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寺院法度と寺請制度
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古くから中央の大寺と地方の小寺は、住持の師弟関係や 経済関係から、本山(本寺)、末寺という従属関係が構築 されていました。 国の経済の発展につれ、寺も増え末寺(中本山)の末寺も 現れ、末寺の格付け等混乱し、紛争も発生しました。 「寺院法度」と「本末制度」について。 江戸幕府は寺の統制を計る為、一宗派一本山と定め、 本山がすべての末寺の秩序をとるよう命じました。 これが「本末制度」です。それ共に僧侶の業務として、 宗学儀礼の奨励、僧侶の任命法階級厳守などを取り極め、 「寺院法度」を出しました。「本末制度」はこれに含まれます。 キリシタンの弾圧を目的としたものではありませんが、念頭に おいた可能性はあったかも知れません。 「宗門改」と「寺受制度」について。 宗門改で、寺の檀家でありキリシタンでなく、以前キリシタンで あっても、今は改宗してそうでないことを、檀那寺が証明するのが 「寺受制度」で、「宗門改」とともにキリシタン弾圧を目的とした ものです。
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- fumkum
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寺院法度 寺院(諸)法度は寺院・僧侶の幕府による統制をはかるために、時期は異なりますが幕初に各宗派ごとに出された法律です。これは、戦国時代に加賀一向一揆にみられるように、戦国大名を打倒し、一国を支配したような宗教の持つ民衆を巻き込む信仰心を軸とした軍事力・エネルギーを削ぐことを目的としています。徳川家も今川家からの独立直後、三河一向一揆の苦い経験を持っていますし、織田・豊臣政権も、一向一揆のみならず、比叡山延暦寺・根来寺(真義真言宗)・日蓮宗不受不施派(徳川幕府においてもキリスト教と並んで禁教になっており、弾圧されています)などと対立、抗争しています。また、天文法華の乱のような宗教戦争を京都市内で引き起こしたりもしており、封建権力にとっては非常に危険な存在であったと思います。ですから、武家諸法度・禁中並びに公家諸法度と同一に、潜在的に幕府権力を覆す可能性を持つ勢力の一つとして、統制の対象として法度が出されたものです。 法度の内容は宗派によって違いがありますが、基本的には僧侶は教学と修行に励むこと。宗派の役職に就くための条件(教学・修行経験)。本寺による統制・規則に服することなどが中心となっています。 本末制度 さらに幕府は全国の寺院の本寺・末寺の関係を明確にし、重層的なヒエラルキーを築き、寺院統制を強化するために、寛永8年(1631)に、新規の寺院の創建を原則禁止し、宗派の本末関係を知るために、各宗派に寛永9年以降「寺院本末帳(末寺帳)」を作製させ、提出させています。これが本末制度の起こりとなり、全国の寺院がいずれかの宗派に取り込まれ、法度と本末制度によって幕府の統制下に入ることになります。 寺請制度 江戸幕府はキリスト教を禁教(日蓮宗不受不施派も)とし、民衆がキリスト教徒でないことを、いずれかの仏教寺院の檀家である(信徒である)ことによって証明させる制度のことです。そのために寺院側は寺請証文という信徒証明書を発行していました。これにより全国の民衆はいずれかの寺の檀家となり、寺が幕府の民衆統制の一翼を担うようになります。また、毎年家族ごとの構成員の氏名・年齢・所属寺院が記載された宗門人別改帳が作成され、これにより結婚・奉公などにより土地を離れるときには寺請証文が発行され、それにより移動先で新たな人別に記載されるなど、宗門人別改帳が戸籍の役割も果たしたとされています。 これらの制度の上に、幕府は寺社奉行をおき、また、宗門改めに関しては大目付と作事奉行の各々1名を宗門改役に任命しています。 寺院法度・本末制度は基本的に寺院・僧侶統制のための制度で、キリスト教禁教のための制度ではありません。また、法度の中にはキリシタン改めに関する項目はありません。また、法度には本寺と末寺の関係を示す内容はありますが、本格的な本末制度の確立は寺院本末帳の作成によるものと考えられています。なお、宗派によっては法度の発布段階で、本寺・大本山などの位置づけがされたり、宗派の中の個物の有力寺院に対して法度が交付されたり、数度にわたって法度が交付されるなどしています。キリシタンに関係するのは基本的には寺請け制度です。
お礼
大変詳しく教えていただきありがとうございました!
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(1)1615年朝廷統制のための禁中並公家諸法度が定められ、天皇・朝廷は栄誉の源泉として機能することになり、幕府否定の論拠は消失した。 (2)朝廷を統制する機関として幕府は京都所司代を設置し、旗本2名が任じられた。また、朝廷側でも公家2名が武家伝奏に任命され、役料を幕府が与えるなど朝廷統制の一翼を担った。 (3)1601年から段階的に寺院法度が宗派ごとに制定され、寺院は権力からの自立性が否定された。 (4)寺請制度により、江戸時代の民衆は檀家として所属しキリシタンでないことを証明させた。これにより、制度上は全国民が仏教徒になり江戸時代を通じて隠れキリシタンも含めキリシタンは存在しなかった。 この中で正解が2つあります。 どれでしょうか? また間違っているものはどこが違っているのでしょうか?
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お礼遅れてしまいすっみません>< 回答ありがとうございました!