• ベストアンサー

ヤマト王権の統一について

ヤマト王権統一が350年頃とされている理由は、どこからきているのでしょうか。日本書紀の記述でしょうか?倭王武の上表文からでしょうか。350年という具体的な数字が示されているということは、どこか文献に当時の様子が書かれているのだと思うのですが。日本書紀なら景行天皇の頃になるのかな? ご存じの方教えてください。

  • 歴史
  • 回答数7
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sala1
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.1

 私も350年頃とされている理由については大変疑問に思っています。  いまや古事記・日本書紀以外に当時をさかのぼる史記をもたない我々は、古事記や日本書紀の編纂令を発した権力者の意図を排除した客観的史実を知る術を持ちません。 海外の倭国についての断片的記述による推測や考古学的発掘・発見を待って裏付けられた事のみを史実に近い出来事として考える他はありません。    ただ、仮に、日本書紀が比較的史実をとらえているとするならば、ヤマト王権の統一は5世紀末から6世紀、おそらく「継体天皇」か「欽明天皇」あたりまで下らないと王権の統一は成立していなかったように思います。これも日本書紀からの推測にすぎませんが・・・。

tatubei
質問者

お礼

回答ありがとうございました。実は、子どもからの質問でヤマト王権の成立が350年と書いてあるが、という内容だったのです。350と具体的な数字が出ている以上、何らかの文献資料だろうと思ったのですが、私の知る限り、高句麗の広開土王碑の391年くらいしか4世紀の記述は知らない。またヤマト王権の成立は、確定的なことは言えず、4~5世紀ころという範囲で述べるのが精一杯の線ではないかと考えています。ただ、ネット上の古代史サイトにもまことしやかに350年という数字が出ているので、もしや新たな文献資料でも発見されたのではと思い、質問しました。

その他の回答 (6)

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.7

 土器の編年などによって、箸墓古墳が紀元400年頃に作られていたと推定されていたので、大和朝廷の成立は紀元350年頃と考えられていました。  このような巨大古墳を作ることができたのだから、ヤマト王権が確立していたはずとの考えです。 文献は既に多くが既知で、新しいものが出てくる可能性が少ないので余り当てにできないでしょう。  最近は、年輪年代法などによって、箸墓古墳の築造が、3世紀半ばとも言われるようになりましたから、もっと早期にヤマト政権が誕生した可能性があります。 箸墓古墳 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B8%E5%A2%93%E5%8F%A4%E5%A2%B3 

tatubei
質問者

お礼

回答ありがとうございました。3世紀頃の畿内の権力者集団を初期ヤマト政権と名づけている方もいるようですね。ただ、350年と断定することはできないので、やはりヤマト政権の統一を350年としている参考書はちょっと違和感があります。「4世紀中頃」というのが妥当ではないかと思います。

  • mekuriya
  • ベストアンサー率27% (1118/4052)
回答No.6

どこにも理由は存在しません。その辺に仮定しておいた方が収まりが良いという程度のことです。その時代には暦も文字もない。西暦も和暦も何にも無い。だから文献史料など存在するわけがないのです。日記をつけようにも今がいつなのか表現する方法が無い。ペンもノートも何にもない。何を持って、ヤマト王権統一と看做すのか。誰かが国会で所信表明演説したとでもいうのか。そんなもの何にも無い。しかも4世紀は「空白の4世紀」と呼ばれるように中国の歴史書にも日本のことは何にもない。暦が無いのだから、○○天皇が即位して何年目に何が起こったといったことを口頭での伝承で代々語り継いできたのです。そういった伝承を漢字を移入したことによって文書化できたのが日本書紀です。もう何百年も後のことです。しかし、そもそも暦が移入される前にどうやって年を数えていたのか、これが判明しない。現代と同じ数え方をしている根拠が何もない。 こういったことを一度も考えたことが無い人達が参考書を書いて、そのまま丸写しで広めている。あきれたものだ。

  • sala1
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.5

 追補です(少々細かいですが・・・) 中国の史書からこの時代の倭国を見てみましょう。 まず、劉備玄徳・諸葛孔明で有名な「三国志」。 この時代の後、中国は「魏・呉・蜀」の三国が鼎立します。 紀元220~280年間の歴史を、陳寿という人が魏書30巻・呉書20巻・蜀書15巻の計65巻で正史としての「三国志」として記述しました。 このうちの魏書(魏志)の中に「東夷伝」があり、その中に「倭人」の項があります。 いわゆる「魏志倭人伝」です。 ここに「邪馬台国・卑弥呼」の記述があるわけです。 「邪馬台国」は比較的大きな政権であったようですが、ヤマトの王権であったかが定かになっていません。 次に中国も国が変わって「晋書・梁書・南史」などに413~502年のこととして「倭の五王」が「高句麗・百済」などの王と同様に中国のそれぞれの朝廷に貢物をおくり、「安東大将軍・鎮東大将軍」などの官職を得ています。 「讃・珍・済・興・武」の五王は「履中・反正・允恭・安康・雄略」の天皇に相当するものとされています。 広開土王碑にあるように、このころの倭王は「安東大将軍・鎮東大将軍」として朝鮮半島の軍事にも関わっていました。 応神天皇に始まって仁徳天皇、次いで「五王」が立つなど、この王統は邪馬台国以上に勢力が大きかったように思いますが長続きしません。 その内情は不安定なようでした。 その後、中国は「隋」に国が変わります。 日本も雄略天皇以降国が乱れ、502~600年までの間、国交が途切れます。 朝鮮半島の拠点であった「任那」の地も失います。 ついに武烈天皇の代で「倭の五王」を排出した王統が断絶します。 6世紀になって、新しい王統として近江や北陸地方に勢力をもつ豪族が大和もその勢力下に治めることになります。 これが「継体天皇」を祖とする王統です。 この王統は次の「欽明天皇」の代に大和の地盤を固めました。 この頃、仏教が本格導入されます。 こうしてヤマト王権が統一されるに至ったと考えられるのです。 この二代後に「聖徳太子」を排出します。 「国家」としての体ができあがってくることになります。 長くなりました。ごめんなさい。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

もういちど読む日本史 山川書店 を見直したが、好太王碑の日付からも、四世紀末の前には倭国に巨大な勢力があっただろう、それが ヤマト王権だろーなー くらいの記述です 350年頃というと、有効数字から345-355の間のことをいっちゃうんだよね(理系的には) 4世紀半ばであれば333-367 くらいの アバウトになるけど。 そこまで、厳格に同定できる発掘とか史料はまだ出ていないと思う。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

三世紀の半ば頃に 卑弥呼が中国と交流したことが記録に残っている。 邪馬台国が九州なのか近畿なのか不定であるが、それなりの大規模政権であることが推測される。 生口の数などから http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%89%A3%E3%83%BB%E9%89%84%E5%88%80%E9%8A%98%E6%96%87 5世半ば段階で関東まで支配していたようだ 5世紀半ばに、倭の五王の記録がある。 この段階では、ほぼ日本は統一されていたようだ ということで通常は4世紀半ばくらいじゃないの? というレベルであって350年とかいう細かい推定でないと思うが

tatubei
質問者

お礼

回答ありがとうございます。4世紀中葉あるいは4世紀中頃とすれば、ある程度の幅が想像されるので、それほど違和感を覚えないのですが。参考書(これは未確認)にもヤマト王権の成立年として350年という記述をしている本もあるようです。4世紀中葉を数字の350年頃に置き換えているだけなのでしょうか。

noname#140269
noname#140269
回答No.2

350年という年は仁徳天皇38年に相当します。大まかな時代では「古墳時代」に相当します。 「日本書紀」は720年に完成していますが、日本古代史の最も重要な史料でありながら、その信頼度はとても曖昧かつ危ういです。そのようなあやふやな史料など参考にしない方が良いのかもしれません。720年と言えば第44代、元正天皇の時代に当たります。 「古事記」は主に神話が書かれているもので、これまた信憑性が薄いです。 では中国の書物という事になるのですが、これまた諸説色々あり信憑性に欠けています。 有力な説は「日本書紀」編纂時に、大和王権統一という事項に触れた際、あらゆる文献・記録を探したがこれはという根拠が無い。はて、困り果てた編纂者は、逆に歴史を辿っていった際、350年「頃」にぶつかり、根拠の無いまま350年「頃」という曖昧な書き方をしたのだろうというものです。

tatubei
質問者

お礼

回答ありがとうございました。350年の根拠は、やはり「日本書紀」だったのでしょうか。それならば、かなり怪しいと思わざるを得ません。350という具体的な数字である以上、何らかの文献資料なのだろうと思っていましたが。しかし多くのサイトに「350年頃ヤマト王権統一」と書いてあるのに、少し驚きました。「4~5世紀頃」が、せいぜいだと思っていましたが。。。

関連するQ&A

  • 西暦600年当時の天皇(中国では倭王)は男か女か

    西暦600年当時の天皇(中国でいう「倭王」)は、日本書紀では女子(推古天皇)ですが、隋書(倭国伝)ではどうやら男子のようです。 どちらが正しいのでしょうか。

  • 日本武尊伝説における矛盾

    【1】父である景行天皇から東征を命じられ東日本を征伐した彼が何故関東で英雄として祀られていることが多いんでしょうか? 【2】またヤマト王権の人間だった彼がかつての王権の拠点であった奈良や大阪、王権の奥座敷だった伊勢(三重)などではあまり人気がないのはどうしてでしょうか? (彼が没した地、三重県の能褒野には陵墓がありますがほとんど知られていません。) 【3】王権の英雄を具現化した架空の人物という見方もあるそうですがどうなんでしょう?

  • ヤマト王権と大和朝廷

    現在の歴史教科書では「ヤマト王権」として一般に扱われている5~6世紀ですが、この歴史用語に対して未だに「大和朝廷」などという幻想にも近い表記をされて平然としている方々も多々見受けられます。  この方々の多くは1945年以前の歴史教育を受けてこられたと存じますが、現在の考古学的成果や文献史学による検証に基づく「大化以前」と「大化以後」の社会構造の違いなどに関してどの様な印象をお持ちであるかをうかがわせていただきたいと存じます。  もし可能であるならば、その理由も合わせてお話いただければ幸甚です。

  • 任那は存在した???                       (日本側の任那存在説VS韓国側の任那非存在説)

    日本側の主張 「宋書」「広開土王碑」「日本書紀」が証明する任那』 1、「宋書」 次の中国南北朝時代の「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を見て下さい。 421年 讃 叙爵 438年 珍 安東将軍・倭国王 443年 済 安東将軍・倭国王 451年 済 安東将軍・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事 462年 興 安東将軍 478年 武 安東大将軍・倭国王・使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓6国諸軍事 451年の倭王済及び478年の倭王武の記述に「任那」の文字があります。 当時、任那という地域が存在し、その「軍事」(当時の中国の官職)に「倭王」が任命されていたことを証明しています。 2、「広開土王碑」 広開土王碑には次のような記述も見られる。 曰く「大軍をもって新羅城を奪還すると、撤退する倭兵の背後から任那加羅まで急追していった」 3、「日本書紀」 日本書紀には、当時の倭国は朝鮮半島に大規模な軍事力を駐屯させており、任那日本府というのはその駐屯地などを兼ねた日本の朝鮮半島における拠点であった。 その後、百済・新羅などによって任那は軍事的圧力を受け続け、紀元562年に任那は新羅に滅ぼされています。(日本書紀、欽明天皇二十三年) 韓国側の主張 1、日本書紀の記述に関して「任那日本府を通じて、日本へ朝鮮半島からの文化が伝わった(要約)」ことが書かれているが、この中の「日本へ朝鮮半島から文化が伝わった」と言う部分だけを引用し、その前提となる「任那日本府」については虚偽であるとしている。 2、また、広開土王碑についても、旧日本軍の改竄説を主張して、論拠を否定している。 3、韓国では「宋書」から倭の五王についての官位・爵位の記録を認めていない。 任那は存在したと思いますか?

  • 継体天皇の在位期間の真実

    Wikiによると第26代継体天皇の在位期間は、 507年3月3日 - 531年3月10日 となっています。 一方で、倭の五王の「武」が第21代雄略天皇に比定されています。 477年 武 興没し、弟の武立つ 502年 梁の武帝、武を征東大将軍に進号 中国歴史書に見える477年、502年は動かないとして、 武が雄略天皇とするとその五代後の継体天皇の在位はもっと後年に始まるはずです。 継体天皇の事績のうちで、これは確実に何年に行われたということが 判明していることがありますか? あるいは継体天皇に限らず日本書紀・古事記の記述と中国史書の記述とが一致する 最古の客観的歴史記事は何でしょうか? よろしくお願いします。

  • 雄略天皇について

     なぜ倭王武は雄略天皇の可能性が高いとされているのですか。  彼の事績を調べていたのですが、朝鮮半島での対外遠征の記述はほとんど無く、政権内部の権力闘争や粛清が大半でした。明らかに国論が統一されてなかったような感じです。さらに、倭王武が中国南朝から都督や将軍号を貰っていたのですから、彼の宮殿があった場所は都督府と呼ばれていてもいいはずです。でもそのような記述は無く、畿内に一宮や府中のように地名として残っていません。  通説で言われているように、当時の中国との冊封体制を伏せているのだとすると、なぜ朝鮮半島での対外遠征に対する言及が軽くふれられているのか説明できません。なぜ記述を徹底していないのでしょうか。  また、稲荷山古墳から出土した鉄剣に刻まれた文字にはワカタケル(漢字は省略)と書かれていますが宮の名前が異なっています。  一つ一つ検証してみたのですが、私は納得がいきません。こういうのを書くと馬鹿にする方がいるかもしれませんが、回答をくださる方、お願いします。

  • 日本武尊の東征はどこまでいったのでしょうか?

    日本武尊の東征はどこまでいったのでしょうか?日本書紀と古事記で違っているようですが。東北に馬文化をもたらしたのは日本武尊ではないかと思っているのですが?5世後半の中半入遺跡から馬の歯が見つかっています。景行天皇の時代が4世紀末とすると時代的に合うのでは?

  • 大和政権の統一過程

    大和連合政権はどのようにして日本を統一していったのでしょうか? ひとつずつ国または連合国家をつぶしていったのでしょうか? それとも、大和連合政権のほかにも連合国家をつぶしていった巨大国家があり、 最終的に大和連合政権と巨大国家の一騎打ちになったのでしょうか? 私は古墳の広まりや、ワカタケル大王の鉄剣・鉄刀の出土、倭王武の手紙(東55国、西66国を平定)から、 国または連合国家をひとつずつつぶしていったと思います。

  • 暦法の誤差?日本書紀の間違い?

    日本書紀の推古天皇の条に、「卅六年春・・三月丁未朔戊申日有蝕盡之」とあります。 「三月丁未朔戊申」とは「3月2日」です。「(推古天皇)卅六年春・・三月丁未朔戊申」、すなわち「推古36年3月2日」は、ユリウス暦「628年4月10日」に相当します。書紀には、この日に日食があったと記述されています。 ところで日食は太陰暦の月初の日(1日)にしか起きません。ですから「推古36年3月2日」に日食があったという記述は不可解です。 (1)当時の暦に誤差があったのでしょうか。当時の暦法は元嘉暦です。元嘉暦は劉宋(中国)で編成された暦であり、欽明天皇のときに百済を通じて伝来しました。この元嘉暦に1日の誤差があったとすれば謎は解けます。 (2)それとも日本書紀の編者が記述を間違えたのでしょうか。あるいは、書紀編纂の基礎資料に間違いがあったのでしょうか。

  • 実質的な日本建国の日

    こんにちは。 当「教えて」の歴史を見ていると色々勉強になります。 自分も日本人として日本の歴史を改めて勉強したくなりました。 そこで、そもそも「日本」という国はいつできたのか。を勉強したのですが。 日本は「建国記念の日」として2月11日(旧暦1月1日)と制定されていますが、これは紀元前 660年1月1日(旧暦)に神武天皇即位の日とされています。 ただ、神武天皇も実在の人物か否かの議論もあり、また、当時はまだ国号として「日本」とは 名乗っていなかった。 日本列島に人が住み始めたのが約3万年前。当時アジア大陸と陸続きで当時住んでいたのが 縄文人であったこと。 約1万2千万年前に氷河期が終わり、大陸から分離したがその後も大陸と交流があり、紀元前 8世紀頃、中国南部を中心とした稲作文化を持つ弥生人が入って来て、やがて「ヤマト」王朝に 発展しました。 7世紀後半から8世紀にかけて「ヤマト」王権は「日本」国号と「天皇」称号を設定したとあります。 当時「唐」で制定された「唐暦」に702年「日本国」からの遣使があったとの記録もあったと。 ただ、まだ日本は統一されてなく、九州南部や東北の北部、北海道は領域外だったとのこと。 こう調べていきますと、歴史学は不勉強ですが、実質的なといいますか、実行上といいますか、 近代日本(明治維新前)に近い領土、政治、文化を持つようになった「日本」とはどの時期だった のかが、よく解りません。 「建国記念の日」は神話の要素も入っていますので、それはそれとしまして、実質的な「日本」 建国はこの時期だ、と思われる方がいらっしゃいましたら教えてください。 それでどうなるものでもありませんが、色んな角度で構いません、よろしくお願いします。