聞いていて戸籍にも「戦死」と書いてありました。 しかし亡くなった場所を調べると当時は結核療養所だったようです。 (ただ、戦争中なので負傷者などを収容していたかもしれません) ちなみに死亡届はその方の父が出しています。 詳しい死因等は聞いておらず、知るであろう人ももう亡くなっています。 昭和19年頃のようですが、結核等の病気で亡くなっても戸籍には 戦死と記載されますか?

  • hams
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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • pixis
  • ベストアンサー率42% (419/988)
回答No.1

はい、されます。 兵隊で戦地、あるいはどこかの部隊に所属中に病気で亡くなっても 戦死として記録されたようです。 いくら戦時中でも一家の大黒柱が兵隊に出て 亡くなったとすればその一家はかなりの打撃となります。 いかなる理由で亡くなっても(敵前逃亡や犯罪などで銃殺以外) 補償が受けられるように処理されたようです。 上官や、役所の受け入れ側も気を使ったのでしょう。 国のために命を掛けて戦地に赴き、そこで不運にも結核となってしまった。 戦地でなければ結核にもならなかったかもしれない と誰しも思うのではないでしょうか。 命を掛けて出て行ったのですから、そりゃ戦死で当然だと私も思います。

その他の回答 (2)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>昭和19年頃のようですが、結核等の病気で亡くなっても戸籍には戦死と記載されますか? その通り「戦死扱い」となります。 レイテ海戦敗北の結果、軍は部隊撤収を計画しました。 が、当時の陸海軍を統帥する方が「朕は同意できない」と発言。 結局、作戦とは実質的に意味が無いニューギニアへ多くの(赤紙での)召集兵が投入されました。 彼らも「戦死扱い」ですが、多くは「餓死・赤痢などの病死」ですよ。 作戦参戦中は、死亡の原因が何であれ「戦死」です。 ご先祖さまも、作戦に参加若しくは召集されての死亡の場合は「戦死扱い」となります。 戦死は、戦闘行為で死亡するだけでなく「戦場での死亡」も含まれるようです。

  • kusirosi
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回答No.2

帝国陸軍は、結核患者を徴兵し結核が蔓延するの恐れ、 結核患者は徴兵免除しましたが、 戦地の劣悪な環境で、結核となり、除隊せぬまま、 施設で死亡すれば、当然戦死(戦病死)とされます。 賀川豊彦の著書に、こうあります。 ・「少年平和読本」より 戦死者よりも多い戦病死者、     特に多いチブスと結核による死者      戦争による死者七十億人  ある書物によると、過去数千年の間に、戦争でうしなわれた人間の生命は七十億をこえているだろうという。地球上の人間の数は大体十八億というから、世界の人間の約四倍が戦争の犠牲になったわけだ。この中にはシーザーも、ネルソンも、ジャンダークも広瀬武夫もふくまれている。もちろん、この七十億人は前に話したように、全員が鉄砲玉や剣で殺されたのではなく、戦争にはつきももの疫病などでたおれた人たちもふくまれている。しかも、この戦病死者の数は、戦死者よりも多いのである。  たとえば、ナポレオンのモスクワ進撃の時、彼の軍隊五十三万三千の内、四十三万八千――八割三分は途中でたおれたという。大部分は寒気のための凍死か、チブスその他の疫病で死んだのだ。またその前のエジプト、シリヤの遠征の時も、戦死者四千七百にたいし、病死者四千百、ことにその中の千六百八十九人はペストで死んだのだといわれる。くだって、露土戦争のときは、さらに悲惨で、トルコに侵入したロシア軍十一万五千といわれたが、陣中で赤痢、泥沼熱、壊血病がはやって、生きて母国に帰った者はわずか一万五千。のこり十万人の中、二万人は戦死、八万人は病死したという。  第一次大戦の戦病死者  恐ろしいのは伝染病である。第一次世界大戦の時、ドイツでは九十万人の伝染病者が陣中で発生し、そのうち、七十万人はなおったが、四万六千人は死んだ。その中でも最も多いのはチブスであった。チブスは戦争につきものだ。なにしろ、不衛生な土地を強行進撃することが多いのだから――。結核はどうだったかというと、ドイツ軍で結核のため入院した者十三万、その中二万――一割四分――はいたましくも死んでいる。ドイツ軍の戦死者は百八十万人といい二百万人というから、戦死百に対し結核による戦病死一という割合で、ドイツ軍としてはチブスよりも、赤痢、コレラよりも、結核による戦病死者の数は多かったことになる。  「日本は結核で亡びよう」  太平洋戦争のさいちゅうに、ソ連の労働者大会でスターリンは「日本は戦争でほろびないでも、おそらく結核のためにほろびるであろう」といったそうである。日本の兵隊は国家主義にこりかたまっていて、祖国のためには身のつかれもいとわず、ほとんど飲まず食わず眠らずで進撃をつづけるから、小さい時に結核に感染していた人たちは、その過労と栄養の不足からついに結核を再発し、それも早く手当てをすればくいとめられるのを、戦場のこととてむりをして、みすみす助かるいのちをすててしまうのが多かったのである。戦時中、こんなニュース映画を見た。味方の急進撃を助けるため、敵のこわした橋を修繕するひまももどかしいとあって、工兵がつめたい水中にはだかで飛びこみ、橋けたをささえる柱のかわりとなり、その肩の上を味方の兵隊にわたらせている場面だった。そのとき思ったことは、不眠不休の過労のところへ、こうした不潔な水中に永くひたっていては、健康な者でも病気になろう。こうしたとき、結核が再燃しないと誰が保障できよう――と。いいや、工兵だけではない。その工兵の肩の上を、「すみません」とあいさつをしながら通ったその歩兵だって、グングン急進撃をつづけていくうち、過労と栄養不足のために結核を再発するかもしれないのだ。経済安定本部の発表によると、太平洋戦争中、わが軍の戦病者は延べ人員七百九十九万人に達したという。これは、入院した兵隊の数だから相当重症の者にかぎられている。マラリヤだとか、急性胃腸炎だとかもあったろうが、一番多いのは伝染病でなければ、結核だったろうと想像される。

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