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本領安堵と所領安堵の違い

題の通りです。 なにが違うのかよくわかりません。 できれば詳しく知りたいのですが、 お時間がかかるようでしたら、区別できる感じで教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。

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  • TANUHACHI
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回答No.5

 ANo.2・3・4です、コメント拝見いたしました。判りました端的に申し上げます。 回答2でお答えさせていただきましたように、両者に違いはありません。  もしその様な記述が教科書や一般の歴史書の類になされているのであれば、それは現在の学界のレベルでは通用しないモノであるとしか言いようがありません。  足利尊氏・足利直義による「二頭政治」の過程でそのような記述がなされているのであれば、それは短絡的な解釈としか申し上げようがありません。尊氏はあくまでも「武家の棟梁」として論功行賞を実施したのであってそれは封建制度下にみられる御恩・奉公を反映しただけであり、直義は「政治家」として土地領有に関する裁許を下す立場にあった、ということです。  「民事裁判権」と「所領裁判権」なる説明がどの様な根拠に基づく理解であるのかが不明であるために十分な説明をすることが出来ず、先日のような説明となってしまったことをお詫び申し上げます。  従いまして結論は次のように集約することができます。 「安堵」とは「職(しき)としての権利」を認めること、でありそこに付随する土地の相続・領有・勧農・営農・産物の加工及び販売・徴税権等の権利を認める行為、とすることができます。従ってそこには「本領・所領」などの財産区分はありません。  【追記】  御手数とは存じますが、その「教本」の名称と著者及び版元をお知らせ願えないでしょうか?。歴史学に携わる者として調べて見たいとぞんじます。

blackmamba44
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 簡潔で分かりやすい回答ありがとうございます。 両方とも意味的にはたいした差はないということで納得しました。 それではこれをベストアンサーにします。 お尋ねのものですが、名称は「石川日本史B講義の実況中継(2)中世~近世」 著者「石川晶康」、編集・発行「語学春秋社」です。 本当にご丁寧な説明ありがとうございました。

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その他の回答 (4)

  • TANUHACHI
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回答No.4

  ANo.2及び3です。質問者様が補足として寄せられていた疑問に関して回答させていただきます。 「鎌倉と室町の中間(?)くらいの時で尊氏の政権だったころ、二頭政治で直義が政務を担当してますよね。彼には民事裁判権と所領安堵権があるとなっているのですが、本領安堵=もともと所有してた土地の権利を改めて公認する。所領安堵=元は所有してないが、新たに与えた土地の権利を公認する、という感じでしょうか?」として質問者様は室町時代初頭の「二頭政治」の事に「安堵」の問題を絡ませて理解されている様ですので、先ずは「二頭政治」を室町時代初頭に観られる古文書の書式の側面から説明させていただきます。  中世の武家様文書は大別して2種類の型式に分けることが出来ます。1つは「奉書」と呼ばれもう1つが「直状(じきじょう)」若しくは「直礼(じきれい)」と呼ばれる型式です。  両者の最大の違いはAという人がBという人に意思伝達の仕方にあります。「奉書」が差出人の意図を「右筆」と呼ばれる人が代筆しそれを受取人に差し出す(私の主人である○○と申す者があなた様に以下の内容で書状を送るので私が主人に代わってお手紙を差し上げます)などとの「間接的な意思疎通の書式・手段」であることに対し、「直状」は文字どおり「直接の遣り取り」を示す書式です。  武家様の文書も武家が独自に考案した型式ではなく、当初(源頼朝が武家政権を創設した12世紀末の時点)は政治的にも経済的にも京都の朝廷・貴族から分離独立して存続しうる条件を持たず未だ彼らの間には何ら独自の文化を形成し得なったことから元々あった公家様の官宣旨・下文の系列と綸旨・院宣・御教書の様式を踏襲する形となりました。その後には全くの模倣のみならず独自に下文と御教書の折衷である下知状の様式が新たに生み出され、武家様として三系統の武家文書が作られていきます。  公家様の文書においては元々「私信」の性格が強かった綸旨・院宣・御教書も差出人が公的な立場にあることで発給された文書である場合には公的文書の性質を帯びる事へと変化していきます。この事は中世以後の武家様文書においても同様の現象が観られ益々加速していきます。  つまり通常の私信と同じ直接的な意志伝達の手段を用いることによって職務の執行を命じたり、経済的収益としての職(しき)の内容実現(所領所職の給与や確認)を図るようになります(いわゆる安堵にあたります)。これを書下(かきくだし)と申します。武家様文書は次の五種類に分類されます。 (1)下文 (2)下知状 (3)御教書 (4)直状・書下 (5)印判状  質問者様がお尋ねの「二頭政治」との関連ですが、室町将軍家足利氏は鎌倉時代から袖判下文と呼ばれる文書の右部分(袖と呼びます)に花押を署するほか差出書を記さない下文の書式を使用していましたが、足利尊氏は鎌倉幕府を倒幕すると、いち早くこの様式を用いて戦功者に対して論功行賞を行いこれを充行(あておこない)と呼んでいます。元弘三年十二月廿九日の日付がある「安保文書」からはこの実情をうかがい知る事ができます。この後、建武の新政の下でも尊氏が自らの名では武士に論功行賞を行っていることは彼が六波羅探題を倒して以来、引き続いて京都に奉行所を設けて諸国の武士を引きつけていたことと考え合わせると興味のある事実です。その後も彼は建武新政府に対して離反し幕府を開きますが、その過程でも袖判下文を用いています。  これに対し足利直義の使用した古文書形式に「足利直義の下知状」なる存在があります。前述の袖判下文が武士に対する論功行賞を主眼としたのに対して、この下知状は幕府の創設が「建武新政を否定し武家政治の再興」が意図としてあったことを反映させています。そして一刻も早くこれを実現するには室町幕府から見ての「旧体制」である鎌倉幕府のシステムをある程度流用せざるを得なかったとの現実的な側面も浮かび上がってきます。  「足利直義の下知状」は行政の文書としては「裁許状」に区分されますが、これは彼の政治的立場を如実に反映させているものと言えます。以下にその実例を示します。  尊勝寺法華堂領美作国英多保河北雑掌良成申年貢事、 右、地頭安東千代一丸分毎年貳拾八貫文、康永二年以来対捍之由訴申、仰守護人佐々木美作前司秀貞、今年三月二十六日以後両度対下訴之量、如秀貞執進代官高泰八月十三日謂文者、任被仰下之旨雖加催促、不及散状云々者、以難渋之篇可預裁許之由、雑掌所申非無其謂、然則於彼年貢者、任員数可弁済之状、下知如件  貞和元年十二月十七日 左兵衛督源朝臣 (花押) 釈文  尊勝寺法華堂領美作国英多保河北の雑掌良成申す年貢事 右、地頭安東千代一丸分毎年貳拾八貫文、康永二年以来対捍之由訴へ申すに依り、守護人佐々木美作前司秀貞に仰せて今年三月二十六日以後両度訴状を封じ下すのところ対下訴之量、如秀貞の執り進むる代官高泰八月十三日の謂文の如くんは、仰せ下さるる之旨に任せて催促を加ふると雖も、散状に及ばずと云々、てへれば以難渋の篇を以て裁許に預かるべきの由、雑掌の申す所其のいはれなきに非ず、然れば則ち彼の年貢に於いては員数に任せて可弁済すべきの状、下知すること件の如し。 ここには鎌倉時代の下知状と異なり、執権・連署が将軍の命を奉じる形は見えません。将軍が自らを命令者として臨むとの意識を読み取ることができます。 質問者様が補足として疑問を寄せられたのはこうした事例に基づく事だったのではないでしょうか?。  端的に言うならば、武士にとっての足利尊氏が「カリスマ的な存在」だったのに対し、足利直義は「優れた実務者」の様な存在だった、というところだと私は思います。  拙い説明ですが、以上でよろしいでしょうか?。  

blackmamba44
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 できればながーーくではなくて、 試験で出た時に判断がつくぐらいの知識が良いのですが。 二頭政治で直義が所領安堵を・・・ってとこは教本からの引用です。 本領安堵?所領安堵?なにがちがうん?となっただけなので、 わがままですが、簡潔にしていただければありがたいです。 「もう、こんなわからずやに教えるか!」とお考えでしたら、 こちらをベストアンサーにさせていただきます。 本当にご回答ありがとうございました。

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  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 ANo.2です、お待たせして申し訳ありません。お尋ねの「本領安堵」と「所領安堵」の違いですが、先日も申し上げましたとおり両者に違いはありません。というよりも「所領安堵」なる歴史用語が使用されていることの方が不自然です。  「安堵」との言葉が日本史学で用いられている背景ですが、「知行の認可」と「相続」の2つに区分できる側面があります。従って具体的に「ある土地への関与の権限を認定してもらう」ことと「何を相続する」のか、が問題となります(ここまではよろしいでしょうか?)。  最初に前者の問題を採り上げます。元々の「安堵」は古代的秩序に基づく支配の観点から撫民政策の一環として「安住の地に身を置くこと」を示す用語でした。しかしながら9世紀10世紀に観られる律令制的政治システムの変質と崩壊に伴い「土地に関与する本来の権利」と「現実」の間にギャップが生じることとなります。  こうした問題を回避する手段として所有者としては所領の保護(その土地に関する全ての権利の認知)を求める必然性が発生します。現代で謂うところの「原状回復申し立て」に該当する手続きです。こうした事態を反映している史料として次の事例を紹介させていただきます。これは厳島神社文書にある「庁宣」の史料です。  「庁宣 高田郡    補任郡司職事 惣大判官代藤原朝臣頼方   右、依為先祖相伝所領補任郡司 職補任如件   天喜元年二月五日  大介藤原朝臣」 大意としては「高田郡の郡司として藤原頼方を任命する」とのことです。郡司は在地の土豪が任用されるケースが殆どでありまたその職も世襲的性格の強い地位です。この史料からは高田郡の郡司職は藤原頼方の世襲の職であると同時に世襲の所領があってその管理運営に関する相続権を認める、という事象をうかがい知る事が出来ます。更に着目すべき点として文言の中にわざわざ「職」の表記を用いていることです。この事からは「土地」そのものよりも「土地に関する職務権限としての『職の体系』」に組み込まれたヒエラルヒッシュな構造の方が相対的な比重としては重い位置を占めていたことを意味します。  端的に言えば「土地」を持っているだけでは何の意味も持たず、「土地を活用すること」で生ずる様々な権利を手に入れる事が出来るということになります。  こうした観点から「安堵」の歴史的性質を考察するならば「本領安堵」と「当知行地安堵」の違いも明確となります。ある土地を巡って「かつての所有者」と「現在の所有者」が対立している場合、嘗ての所有者の権利を認めるのが「本領安堵」、現在の所有者の権利を認めるのが「当知行地安堵」となります。訴訟にあたっては「原状回復」と「現状追認」の何れを認めるかが焦点となります。  以上が「安堵」に関する大づかみな説明です。  尚「補足」で追記されている御質問に関してですが今一度、精査の上でお答えさせていただいてもよろしいでしょうか?。

blackmamba44
質問者

補足

ご丁寧な解説ありがとうございます。 さらにお答えが頂けるなら、待たせて頂きます。

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  • TANUHACHI
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回答No.2

 両者には本質的な意味での変わりはありません。のちほどその根拠と史料を提示させていただきます。

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  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.1

>区別できる感じで教えて頂けたら幸いです。 区別できる感じでの回答です。 【本領安堵】 鎌倉・室町時代までは、各地で各豪族が土地(支配地)を持っていましたよね。 つまり、先祖から代々受け継いできた土地です。 松平郷に土着したので、松平姓にした。 豪族と土地は「一体化」していた訳です。誰からも、貰った土地ではありません。 鎌倉幕府・室町幕府は「配下になった豪族に、本拠地(本領)の支配権を今まで通り認める(安堵)のです。 【所領安堵】 戦国時代、多くの土着豪族が淘汰されますよね。 力のある豪族が、弱体化した豪族を破り新たな土地の支配権を有します。 新たに獲得した土地を「所領」と言います。 信長の時代、豪族は「戦闘集団」として武士階級になりますよね。転勤族の始まりです。 「○○郷を没収し、新たに○○郷を与える」(朱印状) 本拠地を没収され、新たな赴任地に一族・家臣団は転勤します。 ここに、先祖伝来の(誰からも貰った土地でない)本領から、実力者から新たに与えられた土地である所領に移ります。 江戸時代は、多くが「所領安堵」です。 各地の大名が土着し本領化しないように「藩主交代時には、一度その土地を幕府が没収。新たにその土地の支配権を新藩主に認める」(朱印状)という手段をとります。 余談ですが・・・。 江戸時代を通じて実質「唯一本領安堵」されていた藩が存在します。 たった5000石ですが、大名と同じ格式を許されていました。古河公方家である足利・喜連川藩です。 家康から「勝手」を許されていたので、明治維新まで一度も幕府から朱印状を貰った事はありません。 徳川家の家臣でないので、参勤交代も免除です。 参勤交代が無いので、幕府から江戸屋敷を拝領する事が出来ません。自ら、江戸に土地を購入し屋敷を建てています。 明治には、子爵になっています。 足利将軍家子孫は、天皇に弓を引いた!として無位無官です。

blackmamba44
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 もう少し聞きたいのですが、鎌倉と室町の中間(?)くらいの時で 尊氏の政権だったころ、二頭政治で直義が政務を担当してますよね、 彼には民事裁判権と所領安堵権があるとなっているのですが、 本領安堵=もともと所有してた土地の権利を改めて公認する。 所領安堵=元は所有してないが、新たに与えた土地の権利を公認する。 という感じでしょうか?本領安堵はなんとか、わかるのですが、 所領安堵がなかなかって感じです。 ご回答ありがとうございました。

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