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表敬の技法についての酷く拙い愚問です。

謙譲表現では『動作主の行為の目的対象への表敬』が可能になるのだろう、と思われますが、『話し手からその動作主への(ユニキャスト的な)表敬』をも【同時に】何らかの表現で盛り込む、という技法は有り得ますでしょうか? 一般的な教科書に記載されている通りの回答を御願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.1

ユニキャストの意味するところも含め、ご質問文の日本語が難しいですね。(-_-;) 私にとってだけかもしれませんが・・・。 「部長が社長をお迎えにあがります」 などと課長が言う場合、社長に対する敬意と同時に部長に対する敬意も表現する方法はないか、ということでしょうかね・・・。 「部長が社長をお迎えにあがるとおっしゃっておられます」 などを想定なさっているのかもしれませんが、 「対象」が目上の場合、動作主に対して敬意を払わないことが一般的らしいので、仮にこの例のように言えたとしても、それは適切な表現とは言えなくなってしまうような気がします。 ご質問の意図とずれているようでしたらご容赦ください。     

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 二重敬語の誤りの確認を意図していますので、 賜った回答の内容が私の期待の通りの御意見です。

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